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さらに オリバーストーンの映画で、考える

アメリカのベトナム参戦は、失敗だった。 それでも飽きず、アメリカは まだ戦争をやってる。
多くの 犠牲者が出ている。何が戦争をさせているのか。
紛争解決の手段として戦う。  世界の警察と自負する正義感  経済問題を背景に見るものもある。  為政者の野心ともいえる。
「JFK]では、極端な保守主義者が そのイデオロギーの表現のため 政権を取り込み マスメディアを誘導して 積極的な介入を遂行させ、自分達の意に反して撤退を主張した、ケネディーを暗殺したとされている。
「7月4日にうまれて」では、ベトナムで傷を負った主人公が、反戦の活動家として世論に訴え
 盛り上げていた。
当時の反戦運動は、大きなうねりになった。共産国とか自由主義国とか 国家の都合で
多くの人達が災難にに会い 犠牲者になってしまう不合理に、異を唱える。
それでもアメリカ政権は変わらない。政権として軍事施策の正当性を、主張する根拠を想像すると  建前は、問題のある国家政権に罰を与え、そこの国民を、救う 独裁国家を倒して、
民主化する。少々の犠牲を払っても 結果的に 世界の平和に」通じる。 
ベトナム停戦の為のパリ協定の合意後の、会見で ベトナム側 責任者が「私は、共産主義者です 共産主義においては、戦争はなくなりません」と、発言
アメリカ政権は、「世界がどう変わろうとも われわれは、戦争をする」と、言いたいんじゃなかろうか
話を戻して 戦争をする 本音を、想像すると、結局 アメリカの利益になるか  資源エネルギーの利権を狙っているんじゃないかと、憶測されている戦争もある。一度始めた戦争は成果を上げなければやめるわけにいかない。プライドの問題。 経済停滞時の刺激策 莫大の軍事利権の存在が暴かれている。そして 反米国、対して見せしめのような威圧行為。戦後にはアメリカンスタンダードにより近い意思を持つ国家に変えようとしている。
アメリカにとっては、他国を正常化する正義の行為かもしれないが 相手国にしたら 余計なお世話だ。
日本は1945年の敗戦後戦争に参加していない。何らかの 加担する行為はあったが、武力
行使には、加わっていない
これは 不幸なことだろうか
「平和ボケ」と負の考えを、言うものもいる。 平和にひったっていることは、危険なんだろうか
佐々部 清監督の「チルソクの夏」で、韓国の高校生が「だから日本は、平和でいい国なんだ」と言う。軍事休戦中の国の若者も平和であることを、うらやましく語っている
為政者の都合で、行われる戦争に、多くのものは、困惑しているはずである。戦争のない社会の実現を誰もが求めている。その目的に到達させるための治政が、行われているのか。
アメリカは今,次期大統領を選択するためのムーブメントの真っ最中。聞こえてくるのに、経済問題は多くない。 国民が、対立をなくし一つになることの重要性を、訴える候補者が 最も注目されているという。イラク戦争に反対したのが本心であると信ずるならば 新しいアメリカが期待できる。
ただ 過去に同じように期待を持たせながら裏切られた例もある。議会との対立。
世論を誘導する目的で マスコミに取り入る勢力が、報道を、ゆがめ 国民に誤った判断を起こさせる。 平和になると こんどは、経済に不満を持つものが増えてくる。
いろんな要素で、結局 政策を狂わし また元に戻る
歴史は、繰り返すというが 世紀も変わって 今度こそアメリカに変わって欲しい 周辺国も協力して欲しい 「人の命は、地球より重い」と言ったのは 日本の首相だ。それも 現首相の
お父上だ。この大前提で 世界が 成り立つことを期待する。
オリバーストーンのアメリカ映画からスタートしたので アメリカへの大きな要望と期待となったが、もちろん 過去 歴史上のことでもない 近世で、同じように悲惨で混乱した状況をもたらした国家政権があった これらの 他の大国にも、同じように、要望する。


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市川昆の 東京オリンピック

また 映画の話だけど
市川昆監督 死去のニュース 新聞で見た テレビも偲んで 詳細に監督の 業績を、報道していた。
私にとって 最も 印象深いのは何といっても 「東京オリンピック」、昔は、体育の日に 毎年のように この 作品を テレビで放映していたので 何回も見た。でも この映画のすばらしさを 強く認識したのは 80年代の終盤だった。ロス五輪の特集だったか 記録映画だったか定かではないが テレビで見た直後 この「東京オリンピック」を見た 重みが全く違った
単なる記録映画ではない。登場する競技者 ひとりひとりの内心が 思い伺えるような 張り詰めた気持ちになって見てしまう、引き込まれてしまう画面だった。
勝者の喜 敗者の落胆 疲労困憊の苦しみ 戦う直前の緊張、スターと前の心臓の鼓動が本当に聞こえてくるような重々しい張り詰めたもの 全てが 画面に現れる表情が 表現している。ナレーションで「我々が感動するのはこういう場面です」と言う,そこに写ってるのは、
過酷なマラソンを走り終えた敗者たち。 疲れ果て放心状態の顔や腫上った足。
すべての能力を出しつくした競技者の美しさが描かれている
この映画を批判した 政、管の関係者がいたらしい。彼等には オリンピックはただ晴れがましいスポーツの祭典で、競技の事実だけを記憶していれば満足だったのだろう。
人間が限界まで力を出し切ることのすばらしさや、美しさを、感じ取る器を持っていなかったのだろう。
2・3日前の朝日新聞で リーフェンシタールの事が特集記事にあった 彼女の撮った ベルリンオリンピックの映画「民族の祭典」も その芸術性が評価されている 残念ながら ヒトラーの時代のことで 彼の野心に利用され 不幸な映画になってしまった。
「東京オリンピック」では 生中継されたテレビのアナウンスがそのまま流されている
冒頭の 「世界中の青空を、東京に持ってきたようなすばらしい青空です」という表現で、東京人全てのよろこびがつたわる。そして 閉会式での各国選手が人種を問わず 民族を問わず
母国の体制を問わず、大会に参加した競技者同志として 肩組 一体となって行進する様子に NHKの鈴木文弥が発した
「すばらしい 全くすばらしい 世界の平和とは、人類の平和とは、こういう事を指すのでありましょう」
この 言葉を聴いたら もう感動の 絶頂。目頭が熱くなる。
「ビルマの竪琴」も小学生の時見て胸を打たれたが 「東京オリンピック」は、私に 最高の感動を与えてくれる作品だった。市川昆 の、業績をあらためて称え、感謝の意を捧げたい。

NHKBSで「プラトーン」をやってた。 が、 残念ながら 観たのはラストの場面だけ
放送があることを知ってたら はじめから見たのに。でも、あの凄惨な戦闘場面と戦場から去っていく傷ついた兵士が、尋常でない状況を体験したことを悟り それを 人々に伝えていく
ことを 心に期す台詞を,聞いて、二十数年前に初めて この映画を ビデオで観た時と
同じ戦慄をおぼえた。戦場という場は、狂気としか思えないこと。「何もしなくていいのか
このまま成るがままに世界を見てるだけでいいのか」と、映画に責められているような気がした。あのとき と同じ感情がよみがえってきた。
この映画で オリバーストーン監督を知り その後 「エルサルバドル」「7月4日に生まれて」
「JFK]それに 「ウォール街」を見た。前3作は 内戦やベトナム戦争とそれにかかわった政権の不条理をもう一度思いなおし 「ウォール街」も社会の行く先を 考え直させる いずれも
人類社会の正 否を改めて考え直さずには居られない作品だった。


「それでも僕はやってない」で考えさせられた裁判の限界と不信

07年度 キネマ旬報賞で周防正行監督の「それでも僕はやってない」が、最高賞を、受賞し
その表彰式があったという ニュースを見た。
この映画を観た時「絶望的」と表現したくなるほどのむなしさを感じた
高橋長英扮する傍聴マニア(後に不当裁判でひどい目あった経験を持ってるということがわかる)が言った台詞
「刑事事件で無罪判決を出すということは、検察を否定することで 国家に
逆らうことだ。だから裁判官は国家に逆らってまで無罪判決を出そうとはしない 出世を考えたらなおさらだ」
この台詞が頭から離れない。こんな事情で冤罪が発生したらたまったものじゃない。
でも この台詞には、真実みがあるのだ。
行政事件で 必ずといっていいほど 最後は住民敗訴 国 公共団体の行政側勝訴という結果になる。昭和48年北海道の長沼基地訴訟で 自衛隊違憲判決を出した裁判官はその後
全く裁判長の席に座らせてもらってないという。司法は独立しているはずなのに 人事権は国が持ってる。裁判の交流制度で 検察管や国の官僚が裁判管となり 彼等の出身組織の思考判断で 逆転のジャッジをしてしまう。
裁判所も国の機関で国家意思を実現することを目的にしてはいないかと 不信を感じる。
高知であったバスと白バイの事故での裁判で 何人もいる目撃者の証言と 警察の主張が
相反するという 疑問から マスコミが警察に疑問を抱いて報道をしている。その裁判で 我々からみたら その主張が全く正しいと思える 被告を全く信用できないと言った裁判官が
他の裁判で 「被告の主張は警察の主張に反していて 信用できない「という 判決文を出していた。現在の公務員制度は「公務員は悪いことをしないという前提で出来ている」と、ある
大臣が言ってた。悪いことをするものは公務員になってはいけないということだが、昨今 公務員 あるいは 官庁 公共団体の不始末はざらにある。警察にしても、検察にしても 裏金問題に国民からは非難の声が上がっており「犯罪を取り締まる警察が、いまや 犯罪者になってる」といったコメンティーターもいた。鹿児島志布志の事件では 信じられない、事件の捏造
が、行われ しかも 暴力的な取調べまでもが表面化し 国民を唖然とさせた。こういう実情を
踏まえてもなお 警察は、全て正しいとするのは 同じ公務員としての仲間をかばう意識があるのでは、と、考えてしまう。
志布志事件では 誰がどう見ても 被告は無罪で、裁判はそうなったが。その後 取調べ中の暴力的な、行為で 積に問われた 元警察の裁判では 志布志事件での原告 検察が 反省することもなく いまだに 警察をかばって 量刑を軽くしようと画策し 厳罰を望む被害者に
暴言をはく始末。刑事事件では、 警察と検察が手を組む もっとも 起訴するしないの判断は検察にゆだねられ 警察の捜査に違法や不合理がないか見極めることも 検察に求められているはずだ。その 警察検察に 裁判官が仲間意識などを持ってしまっては 司法は死んでしまう。
映画では 「無罪の人を罰してはならない」ことを信条とする裁判官がまず審理を進めていき
被告 弁護人の意見にも より耳を傾ける しかし その裁判官が転出してしまい 裁判長が交代する 前の裁判長の信条を 聞いて知っている裁判官だが その後の裁判は 完全に
被告有罪を前提に進んでいく 弁護側の証拠申請や 証人請求がことごとく却下され、はじめから決まってたかのように 被告に有罪判決が出る。判決文を聞きながら 主人公の被告は
「真実を知ってる この僕が 裁判官を裁いている」と 心境を述べる。
本当に 裁判官を 裁く 市民裁判所が、必要になりはしないかと思った。裁判員制度が始まっても 罪があるなしのジャッジだし 裁判官の誘導も懸念される。裁判官と任官権を持つ監督者に対して 市民が意見をいえる場が必要じゃないだろうか