店主の気ままなひとり言
珈琲工房かわもと店主の、ほとんど独り言

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季節は巡り 年を重ねて

日曜日から寒くなった。10月の末だから 例年ならこのくらいの気温が本当なんだろうが
それまでが 暑かった。急な気温の変化で 夏から いきなり冬になった感覚だ。
最近になって明け方の冷え具合で、秋を感じてはいたが、日中の日差しの暑さは、夏日の
それだった。70年代後半に聞いた 藍 美代子の「手のひらの秋」を、思い出して
口ずさんでみたが 手のひらを風の中に 出してみても 秋風は止まらず じりじりと 
まぶしい太陽の光線を痛いくらいに感じるばかりだった。それが いきなり ぶるっと くる
ひんやりした空気を感じるようになって、季節が変わった。
この季節の変わり目に 苦戦するのがコーヒー屋の常だ。 人の味覚が変わる。豆の湿気など
状態が変わる。熱源が、同じ強さでも 到達温度がいくらか 低かったり 時間がかかったり。
焙煎のやり方を 調整しなければならない。うまくいかず やり直しも 出てくる。いつもなら
こういう愚痴っぽいことを吐いてしまっていたが、今年は うまくいってる。
水分が ちょっと多めの豆と、火力がちょっと弱めの備長炭が、うまく マッチしたかな。
いつもより時間がかかる焙煎が、豊潤な、アロマを醸し出している。
この コーヒーの味見をすると より強いコクを感じて 「秋の味覚」を感知する。
さて コーヒーは、問題なくうまくいってるが、もう一つの問題は、寒くなると出てくる神経痛
左側 お尻と太ももの後ろに まだ 微妙だけど 鈍い痛みを感じる。あの坐骨神経痛が、今年も
襲ってきそうな気配。6月に痛めた ふくらはぎの 肉離れも完治はしていない。起床の時
よく攣ってしまう。それで 毎週 整骨院の通っているのだが、次回からは この坐骨神経痛の
治療も加わることになるのかも。立っても 座っても 寝ても痛い 神経痛 出始めは 辛い。
一月くらい経つと けっこうその痛みに慣れてきて あまり気にせずに済むようになるのだが
今は またあの苦痛の時がめぐってくるのかと思うと 憂鬱だ。
体重を落としたり 筋量を増やしたりすることで 改善できることは わかっているのだが
痛まない夏の間 すっかり忘れていて、肌寒さを感じ 背中の筋肉のはりを覚える今になって
思い出し後悔している次第。怠ったつけは受け入れざる得ない。
年を重ねると 毎日 鍛錬している技量は、向上してよりよき結果をもたらすが 肉体には、
さまざまな 故障が発生し、老化していく。
20年使ってる焙煎機は、年々豆の状態に合わせて自ら 最敵の焼き方をしてくれているような
気にさせてくれる。私は こまめに手入れをして故障を防ごうとするのみ。ケアが大事ということか。
私の体の あちらこちらの疲労を感じる部位のケアをもっと身を入れてやらねば。
からだの老化は 能力の衰えと故障、必要以上のエネルギーをとらないように気をつけながら
オーバーヒートにも注意して 苦難の冬を乗り切ろう。
でも まだ 10月、ほんとは 秋なんだ。 冬はまだまだこれから。筋肉のハリももっと強くなって
本格的な神経痛の季節がやってくるのだ。

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親が壊した家庭で、娘は。

12日の朝日新聞に、島尾伸三さんのインタビュー記事が載っていた。父親 島尾敏夫
とのかかわりを、書いた 新刊本についての記事だった。やはり これまでに出した、
本にあるのと同じように。壊れた家庭で づっと絶望していたという。
「親として大人として機能してなかった」と言っている。
小学2年生で 自殺を考えた ということに すごい驚きを覚え ショックだった
私の高校時代、島尾敏夫氏は、県立図書館奄美分館の所長で、その 長身で、凛と
した姿を よく目にした。同じ敷地内に官舎があったので ミホ夫人にも会ったし 話をした
こともある、やさしそうな印象しかなかったが、家庭内での二人に対する 息子 伸三さん
の 評は辛辣だ。「思い出したくない」とまで言ってる。
これを読んで 「自分達もそうだ」と、認めざる得ない。私たち夫婦も、子どもにとっての
家庭を 壊していた。と言っても 島尾夫妻のように,高尚な域にはないから、感情をに任せ
てぶつかり合う 騒々しいだけの 諍いだったんだろう。娘は、「よくわからない」「興味ない」
ように 振舞っていたが、ちゃんと理解していたのは間違いない。当然 居合わせて 苦し
かっただろう。私が 聞いてくれないので 妻は、あらゆる不満を 娘に ぶつけていた。
10歳を過ぎた年齢なら この事態は理解できていただろう。学校から 帰ってきて険しい表情
で お互い 口を聞かぬ 両親を見て 悲しかったことだろう。
じっと 私の目を 見て「絶対 離婚しちゃ駄目だよ」といったことがあった。「うん 大丈夫だよ」
と笑って見せたが 本当は どうなるか自信はなかった。娘のために うそでも そう言うしか
なかった。恥ずかしかった 情けなかった。
娘は 年齢から判断して 精神的に幼い。不安定でもある。無気力か?と思えることもよくある
一般社会では、負の評価となる これらの状況の 原因は、家庭の問題にあり その 責任の
全ては 両親にある事は 前々から、わかっていた。それにも関わらず、お互い 身勝手な
主張と行動を繰り返し、子どもにとって 安らげるはずの家庭を かき乱し 苦痛を憶える場に
してしまった事、本当に申し訳ない。
「お父さん大好き」と、娘が時々 言ってくれる。軽口で言っているように聞こえるが、ありがたい
島尾伸三さんも「どんな親でも 子どもは親がやっぱり好きなんです」と言っている。
また 記者の感想で 「息子として 親に 従順であろうと努めた」とあった。
普段 親の言うことなんか なかなか聞かない子だが 明らかに 親を喜ばそうという意思で
行動することがある。「やっと 判ってくれたか」と思う反面「無理してるんじゃないか」と も
思えたりする。今出来ることをやればいいのだと。他と比べたってしょうがないと判ってても 
せめて 人並みになどと欲が出て 口うるさく言ってしまう。こちらは 親というものの本性か。
娘が素直に聞かないとき ほとんどそうだけど こちらが穏やかな内心で、居られるかどうか
で、娘の成長が どの方向に行くかが 決まるような気がしてくる。娘のことを愛しているのは
絶対で間違いないのだから 信じて待っていてあげよう。 感情をさらけ出して 争った 醜い
両親に。絶望せずに居てくれた娘に 穏やかな家庭を、与えてあげたい。
たぶん 今後も、娘は気力を漲らせて頑張る事はなく、だらだらとしてる印象の生活を続ける
だろう、私は 親の性分として ガミガミ小言を言って たまには怒鳴るだろう。それでも 内心
穏やかな心情を保ち、娘がやりだすのを待とう。今 娘に現れる内心の問題は 全て 私たち
両親の、愚かな行為に傷つけられたものだから、それを癒す為には、決して抑圧と、受け止め
られる、言動を向けないようにしなければ。


短い命 愛猫ジェイ逝く

1歳にもならぬ 我が家の 猫 ミシェルがいきなり子どもを生んで 騒動だったことを
書いたのは 6月だった。実はその2ヵ月後にも また生まれたのだ。あまりに早くて
ビックリした。まだ3ヶ月の 子猫のことさえも心配だった 0歳の母猫が、さらに一匹
育てられるか。案の定 母は、子育て放棄の様、さらに 兄猫DJは、新しい猫の誕生を
敵かライバルの出現としか思ってない様で 自分の兄弟を 虐待する。上の娘がジェイ
と名づけた 下の娘は ミルキーと 呼ぶ 私は 親がミッシェルなら子はポルナレフだ、
と勝手にそれぞれ読んでいたが ジェイが、簡単で言いやすく いつの間にか みな 
ジェイと呼ぶようになっていた。
この 子猫が、障害を持っていることがわかったのは、つい 半月ほど前だった。
成長が遅いとは思っていた なかなか 歩き出さない 、目は、開いているけど、瞳孔
が、見えない 泣き声も 弱弱しい。おっぱいを求めて母猫に近づいても 兄猫DJが、
上から 乗っかって 邪魔をする。それが 遅い成長の原因かとも、思ってた。
ある朝 私の 膝の上にいた母猫に、オッパイをねだっていた赤ちゃん猫。母猫が無頓着
で、たどり着けないため、同じようにわたしの膝に乗せてあげた。ところが 母猫が 動いて
赤ちゃん猫が 落ちてしまった。 その後 赤ちゃん猫ジェイの 頭が後ろに曲がってしまった
首の骨が折れた と 思ったが 足は 伸びきったままだが 動いている。自分で 身体を
くねらせて移動はするが、起き上がれない。これでは 益々 おっぱいを飲むのは困難と思い
我々で ミルクを上げることにした。2、3日後。専門知識を持つ人に 見せた「水頭症だ」
一目見て そう 告げた そういえば 身体に比べ 頭が大きい 伸びきった手足が、その
病の特徴だとも言う。早産であったことが、原因のようだ。もう 直る見込みはない。
いつまで生きられるか判らないが 家族で 出来る限りのことをして、大事に 世話しよう
と、皆で話した。
子猫用のミルクと 哺乳瓶を買ってきて 昔 わが子に与えた時と同じように お湯を沸かし
少し冷まし 粉ミルクを溶いて ジェイを 胸に抱き、毎日数回 ミルクを与えた。初めは良く
飲んだ。元気になり 身体もよく動くようになった。人間と同じように 夜鳴きもあった
抱いてやると泣き止むのも 人間と一緒。ただ 兄猫DJは、相変わらず ジェイの頭を押さえ
つけたり、寝床の座布団から蹴落としたり。母猫ミシェルも わが子のことはほったらかし。
ここ二日ほど づっと寝ていた ミルクも 飲めなかった。
そして 昨日 昼 職場から戻ると 畳の上で 冷たくなっていた。
ミルクを飲んで 元気になった頃 首も少しだが 動かしていた 腹ばいでも 手足を動かして
移動が出来た。「良くなるんじゃないか」 期待した 矢先のことで 悔しかった。
早かった。何年でも 生きている限り 世話するつもりだったのに。とても 可愛い顔をしていた
抱っこして 表情を見るのが 楽しかった。最後の寝顔も穏やかに眠っている様だった。
我々の手を 煩わせないように 早めに旅立ったのかもとも、思えてくる。
障害を持つものの存在とは、我が家の幸せだったのかもしれない。皆が 宝物のように 大事
にした。ミルクを飲んでくれたことを おしっこが出たことを 皆で 喜んだ。この ジェイの存在
は、わたしの家を明るくしてくれたのは間違いない。 我が家の不幸を 自分が引き受けて
あの世へ もって行ったのかもしれない。今 ジェイの居ない 静かな夜を過ごしている。母猫
ミシェルと兄猫DJは、いつものように 家の中を走り回っている。同居の人間3人も いつもの
生活を営んでいる 、 ふと ジェイの 気配がないことに気づく、でも 寂しさは、ほんの瞬間で
ジェイが昨日までいてくれて、一生懸命生きて見せたこと、我々に希望を持たせてくれたこと
大事なものと幸せな時間を与えてくれたこと、で、穏やかな気持ちでその姿を おもいだすこと
が出来る、喜びをさえ覚える。

幸せな時代

また また youtubeの動画を長々と見てしまった
今回は ほとんど 中学時代に よく見聞きしていた、歌や 歌手達 初めはフォークを
聞いていたのだが、シューベルツ トワエモアを聞いた、ページで 懐かしい 歌手名を
見つけて 黛 じゅん や、西田佐知子 小川知子、ヒデとロザンナ さらに 洋楽の
ハミルトン ジョー フランク&レイノルズ ジリオラチンクエッティー シルビーバルタン
昔を思い出しながら 見ていた 小川知子が、泣きながら 「初恋の人」を歌ってる
シーンは、昭和44年2月の日付けで、彼女の恋人だった レーサーの 福沢幸雄が
事故死した直後の事だと 思い出した。ただ 途中から他の出演者が、集まり寄り添って
るのは 演出が、あったようだが
実は 最近 中学時代のことを 懐かしむ機会が 多かった 先月 熊本で同窓会が
あったのだ。私は 参加できなかったが、参加した 皆が 「良かった」と感激した様子で
話すのだ。その会の模様や 参加者達の現況など聞かされた 私と やはり不参加だった
東京の山元順公は、皆に会えなかった故に 誰彼の消息を知りたがったり 昔の 思い出
エピソードを 電話で 延々と しかも 何度も 話し続けているのだ。中高一貫校だが 私
は、公立高校受験のため中3の冬休みに、転校した。 休み中に 急に決めたため 皆に
別れを言うことも出来ずに 学校を去っていて、そのことが 長い間心残りだった。
ほとんどの人が 寮に入っていて 生活をともにしていたので 繋がりも 強かったと思う
山元のように 私と同じ 高校に転じた者や、奄美に帰省するものは、ちょくちょく 会えたが
他の ほとんどのものとは それっきり会えていない。予備校と大学で、一緒になった者も
何人かいた。それも かなり前のことで、皆に会いたいという思いは 今 最高に強くなって
いる。生活彩館の松尾典昭が、写真を送ってきてくれた。山元も同じものを手にして、
見ながら 電話で 「これは 誰 今何してる」と づっと話しているのだ。みな頭が薄くなっ
てる、昔 老けて見えた社会科の教師が参加していたが 写真の中では 教え子達と
変わらない容貌に成ってる。でも よく 顔を見ると 昔の かわいい顔が 思い出される
やんちゃだった奴は、やはり やんちゃな顔をしている。おぼちゃまだった者は、上品なおじさん
に、成ってる。医者の息子が多かった。彼等は やはり 医者になってる。歯科医の息子も
中学時代の成績はどうだったか 忘れたが やはり 歯科医になってる。親と同じ職業に就いた
者が、多い。成績優秀で 医学部を目指していたはずの者も家業が飲食店だったものは
スナック経営者に 会社員の息子は 企業に勤めている。ただしやはり秀才ゆえ 一流企業の
役員だったり 部長だったり。数学の秀才で 早稲田の理工で、数学を研究していたはずの
磯田という男は 八代で 酒屋をしている。実家が酒屋だったから。このような跡継ぎも結構多い
松尾もそうだし 焼酎白岳で、有名な 人吉の高橋酒造の社長も 同窓の光宏 五代目だ、出水
の白尾川産婦人科の院長もそう。当時としては 皆 恵まれた家庭の子達だったのだろう。
寮費 学費 合わせて 2万円の出費だった。大卒初任給とあまり 変わらない金額だった
こんな 環境に 居させてくれた 今 病気療養中の父は、えらかったと思う 感謝せねば
写真で見れなかった 懐かしい人達も思い出される。電報を送った私のことを皆憶えてくれてい
たようだ。次の同窓会 五年後とか言ってる。早く会いたい 二年後くらいにしてくれないだろうか
冒頭の歌を聴いて 酒井和歌子や 内藤洋子の映画やテレビの岡崎友紀に心をときめかせ、
われら青春や 若大奨の大学生活にあこがれた 中学時代 しみじみ 幸せだった と思う。







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