店主の気ままなひとり言
珈琲工房かわもと店主の、ほとんど独り言

プロフィール

Author:川元 正樹
店主です。よろしく!



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



さすが 次郎様

以前 ミシュランの日本版について、あまり好意的でない 感想を書いた。
お金をかければ おいしいものにありつけるのは、当たり前。しかし
庶民はそんなもの頻繁に食べに行くことは、出来ない。ガイドブックを
見て楽しむのが、一般的だろうと。
三ツ星獲得のすし屋 すきやばし次郎 に、ついても 平均客単価3万円と聞いて
高級感を売りににして、客はステータスを求めてやって来るのだろうと、浅はかな
思い込みをしていた。NHKテレビ「プロフェショナル」に 店主の小野二郎さん
が、出ていた。その仕事ぶりが紹介され、話を聞いて,勝手な思い込みをしたことを
今 反省し恥じている。 
お客さんを満足させるために、相当な手間をかけ、五感の神経を最大に働かせている
素材選び 中がふっくらした握りなど 基本であろうことが完璧なのは当たり前なんだろうが、
お客の食べ具合によって、握るタイミングを、計っているという。お客それぞれの 食べる
スピード、一口食べた後の表情など しっかりお客の状況を確認して、「今出せば このネタ
は、最もおいしく感じられるだろう」という計算を、その時々で正確に判断できるのだ。
独自に 考案した 道具類も、お客から見て 綺麗に見えるように作ってある。
とにかく お客のためと言う視点が、徹底されている。
イタリアンのシェフが、「注文した客のテーブルまでの距離を考えて パスタを茹でる時間を
決める」出来立てをお客に味わってもらうため。という話を聞いたことがある。
一流の店というのは、最高の味を作るため,満足してもらうための事が徹底してできる店なのだ。
コーヒーも 点てはじめてから3分以内にお客さんに提供する、という原則が、ある
コーヒーは熱で酸化するから、それが進まないうちに飲んでもらうほうがいい。私は 大体
守れていたと思うが、一度に10人分を、点てなければならないときは、先の原則を守る
のは、不可能だ。一杯づつ点てれば可能だが 同時に注文したお客で、飲めるまでの待機
時間に相当な差が出る。もし 一流の店なら 同時に点てる数を工夫して、味を最大限に
守り、、待ち時間を最小に出来るよう努めるだろう。普通の店は、楽に点てられる方法を
選ぶのだ。
コーヒーは、加工品だ。寿司は素材を、そのまま活かす。私のアイドル的シェフ三国清三
は、素材の味をいかに引き出すかを、テーマにしたフレンチのシェフだが、「素材をそのまま
活かす最高の料理は 寿司だ」と言っている。そのときの最上の寿司ネタと、熟練した手(もし
かしたらその手のひらが、おいしさを与えているんじゃないかと思ってしまう)が成すネタに
対抗できる食感の握られたシャリ、それを、よりおいしく感じさせる道具や、職人の細やかな
演出、これらすべてを提供されて 客は それに3万円の価値を認めるのだ。
高い魚を使えば高い寿司では、なかったのだ。
コーヒーに当てはめてみて 私に改めたらよりよくなりそうな、いくつかの点が認識できた
良い商品は高価なものではなく、より心配りがされたものが、それなのだろう。
小野二郎さんが 長い修行の中で身につけたもの、それと同様のものを得ろうと思えば 
もっともっと長い時間、日々真摯に仕事に向かい、上を目指す意気を、忘れてはならない。

スポンサーサイト

追悼

初めて彼女を見たのは、高校1年のとき。高校の中庭を、挟んだ向かい側の教室から
私達の教室を見て彼女が笑っていた。私達の様子を向こうから見ていて、おかし
かったのだろう。。私達の授業は、生物。先生は新任の冗談ばかりで、生徒と、一緒に
ふざけ合う人。一人の生徒が「先生、あの子 こっちばかり見てるよ」と、発言
して、我々皆一斉に、向かいの教室を見た。窓際の後ろの席の女子生徒が、我々が
注目していてもまだ こちらを向いて笑ってた。
2年になって 彼女と同じクラスになった。やはりいつも明るく 笑顔を絶やさなかった
たぶん 名前は既に知っていたはずだ。成績のいい子だったから、成績一覧表には、
名前が表示されてたはずだ、我々の時代は学年で50番くらい クラスで10番
までは成績一覧表の名前が、公表されていた。
彼女と その友人合わせて3人が 物理部に入部した。女子の物理部員は珍しかった
私の化学部には、薬学部志望の女子生徒が入部したりしていたが、物理部には、私が
在籍した3年間では 彼女達だけだった。その物理部と化学部は伝統的に仲がよく
一緒に活動することが、多かった。それから 私も彼女も同じ仲間という意識で
親しく接していられた。とにかく彼女は明るい。クラスで笑い声がすると
その 話の中心に彼女がいた。私達のいたずらの犠牲になっても からかわれても
彼女の反応は言葉で怒ってても やはり笑顔だった。
夏休み前、お父さんの転勤で 彼女は北九州の小倉に転校することになり、クラスで
送別会が開かれた。会の最後、輪になったクラスメイト皆に握手して回った彼女は
号泣していた。でも このときは 目を真っ赤にしながら、言葉は感情の昂ぶりで
うまく発せられなかったけれど、級友達からの言葉に、はにかんだ笑顔で応えていた、
いつも どんなときでも 彼女の笑顔があった。思い出す彼女は必ず笑ってる。
2学期になって 彼女は戻ってきた。私達の高校が良かったようだ。家族と
離れ 寮生活をはじめた。意地悪な私を含めた男子数人は、彼女を「出戻り」と、
呼ぶようになった。相変わらず笑ってた。笑顔だった。私達は嬉しかった。
卒業して 彼女は姉妹で、鹿児島の実家に住んだ。親元を離れて鹿児島に住む同窓生
の多くは、彼女の家で 食事をご馳走になったことがあるようだ。私も夏休みに鹿児島
に滞在した際、親友のKと、彼女の作った昼食を頂いたことがある。後でわかったこと
だが、鹿児島に居たか、立ち寄った 沢山の同窓の友が、彼女の家に招かれていた。
彼女の家族もみな、朗らかで親しみやすい人たちだった。お母さんは とても他人を、
思いやられる方で、物理部のある先輩は、帰省途中の鹿児島で、怪しい連中に絡まれ、
鹿児島で唯一知ってた彼女の電話番号にダイヤルしたところお母様が、すぐ家に来る
ように言って、泊めてくださったようで、先輩が「ほんとに助かった」感謝していた。
もう30数年前のことだけど、彼女の家で 妹さんを交えて 会話を楽しんだことを
まだはっきりと憶えている。
彼女が職場で結婚したあと、暫く会うことも無く、交流は途絶えたが、同窓会には、
彼女は必ず来た。高校があった地元に居るものより熱心だった。3年前初めて鹿児島
地区の同窓会が行われたのも 彼女の提案だった。18人が、集ったその会は
すばらしかった。結局彼女に会ったのはそのときが最後になってしまった。
その後 大阪での同窓会の連絡と、昨年の全国同窓会での 担任だった先生への誘いの
電話をしてもらう依頼のため 2度電話で、話した。昨年電話をしたとき、丁度病院で
診察を受けているところだと、本人から聞いた。体調がすぐれない様子は伝わっていた。
でも、まさか 命に関わる重いものだとは、思いもしなかった。
あれから 2ヶ月、彼女は逝ってしまった。
知らせを聞いたとき 呆然とした。どうして 明るく元気だったあの子が。Mに電話
した。Mと、彼女のご主人は同じ職場だったから 何か情報を持っているかもと。
電話のむこうのMは、大きな声を発して驚いていた。Kに知らせた。暫く沈黙があって
落ち着きを取り戻したかのように 「そう」深いため息と共に言葉を発した。
彼女と一番仲良しだった S嬢に聞いたら、Sだけは 彼女の病気を知っていた。
他の同窓生に対しては口止めを 頼まれていたそうだ。ただSにしても そんな深刻な
状態になってるとは知らず、訃報は思いもよらないことだったらしい。一晩泣き明かした
ようだ。Mは、夜 電話を寄こした、哀しいより悔しいようだ、「何かして上げられな
かっただろうか」「言葉を」かけられなかっただろうか」彼女の笑顔を思い出す度、
そんなおもいに駆られるのだろう。今年の鹿児島地区の集まりで また会えるはずだった
のに、もう叶わないのか。
安らかに と 冥福を祈るべきなんだろうけど、今はまだ、悔やむ感情が大きくて
何か得体の知れぬ 運命の不条理とでも言ったらいいのか 激しく抗いたい厄介なもの
を恨み、それに対して無力であること悔やむ。
まだ 早いだろう。素敵な彼女の笑顔に魅せられていた同窓生達は、そういいたいはずだ
願わくば もう一度、と思うそれぞれの記憶の中に、彼女はしっかり焼き付けられ、
皆が 彼女に感謝の意を込めて思うだろう、「智子さん 貴女のことはづっと忘れないよ」




やっぱり 筑紫哲也

久しぶりに島へ帰った。雪の降った14日夕刻 フェリーで鹿児島を発つ。
翌朝名瀬港着。暖かい。いいタイミングでこれたようだ。2日目の16日は、肌着とシャツ一枚
で、作業をすると 汗をかいたほど。いい天候のおかげで、沢山の人に会いに行けた。
でも 今日書きたいのは。島のことではなくて、帰りのフェリーの中で読んだ雑誌のこと。
週間朝日MOOK「筑紫哲也」その中の「愛した人々」というコーナーで多様な人たちが
「筑紫さんと私」というテーマで 関わってきた内容や、思い出を語っている。
皆有名人だが、それぞれ活躍の場が違う、本当に多方面の分野の人たち。その付き合いの広さ
に驚かされる。同業ジャーナリスト、作家など文筆業者の他、哲学 政治 音楽 の分野の
第一人者。芸能人でも ベテラン女優 若手女優 演歌歌手 フォーク歌手 と、多様。
筑紫自身も 新聞記者 雑誌編集長 テレビキャスターと、ジャーナリズムに変わりはないが、
その発信する手段、表現方法 取り上げる対象の斬新さ と、世の変遷にマッチした取り組み
を、行ってきたと思う。周囲のいろんなことに気を配り、そして興味をもって注目し、それについて
発言した。それと 皆が言ってるのは、「他人の話をよく聞いている」特に少数意見を大切に
する。加藤登紀子は、「目の前にいるひとが、被っている苦しみの、一番奥のつらい部分まで
入り込む」これが ジャーナリストとしての厳しさと優しさだといっている「強いものに強く
弱いものに弱い」。天野祐吉は、筑紫の「どこへでも飛んでいく野次馬精神」が、テレビ
ジャーナリズムの真髄としている。好奇心旺盛という点は ほとんどの人が、評している。
寺島実郎は「多様性の温存}という言葉を使って「いろんなものを許容する哲学が、まさに多事争論」と、
示した。このテレビで新聞のコラムをやる「多事争論」は、やはり画期的なことだったのだろう
。音声に過ぎなかったニュースを、話し言葉にして話し手の思いがにじむものにした(天野)
その仕上げとして 毎日 あの多事争論で筑紫は語り続けたのだろう。羹尚中は、朝日ジャーナルの
「若者達の神々」を、取り上げ筑紫の名白楽ぶりを称えている。自分が見込んだ新参者を、
次々よに送り出していった。浅田彰 辻元清美 ビートたけし尾崎豊 山本耀司 高橋源一郎 
中森明夫この多様な顔ぶれも 広い趣味を持ち いろんな物に 興味を示す 筑紫だからこそ
見つけられたのだろう。このことについて 田原総一郎は、「全共闘のしがらみがないから 
出来た」と、言っている。田原は「全共闘世代に期待したが、その後彼らは総括もなしに 
資本主義に飲まれていった。」それで 若者に期待するのはやめようと思ったが、筑紫は、
全共闘華やかなりしころはアメリカにいた。彼らの挫折を目の辺りにはしておらず彼らを
肯定的に捉えることが出来た。と この「若者達の神々」は、筑紫のインタビュー記事だ。
若者にかたらせていた。それは、対等の立場で聞いていたのか、どちらかといえば 相手を
持ち上げていた。当時筑紫は40台かな、きっとこれから何かやってくれそうな 彼らが、
眩しかったか、うらやましかったのではないか。その彼らは期待通り やってくれて 
この特集雑誌に、筑紫から受けた大きな影響を述べていたり 感謝している、
父のような存在だったー製造責任者ーと、言ってたらしいが 辻元清美は今自身の政治活動が
筑紫の信念を、体現するためのものでもあるようだ。
筑紫は 滝廉太郎と血が繋がっていること、坂本龍一の父親に親近感を持っていたこと 好き
な歌が「貫太郎月夜」だったこと など そうだったのかと 知りえたことに 満足できた。
樹木希林の語りで 彼女ががん治療をした 鹿児島の病院を紹介し、筑紫も4ヶ月間鹿児島で
闘病生活をし、その間家族だけの生活がおくれて家族皆 筑紫も明るく穏やかな時間が過ごせ
たという。そうか鹿児島に来てくれていたんだ。ニュース23の最初のサブキャスターが
鹿児島出身の有村かおりだったり喜界島に弟さんが居たり、鹿児島には もともと縁があたの
だ。50歳年下の女優、綾瀬はるかも語っている。テレビ番組で、筑紫とサイパンへ行った
とき 彼女がなにを質問しても筑紫は「詳しくわかり易く 丁寧に教えてくれて表情はいつも
穏やか、 身近に感じ安心できた」私の目標とする大人が、これだ。考えてみたら、筑紫の
意見に私はいつも賛同し彼と同じ尺度で日々のニュースを見聞きしている。私はジャーナリスト
ではないが社会を作っている一人の大人として、言うべきことを訴えよう筑紫哲也のように 
広く波をおくれる訳じゃないけど。筑紫哲也もどきのきぶんを味わうだけでも楽しい嬉しいことだ
きっと。