店主の気ままなひとり言
珈琲工房かわもと店主の、ほとんど独り言

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親ばか承知で書きました

昨晩 何度かけても電話に出ない 出水に住む娘から 珍しく電話が掛かってきた。
「お父さんに 話そうと思ってたことがあったんだけど、未だ話してないから」
と、言う言葉に まさか 「結婚したい」とか言うんじゃ とドキ!っとした。
「お父さんが 入院する ほんの2,3日前 友達に「お父さん大切にしなさい」
と、言われたという話が、始まって、安心。
その直後 父親が急病と、いう事態になって 娘はびっくり。友人が、何か感じたか、
未来を予見できる能力の持ち主かと、尋ねたところ、友人の返事は「お父さんのブログ
を見たら、子供達のことを とっても大事に思ってることが 解ったから」
たまたま 私のブログに出会ったそうで、娘が、閉鎖になったホテルで働いたとき同僚
だった友人は、そのホテルの記事が、目に留まって読んでみて、それが コーヒー屋の
ブログで 川元と言う名から 娘の親だとわかり、さらに その時期の書き込みをいくつか
読んでみて、先の感想を持ったそうだ
この娘のことについては、感心したことを、よく書いてる。自分のことはしっかり自分で
出来る。高校生の時から小遣いは、バイトで調達、進路も自分で、調べて決めてる。
ただ、家の手伝いは、めったにしないが 私が店番を頼んだときなども、間違いをする
ことはなく、安心して任せられた。何より 父親より優れているのは、周囲の人たちへの
気配り 思いやりが深いこと。小学 中学生の頃 自分が虐められるかもしれないと
わかっていても、かわいそうだと思った人を助けてあげてたこと。私はしなかった
全く親ばかで 褒めてばかり、甘いと言うことにもなろう。
でも 心配しているわけじゃない。読んだ人も、書いた父親のようには思い入れはない。
友人が、何を読んで 先の感想を持ったのか。3年前の書き込みを読んでみた。
寂しさを書いたのがあった。そんな気持ちになってたことなどすっかり忘れてた。
子猫の世話を妹に託した後に言った「お姉ちゃんはもう直ぐいなくなるから」
と言う言葉を聞いて「いたたまれない寂しさがこみあげた」と、書いてある。
思い出した。その時、確かにこみ上げるものがあった。今では娘のいない日常に慣れて
しまっているが そのときは哀しかった タイトルは「私も親だった」
娘が去って3ヵ月後のに、「娘とは毎日のように電話で話してる」とある。
家にいた時には、一言 二言の会話しかしなかったのに、その当時は 恋しくて
毎日、それも 30分話していると、書いてある。今でも たまに電話で話せるときは
20分ぐらい話しているけど、毎日だったんだ。さらに メールも何度も繰り返し出し
合っている。そのメールで、感謝の言葉が 届いたとき、ほんとに嬉しくて、メール
だから普段面前では、照れくさくていえないことが 言えるのだ と メールのよさを
ありがたがっている。こんなところが 友人にあの感概を、起こさせた所以だろうか。
昨晩の電話では、娘は友人が、言ってた事実を伝えただけで、自分の思いははっきり
言わなかった。でも「そう思っている だから わざわざ電話したんだ」と、思ってるんだろう
私の入院中 休みの日は必ず 遠い出水から来てくれて、私の
頼みごとを 全て引き受け こなしてくれた事。私のことを思っての行動であることは
間違いの無いところ。それに対しての私の感謝も、言葉では 軽くしか言わないが
強い思いを持っていて、家の娘はすばらしい と 世間に 喧伝したい気分だ。


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ビールを前にして考えた幸せ

退院した日にコップ半分のビールを飲んで以来、アルコールは口にしていなかった。
絶っているわけじゃない。病院の栄養士は、缶ビール一杯程度ならかまわないと、
言っている。が、飲み始めたら、酔いを感じるまで止めず 量のセーブ
など無理という これまでの常を考えて、断酒していた。栄養士である妻が
飲ませないようにしていると思ったらしい兄が「正樹にビールぐらいは飲ませてあげて」
と、言ったらしいが、私の意志で、飲まなかった。
27日は、父の命日、丁度一年になる。一ヶ月経ったこの日だけは 父と飲みたくて
位牌の前に コップ一杯のビールと ピーナッツを備え、私のコップには半量のビール
を、注ぎ、位牌の前の父のコップに「チン!」と、触れて、一口。  苦い。
父はビールが好きだった、私が子供の頃毎晩瓶一本のビールを飲んでいた。
無くなる前日も、医者に一口飲ませてもらった。ただ 口に含んだだけで、飲めは
しなかったらしいが。晩年は、就寝時間が早くなって 9時になると「もう寝るから
あと、飲んでおけ」と、言い残して寝室に入った。そこで その日も 9時になったら
位牌の前の父のビールも、もらって飲んだ。まだ 冷たいままで、一口でいっきにとは、
いかず、三口か 四口で、飲んだ。やっぱり苦かった。美味しかった、かといえば
そうでもなかった。体が アルコールを欲しなくなっているのか、「飲みたい!」
と思わない。毎日 仕事の後 風呂上り 一杯のビールがたまらないと、習慣付け
されてたら、「飲みたい!」と、なるんだろうが、暫く絶っていたせいで、そおいう
欲求が、枯れている。
健康を回復するためには、好都合かもしれない。いま 苦戦している体重減にも、いい
事には、違いない。
づっと 健康的だからと、こういう生活で、幸せか?という疑問は、当然感じる。
みんなと 飲み明かしたときの 楽しさ 嬉しさは 忘れない。
仲間と 語り合うとき 一人お茶を飲みながらでも話は出来るが、
上下関係無く、立場も超えて皆同じ に、なれる、酒があればこその宴に参加する幸せ。
日々の暮らしの中で、大切な 必要な事だと思う。
ならば 今、健康の回復に努め、たっぷりビールを味わい酒宴を楽しめる、そういう日
を楽しみに待っていよう。


「マサチュ-セッツ」を、聞かせてくれたありがたいブログ

もう一曲 久しぶりに聞けた曲が、ビージーズ 「マサチューセッツ」
聞いてたのは小学6年の時だった。兄から 譲ってもらった、初めてのマイラジオを、
夜遅くまで聞いてた。この時期から既に夜更かしの習慣が、ついていたみたい。
その頃、毎日のように聞いていたのが、「帰ってきたヨッパライ」と「マサチューセッツ」
「ケメ子のうた」も、聞いていて、よく歌ってもいた。
ビートルズの名前は知っていても、曲はほとんど知らなかった時期、初めて気に入った
洋楽だったはずだ。マサチューセッツは、JFケネディーの出身地としてその州を、知っていた
これが 興味を持った動機だろう。中学での初めての英語教師はBr.ジョンという やはり
マサチューセッツ出身のひとだった。こういろんな事情が重なって、マサチューセッツは 
大好きな、歌なのだが、これも 近年 ビージーズの曲といえば「メロディフェア」で、聴けるのは
これ。「マサチューセッツ」は、長く聞けなかった。
やっと聞けた 映像もあった。昔ラジオで聞いたのと 同じ声で歌ってた。感激!
この曲を見つけたのは、私のブログに入ってくれたW氏の
「今宵の一枚・・・my Favorite songs」というブログだ
洋楽 邦楽 ポップスもクラッシックも、ロックもカントリーも 素敵な音楽の紹介ブログ。
youtubeの動画を見ながら、解説も読む。豊富な音楽の知識に感服。紹介された
アーティストの数は、何百あるやら 一アーティストで、複数の曲が取り上げられているから
千曲に、達しているんじゃないだろうか。その全てに音楽データを付け、コメントを入れ
父親が、音楽好きで 家に膨大なレコードがあったということだが、彼の音楽に関する
知識の膨大さには、あきれるほどの驚きだ。名瀬「サウンズパル」の高良俊礼氏の音楽薀蓄に
驚いていたが 世の中には同じようなインテリジェンスが、居るもんだ。
アーティスト名から曲探しをしたい人には とても便利 試しにのぞいてみて下さい。

思い出の洋楽

また聞きたいと思っていても、なかなか聞けなかった歌が思いがけずyoutubeで
見つかり、その思い出を浮かべながら聞いた。
レターメン ビコーズ  都会のハイセンスな文化を 初めて体感させた歌だ
と言っても 鹿児島でのことなんだけど。
高校3年間を、奄美で過ごし、受験のため、鹿児島に出てきて、姉と食事のため
入った、繁華街 天文館のレストランで、BGMとして流れてた曲だ。
熊本で過ごした中学時代は まだ幼稚で都会にいると言う意識など持ってなかった。
高校時代は一度徳之島へ 行ったきり、他に島から出ることは無かった。
18歳になって 触れた鹿児島の空気は明らかに島とは違っていて私をワクワクさせた
しゃれたレストランで食事をするのも島ではなかったこと、喫茶店にたむろして
アイスコーヒーを飲みながら長々と時間をつぶしたことはあったが、きちんとした
大人たちの中で食事をする経験は乏しかった。「こんなところ慣れてるぞ きちんと
マナーは、守れるぞ 田舎者とは違うぞ」と、心の中で 強がっていたようだが
静かに 心地よく流れる 「ビコーズ」が、いままでラジオで聞いてたそれよりも
づっと高尚な音楽に聞こえた。何を食べたかは 覚えてないが この「ビコーズ」が、
聞こえてたこと 聞いていたことは 鮮明に覚えている。その一週間後 福岡駅を出て
正面に十数回建てのビル3棟を目にして都会の大きさに衝撃を受けているが、素敵な
都会 を、体験したのはこのレストランでの時が、初めてだった。
レターメンの歌は、そのメロディーがジェットストリームのオープニング流れた
「ミスターロンリ」がよく知られていて、メディアで、かかることも多かったのだが
「ビコーズ」は、このところ 聞くことは無かった。「ラブ」「涙のくちずけ」
と共に 大好きな歌で、CDを探したこともあったが、聞けずにいた。
久しぶりに聞いて、若く初々しかった私の18歳、これから過ごせる筈のすばらしい
学生生活への憧れを、頭の中だけでめぐらせていた頃。懐かしさだけでなく
幸せだった時間として 思い出せた。


また 寒くなった。夕刻歩くのに 今日は ジャンバーを着て出た。
今までなら 「寒いから今日はいいや」だったけど、何とか痩せなければと
思う意志が、今は強いので、決行。娘が一緒に行く と 言う。
嬉しいのだが、後々やっかいになるのがわかっているので、面倒にもちょっと思う
案の定 はじめから 上着がないと言って なかなか準備が完了しない
コート類は 母親が既にしまい込んである。
やっと出かけられて、娘は嬉しそうに付いてくる。しかし「お父さん待って 早い」
と、いいはじめ、これが頻繁に出てきて 後半は「お腹が痛い」「疲れた」
「公民館までと言ったから 着いて来たのに」「もう過ぎたでしょ」
過ぎたのは「松原上公民館」目標にしているのは「松原公民館」
「もう 帰っていいぞ」と言っても、既に相当な距離を来てるから、「いや いい」
付いてくるしかない。毎度のことなので、私もかまわず 歩く。
それでも いつも車で通り過ぎるだけの場所を 歩いて見る光景は、新鮮だったようで
「こんな場所だったの」「こんな家があったの」と、発見を楽しんでいる。
一人で 自分のペースで歩きたいと 思うのだが、たまには 数回に一回 こうして
娘を引き連れるのもいいな と 思いもした。 娘は16歳、父親と一緒に歩きたがる
女子高生って 珍しいよな。

Nさんの娘作

Nの娘作

これが 先に、記した 天才Nさんの娘さんプロデュース 写真

天才!Nさんの娘さん

福岡のNさんから 傑作の写真がメールで送られてきた。
娘さんが、考えて、作製し 撮影までしたらしい。
やはり娘さんが作った 豆シバ人形に、看板の役目の紙片を、持たせ
傍らに私の店の商品である コーヒーを配置して
「天国に昇るほど うまい珈琲 かわもと」と、書いてある
天国に昇る程の後尾には括弧がきで 「2回」と添えられている。
ブログで 私の心臓が2度止まったことを読み、うまい コピーにして見せている。
一目見て、「これは」と、感心した。なんとも 嬉しい 心地よい 最高の気分を、
あじわあせてもらった。
天才的な閃きだ。写真には 実際にコーヒーの入ったカップも写っていて、撮影の際にも
工夫をして 構図を考えているようだ。 看板の 「うまい珈琲」の横に カップから
湯気が、立ち昇ってる 図が描かれているが これもなかなかのもの。豆シバのぬいぐるみ
のデザインといい、よく出来てるとおもう。センスの良い才覚の持ち主、絵本の製作も
計画しているらしく、マルチなその才能を、披露してくれることが、楽しみだ。
先の コピーを作ることなど わたしは、全く思いつかなかった。大変だった経験を、
商品の形容に使って 笑えるうものにしてしまうセンス。素敵。鹿児島に来たときは
表彰してあげたい。



痩せたい でも 痩せない

今日も 44分歩いてきた。医師の指示どおり 4kmを40分の、ペースで。
但し 医師に言われた3月2日から、今日で6回目 ほとんどやってないのだ。
今月前半は 確定申告の準備、例年2月からやっていた作業が 出来なかったので
3月に入って 時間があればその作業。中盤は、法事で田舎に帰ったし。それに
寒い日は避けてと言われていて、天候にも左右されるし。と、言い訳ばかりだが
食事は、粗食に徹していて、これだけでも効果あり、と、思っていた。実際 腹の
出っ張りも少しは引っ込んだし、体重も減っている筈だった。
日曜日に 娘がヘルスメーターを 買ってきたので、「さあ どんだけ落ちただろうか」
と、勇んで 乗ってみたら、減ってなかった。これは いかん「医者には次来るときには
ちゃんと落としておけ」といわれている。次診察受けるのは、2週間後。
食事は ご飯 と味噌汁と 納豆 モズク 魚類は、シシャモと塩鯖。これらの繰り返し
太りそうなのは食べてない 間食もしてないんだが。
ただ 最近食欲を 抑えられず、一食の量が増えたのが気になり、ご飯は200g計って
よそおうようにした。
「食事だけではだめ 運動もしないと体重は落ちない」と、言われていたのだが こんな粗食
を続けるのは初めてなので、「これは すごいことをしている 絶対効果がある」と、思い
込んでいた。言われたとおりだった。残念
みんな どうしてダイエットしてるんだろう。友人のkkは、夜 炭水化物を取らないように
していると言った。おかずだけ食べてるのか。私のブログを呼んでくださってる
「体脂肪を半分にするおさーんのブログ」を、見てみると、やはりかなりハードな運動をして
いらしゃる。簡単には 適わぬ願いか。
さて あと2週間 どうしよう。毎日くたくたなるまで 歩くか、空腹に耐える訓練をするか
とにかく 苦しまないと 効果が出ないのはわかってしまった。その日だけ 絶食してみるか
でも 薬飲まないといけないし。あーあ考えている間も 辛い!




御礼

私の命を救ってくれた、医療関係者にもお礼を。
彼らがいなければ、私は、助からなかったわけで、ほんとにありがたい存在の方たちです。
南九病院の転送を直ぐに決定した神経科の医師、直ぐに駆けつけてくれた救急隊員。
そして 夜中にも関わらず、治療してくれた医療センターの、医師や看護士。
彼らの業務であるとしても、的確に迅速に、行ってくれたことで 私が助かったのは
間違いなく、やはり 礼を言いたい。
入院は、三週間に及んだが、今思えば 長くは、感じなかった。入院生活は快適だったと
言っていいだろう。9時には照明が、消えるし 10時以降 テレビは見れないし 退屈
と、感じたこともしばしばだったが、同じ病室の他の患者との関係も良好で、いやになる
と、いうような事はなかった。「早く退院させて」とか「病院内を、自由に歩かせて」など
患者のわがままと、承知で言うと、「川元さん どんな症状だったのか解ってるんですか」
と、真顔の厳しい表情 口調で叱咤されたのも何度かあったが、病棟内は、穏やかな空気で、
頗る心地よかった。
看護士は、決して険しい態度を見せず、なんどきでも慌てる様子もなく、語るときは優しさ
を、醸し出して、それでも てきぱきと仕事をこなす。見ていて 穏やかな気持ちになるし
安心できる。そういえば 私の治療中も医師や看護士は、慌ただしい振る舞いは無く、普通の
医療行為をしてるに過ぎないように私には見えた。それで 私も そんな深刻な状態とは
思いもせず、安心していたのだ。
彼らの様子から従事者同士の、縦関係が希薄であるように伺える。おおよそ若い人が多いのだが
年齢 経験量に関わらず、同じ役割をこなし、医師と看護士の関係でも緊張を感じるような
息苦しさなど、ついに見ることは無かった。経験の浅いものが 困ったときには 先輩看護士に
応援してもらうことは常に了解されており、横の関係がスムーズに機能しているようだ。
客の前で部下をしかる上司のいる職場なんか、気分が悪くて 二度と行きたくないと思うし
飲食店でも、威勢と気合を売りにして そういうのを見せてるか演じてるか不快な店もあったり
するが、職場の雰囲気というのは 外部から訪れた者を、満足させるために重要な要素なのだ。
お礼の文を書くのが、目的だったのに、職場の人間関係論になってしまった。
私を助けてくれた方々は、私の治療から 入院生活まで、すばらしく満足させてくれる、仕事を
してくださった。「また此処に 入院したい」とは思わないが、何かあったら、あそこへ。とは、
思ってる。

もうひとつ 感謝

心配してくれた 沢山の友人にも 感謝。とりわけ同窓生は、つくづくありがたいと思う。
高校の同窓会が、しばらく前にあったばかりなので、「あのときに元気だった奴が」と
驚いたのだろう。丁度私に用事があって電話をしてきた2人から、皆に伝わったようだ。
どちらも 入院した翌日で、私はベットに固定されたまま。妻が出た。名瀬のTは、
「月末鹿児島行くから」という伝言、妻は 私が入院していることだけ 知らせた。
中国から架けてきたYさんは、1月に他界した智子さんの家へ 案内する約束をしていた
私に 帰国の予定を伝えるつもりだった。でも あてにしてたわたしは入院。困って
山元順公に電話、彼には毎晩のように電話でしゃべっている私が 入院なんて 寝耳に水
直ぐに私の携帯に電話、出た妻からはそれほど深刻な様子は伺えず、その翌日はもう退院
したと思っていつもの電話をしたようだ。先の Tも症状は聞いてないので、名瀬では
「川元は、やせるため 入院したらしい」という 話が伝わっていた。
山元から知らされた福岡のNさんは、驚き 心配もしたようで、届いたメールには
「何で 勝手に 入院なんかするのよ」とあり これを見たときは 思わず笑いが出た
でも これで ぐんと元気が出た。
鹿児島のMは、話を聞いた翌日 霧島の病院までやって来た。今思えば 恐る恐る
病室に顔をのぞかせた様子がおかしい。病名は聞いてたようでほんとにびっくりした
ようだった。丁度私の体の固定が解かれ 寝返りが出来るようになったところだったので
元気そうには、見せられた。10日ほどして私もかなり回復でき 退屈を感じると
友人達に こちらから電話をし、状況をしらせた。その人たちも 病院まで来てくれた
武岡のS 玉里のH 往復3時間くらい掛かったろうに、車でやって来た。
熊本のくまもととは、1月31日久しぶりに会って 別れ際に「おまえ そのお腹
なんとかせんと大変なことになるぞ」と、言われた。その三日後、病院に運ばれた。
2週間後また再会した場所が 病院ということだ。くまもとが来ているとき
思いがけずやってきたのが 中国から一時帰国中のYさん夫婦、こちらも このときは
入院している理由は、わかっていて、中国医術に詳しいご主人が、脈診してくれた。
くまもととYさんは 25年ぶり再会。私の迷惑な病気のせいだけどちょっといい事も
あったかな。名瀬のTは、私が退院する3時間前にやって来た。空港から直接、沢山の
荷物を、持ったまま、私へのおみやげもいっぱい。おかげで 退院するとき荷物が重かった。
退院後 ひろしKは、自分も体調が良くないのに 鹿児島から 姶良まで、様子を見にやって
来た。隼人に住むMN、中学時代から病気を抱えていて辛い思いもした経験を、話してくれて
これからの生活にアドバイスをしてくれた 親戚のいくやも、自分の経験と健康でいる大切さ
を、繰り返し訴えた。他にも 何人かの見舞いの人からありがたい言葉をかけてもらったが
いとこのM姉さんだけは 第一声で「あんたは、人の言うこと 聞かないから こんな事に
なるんでしょ」と一喝。これも ありがたかった。Nも、何度もメールで怒り励ましてくれる
先日 法事で 名瀬へ帰った。会った沢山の友人達が、回復したことを喜んでくれた。
遠くから「おーい 死に掛けた 正樹」という声がして 見ると、悪友Kでも 彼も心配して
くれていたことはわかっている。得意先でもあり同窓生でもある 松尾は、、元気になった
私を見て夫婦で喜んでくれた。私も また いつでも彼らに会えることが、嬉しい。
ただ、法事で会った 親戚たちは、誰も私が入院したことを知らなかった
おばが「感心!痩せて格好よくなってる」と言ったので、姉が「実は」と、話し始め皆を
びっくりさせた。友人達は、普段から電話やメールで、交流していて、何かあれば 連絡しあう
体制になってる。親戚は、帰省したときにたまに会うだけ。もっと普段の交流を、心がけなければ
と、反省している。親戚も皆 私の入院を、顔色を変えて驚き、ほんとに体のことを心配して
くれた。みんなほんとにありがたい。


感謝

今 感謝の意を伝えたいのは、再た 注文を下さった お客様と、 心配してくれた友人達。
まず お客様 入院中、個人の方の注文は 断らざる得なかった。皆さん 理解してくれて
見舞いの言葉をくださり「元気になるまで ゆっくり休んでください」と、言葉を添えてく
れた。飲食店には、どうしても納めなければならない。家族に頼んで 在庫のある分は送れた
普段ブレンドを作ったことなどない家族にとっては、難儀な作業だっただろう。
在庫が切れてしまった後、家族に焙煎は、無理。仕方なく 似たタイプのコーヒーで、納得
してもらった。「こんなときですから」と、ありがたい返事。販売してもらってる 
生活彩館マツオでは、買いに来たお客様に私に代わってお詫びし、事情を説明し。お客様も
求めていた品が、欠けてても他の物を、購入してくれたと 聞いた。松尾も、本当は困って
いたんじゃないだろうか それでも 催促することなく 退院して暫くの間も、「暫くは
無理しないで 元の体調に戻ってから」と、直ぐには注文してこなかった。
個人の方でも 入院中何度か電話で尋ねてこられた方が数人いて、退院がまだであることを
伝えると、向こうから謝ってこられる そして「やっぱり川元さんのコーヒーが飲みたいから
早く 良くなって」と、ありがたい言葉に 病人ながらなんと幸せと、感激。
退院後、お客様に挨拶とお詫びの電話を架けたところ 全員が 喜んでくださり、再び 
コーヒーの注文をくださった。私が、届けられない間には、他の店またはメーカーのを、
購入し飲んでただろうに また 私のコーヒーを求めてくれた。
退院して翌日から大忙しだった。焙煎が追いつかないほど注文を受けた。1ヶ月待たせたのだか
ら、その間の分 いっぺんに注文がきたのかな。嬉しかった ありがたかった。
みなさん わたしの退院と コーヒーが届くことの両方を喜んでくれている。
危機を、脱して 改めて 私のコーヒを、味わってくれてるお客様のやさしさ、と
また焙煎をしてコーヒーの仕事が出来る体に戻れたことに 感謝 感激 の毎日です。


運が良かった

命拾いをしました。 と言っても 単に 失敗を免れたとか、損失を回避できた、
と言うんじゃなく。まさしく 命を救ってもらいました。
2月3日の夜 10時半頃、寒い中 買い物に歩いていく途中、咳をした瞬間
胸に異変を感じた。もしや と 思いはしたが、「違っていてくれ」との願いも強く
大丈夫だという思いのほうを強く信じ込ませようと 買い物を続けることにし、
早く帰ろうと、帰宅に移って 暫く、胸の痛みはより強くなり 手が痺れてきた。
歩くのも困難になったところで、「心筋梗塞」を、認めざる得なくなり、妻を呼んだ。
直ぐ 救急車を呼ぶことも考えたが、まだ 信じられない思いもあり、水分補給で、
手の痺れが治まらないかと「このまま病院へ行こう」と。主張する妻に、一度家へ
戻ることを 強いて、家で コップいっぱいの水を飲んだ、残念ながら 痺れは
収まらず、南九州病院に着いたときは、発症から1時間近くたっていた。受付の
男性の表情が険しく変わったので、私の様子が一目で尋常じゃないとわかったのだろう
駆けつけた医者も 直ちに その時間 専門医が、残っていた霧島医療センターへの
転送を決めてくれて、呼んでもらった救急車で、霧島隼人へ向かった。
づっと意識はあった。救急車での移動時間も長かったような気がする。
着いた医療センターには もう 日付が変わった時間だったが 多くの 医師や 看護士が
待機してくれていた。暫く検査の後、医師から「心臓の根元で血管が詰まっています 危険
な状態です」と、説明があった。私の前にも 同様の患者がいて その治療が終わり次第
私の治療に取り掛かるという。始まったとき 既に 発症から2時間以上立っていた筈だ。
局部麻酔だったので づっと意識は保たれ 医師の様子も見ていた。
いつの間にか 手の痺れは無くなっていた。胸の痛みが すっと消えたときのことも覚えている。
きつかった。のどがひりひりした。夢か幻覚だったのか 自分の意思に反して 体が後方に
引っ張られる、すごく気分の悪い体験が2度あった。電気ショックで心臓を再起動してもらった
のも2回医師の手で心臓マッサージを受けたのも2回。電気ショックの直前は意識が無くなって
たようだ受けた瞬間 意識が戻り、上半身が上方に3度跳ね上がったのが、わかった。次の瞬間
嘔吐した。意識が戻ったおかげで、看護士の指示どおり顔を横にして、気管へ詰まるのを防げ
た。治療が終わったとき 寒気がすごかった 医師や看護士は皆、半袖姿なのだが 私は寒くて
たまらなかった。「寒い 寒い」と、訴えたが、回りの反応がゆったりしていてちょっと
苛立った。それから 気がついたとき 時間は4時だったらしい。生きていた。でも私としては 
死ぬ気は毛頭ないので当然のことだったのだが、後から聞かされた話で、私がほんとに幸運
だったこと。命を、救ってもらったのだということを知り、今は世の中の全てに感謝したい
気持ちだ。
治療後直ぐ 妻は 医師から 説明を受けた。「不整脈がひどくて 手術は無理でした。やれる
ことやりましたが、重篤な状態です 残念ですが覚悟してください」複数の 医師や看護士にも
慰められたそうだ。ただ妻もそういわれても「なんとかなるだろう」と覚悟は決めてなかったと
いうから この楽天過ぎる家族にあきれた神が 天に導く作業を放棄したんじゃないだろうか。
目が覚めてからは、今度は暑くてたまらなくなり、朝駆けつけた長女が 午後再び来たときは
「すごい顔色がよくなった」と言ったように、症状はどんどん回復し、割と早くこうして家に
帰ってこれた。母は、同じ症状で命を落とした。助かっても何らかの後遺症が残る人も多いと
聞く。なぜ、私があの状況で無事に生還したのか。山元順公から「君は生かされているんだ」と、
メールが来た。そう考えると、これからの人生世のためになるような有意義な普段の行為で
なければならないと、あらためて思う。退廃的不健康生活に、決して戻ることなく、毎日一時
を、大切に 精一杯尽くします。

3週間 入院していました。
久しぶりのブログ更新です。
何度も更新を催促された、福岡の Nさん ありがとうございます。
早く 元気になって また 書いて と いう励ましでしたね。
退院して 一週間経ちましたが、休んでいる間 待ってもらってたお客さんへの
発送とかで 時間がとれず あまり 無理は出来ない状況で、今日まで
ブログのページを開くことさえ出来ませんでした。
不安だった体の状態も 良好の様 また みなさまに 読んでもらえるよう
努めて書きます。でも 興奮すると体に良くないと言われた故 暫くは やさしく
穏やかな 内容になりそうです。




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