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たまにはお勉強

久しぶりに、コーヒーの本を買った。成美堂出版の「おいしい珈琲ブック」950円。買ったのはこの値段だから。普通この手の本は2500円する。昔 この手の本は沢山買って、今でも保管してある。新しいコーヒーの情報は、コーヒー会社から送られてくる。「読まなければ」と、思う必読すべき本に、行き当たらなかった。最後に買った本は、多分6年位前、コーヒー文化学会の、楽しむ会 の 会場で買った、広瀬幸雄先生の「エスプレッソ」だと思う。喫茶業をしてた頃は、毎月「喫茶店経営」2000円を、購読していた。いなほ書房の「珈琲と文化」は、豆売り店に変わってからも暫く読み続けていた。それに 珈琲文化学会の「コーヒー文化研究」これらは、皆とても役に立った。だいたいコーヒー屋は、自分の知識をひけらかす癖を持ってる人が多い。そういう人たちの欲求を満たすためには「コーヒー文化研究」などは特に、重宝されるものだった。
さて 今回買った本で、気になったのが、サイフォンを使ってたてる店が数軒紹介されている事。プッシュ式の店もある。まさか 最近人気とか 増えているというような事はないと思うが、私のようなコクを、大事にするコーヒー屋にとっては、抽出は、ドリップでの蒸らしが、最も大事にしたいところ。蒸らしが出来ないサイフォンの軽いコーヒーが、人気と言うのは考えにくい。バリスタのコンクールでなぜかサイフォン部門と言うのがあって、審査員が外国人、そういう写真があった。サイフォンを使うのは日本と、台湾だけと聞いていたので、もしや世界で、使われ始めたか
と、驚いたが、コンクールが、日本での催しと知って、やはり と、納得した。エスプレッソの店の増加は予想してたおりだが、腕のいいバリスタの、存在が、店の価値を、高めているらしい。店の紹介で、「大坊珈琲」「ランブル」「パウイスタ」など20年前からよく知られていた店が、今も有名点として紹介されているのは、さすがだと感心する次第。新たに知った珈琲の銘柄があったり、味 風味の表現で 果物にたとえているのが、なるほど面白い言い方で、そういう点では、この本も 新しい知識を、与えてくれている。
前にも書いたが、私はプロとして 顧客からの質問には、全て答えられなければならない。長くコーヒー屋をやってきて相当な知識も付いてきている。これまで無難にやってきているが、これからも大丈夫かといえば、そうは行きそうにない。お客さんの知識も、豊富になってきている、ずっと細かい点にまで、こだわるようになっている。そういうお客さんが、疑問を持つとしたら、かなり高度な、専門的な知識を持ってしか、回答できない。化学反応だったり 物理的作用だったり生物学だったり、医学 薬学の、範疇かも知れない、コーヒーに関することならあらゆる知識と情報を貪欲に取り込む意識を持ってないといけない。先日、ある得意先が、コーヒーのがん予防効果について、よそで聞いた話をされた。それについて どういう成分が どういう効果をもっている と、説明したところ、「わかって安心した」と言う言葉が、返ってきた。お客様の役に立つ情報を提供する事が出来た。これも業務の一部だ。売るだけでなく 与えるもので、対価がなくとも、お客さんを満足させるという事で、次の商売機に利益をもたらせてくれるだろう。経験の積み重ねだけで、うまくこなせる知恵が得られると、慢心を、もたず、たまには 新しい知識 情報を、得るの為の勉強も、大事かな。 
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帰ってきたバッドマン

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名前はベッキー

私は「バッドマン」と呼んでいるこの猫、私以外の家族はベッキーと呼んでいる。こちらが本当の名前なんでしょう。雄1歳。彼が2日間行方不明になった。
親戚に頼まれ、その知り合いで「猫を、欲しがってる」人に、譲る事にして、妻が連れて行ったのだが、相手のうちに着き、車のドアを開けた途端に、車から飛び出し、行方がわからなくなった。妻の事だから相手の婦人に、一生懸命愛想を作って挨拶していたんだろう、その隙にいなくなったと言う。車内では、相当不安だったはずである。その恐ろしい状況から、一刻も早く逃げ出したかったのだ。数時間かけて捜してみたが、捕獲できず。知らないところで、知らない人たちがいたら、近づけないだろう。諦めて戻ってきて来た妻は「自分で好きなところへ、行ったのだからこれでいいの」悲しむ娘を慰めるための言葉かも知れないが、まさか好んで見知らぬところへ飛び出したりはしないだろう。揺らされていた車の中の恐怖から逃れたくて必死に飛び出したのだ。停車して少し時間を置き、落ち着いてからドアを開ければよかったのだ。
その夜、どお過ごしたのか、近くに川が流れていて水は大丈夫。スーパーもありそこへ行けば食料にはありつけそう。でも、交通量の多い道路を、横断しなければならない。今まで過ごした家からは6キロ離れているし、その方向もわからないだろうから帰ってくるのは不可能。心配だが、どうしようもない。
翌日、3人で捜しに行った。好物の餌を持って。川沿いまで捜したがいない。妻は、猫を欲しがっていたご婦人が、とても残念そうだったので、「何とかしてあげたい」と捜す。私と娘は、かわいそな猫に、何とか家に戻って欲しいので
捜す。
さらにその翌日娘と妻が、現場をゆっくり車を走らせていたところ、前方を、見覚えのある一匹が横切った。時刻は夕刻、あたりは薄暗くなりかかっていた。車を降りて、猫が走り去った方を見ると、民家の車庫、車の下に捜してた猫がうずくまっている。呼んでみたが出てこない。いつもするように、好物のエサの袋をこすり合わせてかしゃかしゃと、音を出してみたら出てきて、2日ぶりに娘の手に抱かれた。
そのままつれて帰り、やっぱり我が家で面倒見ることにした。怖い思いをさせてしまったことを、侘び、心配してた事を伝える。当然猫には伝わらず、眠そうに目を閉じる。それほどがむしゃらにエサを、食べなかったから、2日の間も、何か食料にはありつけてたのだろう。
猫を欲しがってた人も、結局 ご主人には反対されたらしく、そこで飼われることは、なかったのに。人間の都合でいい迷惑だったよな。我が家のバッドマン朝、私が目覚めると、いつも私の顔の真横に横たわっている。しかって追い出さないといけないのだが、今は、まあいいか と、ほおっている。暖かそう。

ウィシュの心地よいハーモニー

福岡のNさんから、昔の音楽について知りたいと、リクエストがあったので今日も、懐かしい歌の話。36年前福岡に住んでた時、KBCラジオのテーマ曲が好きだった。歌ってたのは、福岡の姉妹デュオ ウィシュ 伊豆丸礼子・幸子姉妹。「御案内」「六月の子守唄」が、よく知られている。特に「六月の子守唄」は、74年75年頃ラジオでよく掛かっていたので耳にした事のある人は多いと思う。KBCラジオのテーマは4曲あった。一番好きだったのが「あなたに夏の日の歌を あなたに秋の日の~~あなたに冬の日の憩いを あなたに春の日の喜びを KBCラジオ~」他には「知らない町へ行って 知らない人に出会う だけど みんな知ってるKBCラジオ みんな聞いてるKBCラジオ」これはゆったりしたテンポ。「やさしい風に誘われて~~~~君のあなたのKBCラジオ」これは軽快なリズム。「~~~」のところは思い出せない歌詞。チェックしたカセットテープが残っているはずなのだが、直ぐには見つからないので、悪しからず。これらの曲を、福岡に居たときは毎日聞いていたのだ。ウィシュは、74年に一度解散してしまったと、聞いていた。時々あのコッキーポップで、曲が掛かってはいた。「六月の子守唄」が出たときは、再結成だったのか、以前の録音だったのか彼女らのライブを、聞いた事はなかったのでわからない。この歌は長く ウィシュのオリジナルだと思っていたが、以前このブログに書いたように 元は、「みにくいアヒルの子」と言うグループの曲だった事がyoutubeを見ていてわかった。逆に伊豆丸礼子さんの曲で高岡美智子が歌ってよく知られていた曲「私が昔好きだ人」。もちろんウィシュも歌っている。今私の一番のお気に入りだ。
ウォーキングしながら聞いている。ベストアルバムの12曲を聞きながらだととテンポよく歩ける。アップテンポも、バラード風も、どちらもリズムが会うような気がする。多分、二人の綺麗なハーモニーと、切れのある歌声、純朴な歌詞などが耳に心地よく、気分を、リラックスさせてくれるからだろう。
いま お二人は別々の地に居てそれぞれ活動しているらしい、姉の礼子さんは、名古屋で音楽活動。ホームページを見つけて知る事が出来た。妹の幸子さんは福岡で、以前はラジオに出たり、ジャズを歌ったりしていたが、今はイベントプロデューサーを、しているらしい。二人の歌また聞きたいと、切に思うに人は私以外にも多いと思う。
天地真理の「水色の恋」原曲の題は「小さな私」。この曲を作った田上えり 田上みどり姉妹も福岡だった。福岡は音楽をやるのに適した風土を持っているんだきっと。


コンサート フォー ジョージ

CONCERT FOR GEORGEというDVDを、借りてきた。ジャケットにはジョージ ハリソンのギターを弾く姿がシルエットとなって載っていた。見てみたら、ジョージ ハリソンの姿はステージの中央に大きく掲げられた肖像写真しか出てこなかった。彼の追悼コンサートのフィルムだった。
多彩な出演者だった。一番の親友だったであろうエリック クラプトンが、中心になっていた。彼が仕切っているようだった。家族ぐるみの付き合いで、ジョージの奥さんとクラプトンが、仲がいいのを、「ジョージは妻をエリックに奪われた」という報道が出た事もあった。コンサートで2人一緒に来日した事もあった。ジョージが熱烈に師事したシタール奏者ラビシャンカールは、彼の楽団と、後継者の娘を引き連れて参加した。娘のシタール演奏も綺麗な細い繊細な音を響かせていた。クラプトンがギターでシタールのような音で、インドの旋律を、奏でたのもよかった。リンゴ・スターが、歌った。彼のリードボーカルって珍しくないか。ジョージのバングラディシュ救済コンサートの時にビートルズ元メンバーで彼だけ参加し、歌ってたのを思い出した。ポールマッカトニーは、ジョージが好きだった楽器 ウクレレを弾きながらSOMETHINGを歌った。一流ミュージッシャンの、中で一人 そうでは、なさそうな青年が居た。顔を見れば誰だかは、わかった。父親そっくりの息子ダーニだ。一所懸命ギターでストロークをこなしている。コンサートのために相当練習したんだろう。ジョージの友人達が次々登場して歌をささげた。一番盛り上がったのは、MY SWEET RODEの演奏。「二人のアイラブユー」と言う曲によく似ていて、盗作を訴えられた裁判で敗訴したいわくのある曲だが世界は、ジョージの代表曲と、認めている。リンゴが加わったドラムス3セット、ポールもピアノで参加、コーラスもゲスト出演者が加わって総出の熱演に、観客も立ち上がり、コンサート会場のロイヤル アルバートホールに喚声が鳴り響く。そこの7千人と一緒に私も思わず手拍子をとっていた。その直後にエリック クラプトンの歌に彼のギターが唸り、コンサートを、クライマックスへ、引き込む。曲はWhile My Guiter Gently Weeps エリックうまいすごい。見た目は地味なオジサンなのに、ギターは、何度聴いてもさすがだと感嘆させられる。もうこうなると私の目頭も熱く、滲んでくるものあり。Wah Wahは、ドラム3セットのユニゾンギターのユニゾン、ストリングスも加わりブラスも加わり各プレイヤーが、力いっぱい迫力の演奏、聴いてるほうは、じわぁっと沸きあがる感激に身震いする。見てよかった。コンサート終了後、リンゴとポールが抱き合っていた。ジョージのおかげですばらしい場面が沢山見れた。ジョージハリスンは歌わなかったけどジョージの思いを胸に刻み込んだミュージッシャン達の演奏は、今もジョージの魂が、生きている事を表していると思った。コンサートの日付は2002年11月。彼の死は、そんなに前の事だったのか、信じられないような気になった。つい最近までジョージの歌を聞いてた様な気がする。今見た映像にもいたような気がする。




東京人の富士山

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今年元旦の富士山

「東京はソメイヨシノ、満開です」と、山元順公から、咲盛りの白いふわぁっと丸まった桜の写真メールが送られてきた。こちらから 桜島を、携帯のカメラで写して送った。そしたら、この写真がメールに添付されてきた。一目で富士山だわかった。メールの文章は、「鹿児島で、いろんな場所から見た桜島に感動した」と言う内容だった。この写真については、メールのタイトルに「部屋から 元旦の富士山」とあった。ビルの林立する向こうに富士山が見える、この写真に感激したが、それが彼の居住する部屋から見えるというのに、驚いた。早速電話。部屋はビルの十階にあるということ。以前は直ぐ近くの社宅にいたが、今のマンションが出来たときたまたま誘われ、部屋を見学。この富士の見える窓外の風景に魅了され ここに住む事を決意。それまで住居購入など全く考えてなかったが、即決で、購入を決めたそうだ。学生時代から長く東京に居る彼にとって富士は、感慨深いもののようだ、富士山と東京タワーへの思い入れがあることを、別のメールで伝えてきた。本当は遠い山梨にあるのに、東京で、こんなにはっきり見える、やっぱりすごい山なんだ。大きい山なんだ。富士を見て内心を、リフレッシュする。また何か決意するとき気力を奮い立たせる。そんな東京人の全てを受け止めてくれる山なんだ。
鹿児島に住むなら桜島が見えるところ。桜島は鹿児島や、私の住む姶良などの街中からもよく見える。でも自分の部屋からそれが見える嬉しさは、相当に大きい。それが可能な場所に住居を作りたい。お金がたまればの事だが。東京なら富士が見えるところに住めたら最高だろうと思う。順公が、衝動的のようでも「ここに住む」と決断した事には、十分理解できる。この環境のせいで、彼はいつでも元気で幸せそうだ。

散髪は苦手

散髪に行ってきた。なんと3ヶ月ぶり。実はよくあるんです。数ヶ月床屋へ行かないこと。苦手なのだ。髪を切った後の事が。顔が変わってしまったようでいやなのだ。
高校を卒業して髪型を、うるさく言われなくなってから、大学4年の就職の為の会社訪問の3日前までは髪は肩に届く長髪だったが、それ以外 中学 高校 社会人になってからの髪型はづっと同じ。変えるのが嫌なのだ。メガネも同じものを2個購入して23年間変えなかった。やはり 顔が変わってしまうようで変えられなかった。どうせそのうち髪が薄くなって髪型は自然に変わってしまうのだろうが、今は幸い40年前と、同じ髪型が維持できている。絶対変えないが、散発すると、頭全体髪が短く 髪の量が少なくなり、散髪する前とは、何か違うようで気になる。家族には「かわいくなった」「若くなった」と、好評なのだが、そういわれるとやっぱり見た人の印象が違ってるんだと、思い、あまりよい気分にはなれない。家族は逆に、「伸び放題の髪が、見苦しい」「商売するのにお客さんに失礼だ」と、床屋に行かないことを非難する。身だしなみだからきちんとせよ と、言う事だ。
伸ばしっぱなしにはできない。どうせきらなければならないのだったら、皆に切ったことを気づかれない程度に切っておけばいい、つまり少し伸びたら 少し切る。1ヶ月毎にでも切れば、そんなに見た目を気にしなくてもいいのかも。
散髪の時間と、お金をケチっていると、言われれば、それもあるのは確か。せっかく、いつもお世話になってる得意先のパーク理美容室が、あるのだから、そうしよう。もっと短期間で散髪するよう努めよう。
まだ努めようで、断言は、出来てない。やっぱり苦手かな、パークさん御免。

「私は風」マキオズ

カルメンマキ&OZを、聞きたくなって、youtube検索、「私は風」が、先ず出てくる。この曲が代表曲として皆認識しているだろう。カルメンマキ、ソロなら「ときには母のないこのように」だが、五十代以上の者でないと知らないかもしれない。「私は風」は、70年代後半にテレビCMで使われ、皆に知られるところとなった。化粧品のCMだったかな。歌舞伎の舞台で役者が髪を振り乱して踊る映像のバックに流れていた、というか 曲にあわせて踊っているように見えた。当時の女性ロックバンドは、ほとんどこの曲をレパートリーにしていて、学園祭で歌う女性ボーカルのバンドの、この曲の演奏を、何回か聞いた。youtubeでも いろんな人のカバーがあった。その中で、中森明菜の、歌があって、興味がわき、聞いてみる。同じ曲なのにロックじゃない、バラードになっている。中島みゆきの夜会のように芝居仕立てで、歌っている。ポーズと、表情、歌唱で、辛い哀しさをこれでもかと言うほどに演じている。
オリジナル曲同様、7分あまりの熱唱。実はこれ すごくいいんです。バックもギター キーボードの電子音じゃなくストリングス。ゆっくり物語が進行するような歌の展開にづっと聞き入っていた。女性ロックボーカルなら元SHOW-YAの寺田恵子。彼女は小学4年生の時、マキ&OZを聞いて、ロック歌手になると決心したと聞いた。彼女の歌も聴いた。激しいロックだがよりリズミカルに、軽快に歌が展開されている。ジャニスジョプリンにたとえられるのは、歌う声よりもこの歌のスタイルなんだと、思った。それで、カルメンマキなら、サラボーンかな。SHOW-YAで「私は風」が、あった。これは 違う曲だった。カルメンマキと、寺田恵子の比較が出来ると思ったが、残念。ほかにマキ&OZの曲「午前1時のスケッチ」「空へ」をきく。みんないい曲だ、そしてカルメンマキはすごい。映像はOZ解散後のライブで、メンバーは、違うが、ゲストでギターの春日博文 ベースの川上茂幸の、オリジナルメンバーが加わりすごい迫力の演奏を聞かせてくれた。心にズンズン響き からだをカッカさせてくれ、今日一日を、元気に過ごす活力にを得たような気分だ。
同じ歌い手なのに、番外篇のように聞いたのが、「戦争はしらない」カルメンマキが、寺山修二の世界のフォークを歌ってたときの曲。フォークルの歌の方が有名だが、あのころのカルメンマキ独特の牧歌的歌唱もグット来る。
このカルメンマキとマキ&OZの違いの激しい事。マキは今でもロックをびゅんびゅんやっている。こっちの方がより自分を表現でき、以前のカルメンマキは、創作された自分と意識してたのかもしれない。

昨日のブログの結論は、「Nさんの娘さんに、お願いしよう」だったが、ブログを見た山元順公も、いろいろ考えたようで、いくつかの単語を、メールしてきた。知り合いの外国人に、尋ねたりしたらしい。
その山元順公とは、3日続けて会った。と言っても彼は東京 私は鹿児島。実際に会えるわけじゃなく、パソコンを使ったテレビ電話だ。以前から彼に勧められていたのだが、それほど強い関心を持ったわけではなかったので、「そのうち」と暫くの日々が、過ぎてしまったが、3日前、電気店でウェブカメラを、目にして「買ってみよう」と、思いたった。彼の言うとおりSkypeのソフトをダウンロード、同じソフト同士なら無料で、通信できるという。彼に携帯電話で、操作法を聞きながらやってみたら、出てきた!彼の映像が、昨年11月以来の面会、電話ではいつも話して声は聞いているが、顔を見れたのは驚きと、感激を、覚える。2人だけでの会話ではなく、彼が、奥様 息子さんを呼んで私に紹介する、もちろん私とは、初対面。うわさどおりの人だと思ったのは、彼らが結婚したときのことを思い出したから。披露宴に出席した友人らが皆「お嫁さん、綺麗だった」と、口々に言ってた。「何でこんなに綺麗なんだ。信じられない!」と言うような感じで。大学生の息子さんは、普段は大学の近くに部屋を借りて住んでいるが、たまたま帰ってきていた。大学の自動車部に所属しているそうで、部屋の本棚の上にハンドルが写っていた。こちらは、彼のリクエストに、応じ、娘をカメラの前に呼んで、彼と話をさせた。びっくりした娘だが、面白かったらしく、よくしゃべった。ほんとに楽しいのだ。これでお互い酒でも手にしていたら、一緒に飲んでる気分になりはしないか。他の人ともやってみたい。皆に勧めようと、彼と話し合った。熊本のKは、「そりゃいいね」と、言ってその方法を、質問してきた。親戚の郁哉は、「電話するのに、別に顔見なくてもいいでしょう。」と、やるつもりなさそうだが、他の家族とも会えた事を話したら「そういうのはいいかもね」と、少し心が動いたかな。田舎で同窓生が集まる焼き鳥や「ダンク」にも、話したが、忙しくてそんな事考える余裕もないらしい。
離れて暮らしてる友人達とこうしていつでも顔をあわせる事が出来たら、と考えると楽しくなる。数人同時に通信も出来るようだ。ただ気をつけないと、毎日でも顔をあわせらるからと毎日やったら 毎日相手の家に行くのと同じことになりはしないか。室内がカメラで映し出されることで、プライバシーが守れない場合が、出てこないか。やはり ルールを設定しておく必要があるかな。
でも 会いたい人は沢山いる。会える機会があれば会いたい。会える機会を、設けてくれるテレビ電話のシステムを、みんなに活用して欲しい。やったらきっと楽しくて満足できると思う。


熊本にいるKと、電話で話した。19日のブログの、旅行の話をした。彼は「あの先生に会いたかったから」と、旅の目的を明かした。19日は、それが目当てではない と,書いたのに。彼の目的はあの綺麗な女子大生先生だったのだ。そういえば 彼は勉強もしたけど 女の子の話もよくしたなぁ。先生は5歳年上。憧れの東京のハイソサエティーの香りを漂わせる女子大生。そんな人と親しくなりたいとは、皆思うが、Kは、より親しくなってたのか、なれると思ってか積極的な、行動を取っていたようだ。そんなKも今は 大学で女子学生に 英語を教えている。お互い「よくやったよなぁ」「よかったよなぁ」と、懐かしく、思い出し、やっぱり「先生に会いたいなぁ」と、Kはつぶやいていた。
電話をかけた本来の目的は、福岡在Nさんの娘さんが作ってくれたコピー「天国に昇る程うまい珈琲」を、表現する適当で、簡潔な英語がないか、尋ねる為だ。heavens coffeeでは意味が違ってくる事が解り、heavenly coffeeなら、意味は合致するが、語呂が良くない。考えても私の乏しい英語力では限界、探し当てる事が出来ず、専門家に相談する事に決めた次第。Kも、その場で何かないか頭を回らせているようだったが、「横文字にこだわらず日本語でもいいんじゃない」と、意外な事を言う。[天国珈琲」じゃおかしい「昇天珈琲」は不吉だ。こっちも見つからない。結論は、こんなものは、いくら英語力が優れて、豊富な語彙を持ってても、センスがないと駄目らしい。「Nの娘さんに、付けてもらったらいいよ」と、提案。私も賛成。
ということでNさんの娘さんSちゃん 乗りかかった船 と 思って、イングリシュ版も、お願い。




私のブログを、同窓生の Yamamotoと Nが、毎日見てくれているのは、知ってたが、
奄美のYも見てくれているようで、電話があった。ただ 昨日のブログへの反論だった。
彼がいうには、フィリピンでのアメリカ軍基地撤退は、国民投票の結果はそうだが、アメリカが速やかに基地を閉鎖したのは、火山の爆発により甚大な被害が出たためだ。その後 つまりアメリカの撤退後、中国が南沙諸島の領有権を言い出した。中国は琉球を、日本の領土とはみなしてない。嘗て朝貢貿易をしてた故に中国の属国と見ている。米軍を、日本から撤退させるには、日本の防衛力を十分なものにしなければならない。従って 今アメリカ軍基地を、日本から無くせと言う主張には、同意できない。
ただ、アメリカにはっきりものを言え という主張には 賛成だそうだ。私の意図は、アメリカにとって譲れないであろう言われたくない、内容のことでも、言っていいんじゃないか。経費の肩代わり要求ばかり言うと、こっちは基地の
撤去を要求するぞ てなことぐらい言ってもらいたいということです。
Yと、私の考えで、根本が違うのは、戦争の可能性の大小である。私の考えは小だ。旧イラクような、世界の非難を受けてまで、他国に攻め入る国は今は、ないだろう。国境紛争など特段の理由で、限られた地域の紛争は起こっているが。Yは「可能性はあるある」と、はっきり言った。コスタリカの例にも触れた。「コスタリカのようなそれほど資源もない国に侵攻しても意味ないだろう」だから軍事力を、持たなくても安心。日本も資源は少ないから大丈夫かと言えば、経済力など大きな社会の力は、他国には、魅力と写るだろう、それに 太平洋を守るうえで、地政学上重要な地だという事は私もわかる。また中国だけど、沖縄が日本に復帰した後、日本の領土との主張に異議を出さなかった尖閣諸島に対し、豊富な資源の存在が予測された途端、強引な事項領土の主張を始めた。このように 日本の主権を脅かす行為が、予想されるらしい。防衛力は、どれくらい必要か、について、欧州にもアメリカの基地がある 大きなEU圏でもアメリカの力が必要だと言う例えを、話した。
地方の行政に携わってるYが、何故 これほど防衛問題 軍事問題に詳しいか。彼は大学時代、沖縄で過ごした。沖縄が大好きだ。新婚旅行さえ沖縄だった。沖縄を思う気持ちは人一倍だろう。そこで彼が考えた沖縄の利益と、地元で、見聞きして知り得た実情から鑑みて、先の主張に至ったと思う。
今、米軍基地を日本から無くせ という主張には反対。将来に願うべく状態には、言及しなかったが。外からの脅威
が、排除されるのを望む意味の言は、あった。日本の端緒に位置すること、経済と基地の深い関係。一概に理想だけを唱えるのは無責任と思うのかもしれない。
「米軍基地を無くせ」と、叫んでも 直ぐに無くなる筈は無い。理想として 私は将来のために訴えたい。鳥越俊太郎のテレビでのコメントは、読売新聞が「アメリカが不快感」と書いた記事に対して、「アメリカが言ったからだめだ」
と言う論での報道を批判してなしたもの。アメリカを怒らせば大変な事になるみたいな考えを改め、日本ではこういう意見がある。あるいは 日本の立場はこうだ。と、言うべき事は、きっちりアメリカに言わないといけない。どこの自治体も米軍基地を自地域に作るのは断る といっているということは、米軍基地は、もう作れないという意味で、要らないと、強い気持ちを被せて言ったのだと、私は思う。
奄美に帰ったときには必ず会って杯を交わす仲の、Yの意見だが 私の認識の間違った部分などを指摘して正確に知らせようとしてくれたものだ。昨日は短時間で勢いで、書いてしまっているから 深いところに考えが及ばなかった。私の意見の本質を変えることはないが、正確な事象を教えてくれた事でYに感謝。




徳之島と言えば、今世間の、注目を集めている島。その米軍基地の問題について、
昨日 鳥越俊太郎が、私と、同意見を、テレビで、言ってくれた。やっと言ってくれる
人が、現れた。「もう 日本では 米軍基地は要らないと、はっきりアメリカに言え」
深刻な財政赤字の折 アメリカの為の、支出はもう出来ない。日本のどこにも
アメリカ軍基地を、作ってもいいという 自治体はない。アメリカに遠慮してないで
日本の民意をはっきりアメリカに伝えるべきだ。アメリカがどういったからって
大げさに取り上げる必要はない。これらが 鳥越さんの発言趣旨。
私も同様に考えている。特に 一主権国家としての主張が 何故アメリカに対しては
遠慮がちになってしまうのか、これが不満だ。フィリピンは、過去に国民投票で、米軍基地
不要を、決定し、米軍を撤退させた。日本とフィリピンでは、立場が違うか。アメリカと関わった
歴史も違うから仕様がないとも言えるだろう。でも 訴えれば相手が行動を起こすかもしれない
言わなければ、相手は動かない。
アメリカの強大な軍事力を頼りにすれば、効率的な防衛が出来ると考える人もいるが、そのために日本が紛争に、引き込まれ、憲法に反した行為に及ばざる得ない事態になりかねない危険も予想される。今 政治に携わる者達に 戦争体験者が、ほとんどいなくなった。過去の大戦の、事を理解してないような議員も結構いるし、好戦的な首相もいた。外交関係を、気にしすぎて財政だけでなく、心理的な国民負担を大きくしてはいまいか。今 日本を兵器で攻めてくる国はあるだろうか。単発の、威嚇行為は、あるだろうけど。アメリカもそれは承知している筈、何故 日本に基地をおくか、日本の防衛以外の本音の理由を、日本政府もわかっているのに、やっぱり もめたくないので、今までどおりを、崩さないのだろうか。

今日の独り言 久しぶりに吼えてしまったが、そんなに興奮はしていないし、血圧も上がってない。大丈夫。やっぱりほえた方がスッキリする。


昨日の高校時代の話で、「旅したことはなかった」と書いたが、高2の夏休み、徳之島へ
旅行している。「思いでの洋楽」の記事で書いたとおり、高校時代、住んでる島から出た
唯一の、機会だった。
今熊本に居るKに誘われた。何が目的の旅行だったかと、考えたが、わからない。
誘われたから 面白そう、と応諾したのだろう。成績優秀なKの誘いということで、面白いと
思ったか、せっかく彼が、勉強を離れて楽しもうと、思っている事に付き合っただけか。
で、何故彼は旅行を思い立ったか。
徳之島でどこに泊まったか?実は、教育実習で高校に来た女子大生、それも綺麗な その人の
家に泊まったのだ。家庭科の実習で、やった来たそのひとは、私達のクラスのホームルームも
担当した。それで男子も親しくなれていた。Kが、「遊びに行ってもいいですか」と、聞いたら
「是非 いらっしゃい」と、返事があった。多分社交辞令だったんだろうけど、Kは、歓迎
してもらえると、決心したんだろう。「女子大生が目的だろう」と、あきれる方もいるだろうが
そのとき決してそんな考えは、抱かなかった。彼女の実家だから、ご両親 妹さんが、
いらっしゃった。同じ高校の 我々より 一学年上の妹さんと、一学年下の弟さんも居るのだが
そのときは、徳之島には帰っていなかった。
Kは、島内一周の観光に出たとき、関西から旅行に来ていたOL2人組の一人と仲良くなり
帽子の交換などして、その後もその人とであった事を一番喜んでいた。
私は「3年生の妹さん どんな人だろうか」と、そっちに興味を持ったんじゃなかったろうか。
これらは 行って解ったり、起こった出来事。初めの目的ではない。
結局、単に旅行という経験をしたかったんだろう。高校生二人、旅館に泊まるより 知り合いの
うちの方が、悪い事も出来ず、よかったのかも。
凡人でないKは、ありふれた旅行で、満足しない。船を降り、上陸した 島の中央部の港から
目的地の島の最北端まで、歩こうという、こっちはありふれた旅行で、構わないから、てっきり
バスに乗るものと思っていた。途中2回ヒッチハイクで車に乗せてもらったが、結局6時間くらい
歩くはめになった。二人で馬鹿を言い合いながら、徳之島旅行をした と、いう思い出を作った
というわけだ。あの頃 一番仲のよい二人だったから、何をやっても楽しかった。
徳之島の人たちは親切だった。泊めてくださったうちの方たちは、もちろん 車に乗せてくれた方
オートバイで「一人ずつ連れてってあげる」と言ってくれたお兄さん。水を、もらいに寄ったら
バス会社に電話して路線バスの時間を調べてくれたおじいさん。思い出すと、やっぱりいい旅
だった。教育実習に来た女子大生先生は、その後 徳之島の高校で教員をしていた時、同僚の
先生と結婚されたと聞いた。Kから 「あの先生にまた会いたいから、どうしてるか調べて」
と、要請があり調べてみた。でも「こっちが会いたくても、あちらは迷惑かも」と、Kが、勝手に
決めて、会いたい願いは封印した。でも あのときの晩の楽しい会話と、親切なみんなの顔は
まだ、はっきり覚えている。

みうらじゅん原作。田口トモロウ監督の、「色即ぜねれぇしょん」。面白かった。
高校1年のとき、私達もおんなじ様なことばかり考えていたと、思い出した。
女の子のこと、性のこと ギターを弾けたら格好よかった。男どもが集まると
「デートしただの どうしただの」異性に、関わる自慢話に、冷やかしに、花が咲く
映画のように旅したことはなかったが、女の子と出会えるとか、お姉さんと遊べる
と、聞かされると、内心どきどきうきうき。そこへ是非行きたと、皆思うが、
面に出ぬよう、その感情の盛り上がりを我慢しながらさりげなさそうに聞いてた。
好きな女の子がいても、声をかける勇気はなく、ただ頭の中で、仲良くなれたら、
付き合えたら、こんなことしたい と、思いをめぐらせる。飛躍して進んだ関係を
想像するのは、大映映画 関根恵子の「高校生ブルース」や、渥美マリ「電気くらげ」
なんかを、観るから。そういえば 渥美マリの「いそぎんちゃく」を、最近また観た。
渥美マリって綺麗かったんだ。顔は覚えていたが、綺麗な女優という印象は、なかった
きっと彼女のなまめかしい姿態にばかり注目していたんだろう。話がそれたかな。
日活ロマンポルノの特集雑誌なんかクラス中で、回し読みしてた。今近くに住んでる
Hなんて、まじめそうな顔して、一番熱心に見てたなぁ、またそれた。
ディランの好きな主人公が、ディランを信望する家庭教師、ディランを歌うユースホステル
の髭のお兄さんに、かなりの影響を受けてる。あの頃、三つ四つ年上なら 相当な大人に
見えた。自分の強い興味を持つことに関し、口を添えて、知識を持たせてくれる、この
お兄さん達に、少年が惹かれるのは、当然だろう。私達は、ボブ・ディランの歌は知らなかったが
吉田拓郎がボブ・ディランをアイドルとしていることは知っていた。
映画のテーマは恋と、ロックと 友情。私の高校時代も、おんなじだ。ロックと言わずにフォーク
だけど。女の子を、意識し始めた年代から、成長して「早く大人のようになりたいと」、思う年代
本当は「 大人のように したい」だけど、ちょっと品の悪い表現に思えて、使いたくない言葉。
でも、そ思ってたのは事実。


衰弱しないで痩せなきゃ

今朝、起きて直ぐ、体重計に乗ってみた。目標のン十8キロ。やったぁ!
しかし これは、昨晩食あたりで激しく下したのが、要因。体内の水分がかなり
出てしまったのだ。こういうのは、痩せたんじゃなくて 衰弱と言う 残念
朝食 昼食、キチンとは取れず、午後配達に行った 国分の喫茶店では、空腹のせいか
目暗みがして、体がふらつく。小豆餡がのったトーストと紅茶を出してもらって、ついでに
サツマイモまで食べて、体を何とか回復させた。やっぱり衰弱だ。
最近 食事の量を減らしている。多分、小学生が食べるくらいの量だろう。なかなか体重が
減らないので、摂る量を減らすことにしたのだ。しかも 自分で用意するから、朝はトースト
ハムサンド 野菜ジュース 昼夜も 簡単に準備できる納豆 もずく 塩さばなど 
ここ暫くは、私が娘のために作った弁当を、娘が食べないので 夕食はそれを自分で食べて
済ましてた。大人にとっては、活動するエネルギーを蓄えるには、あまりにも少ないだろう。
寝てばかりの人ならいいが、仕事をこなし通常の生活をするための燃料となる食量の摂取が、
大事であることの認識を新たにした。なんて 変な話。食べなきゃ生きていけない当たり前の
事なのに 普段何ら意識することなく過ごしている。腹が減ったら食べる。その行為の繰り返し。
効率よく必要な栄養を取れる食事の方法について、きちんと学んだ方がいいと考えた 日でした
でも 身近にいる 栄養士だって そんな事考えて調理しているとは とても思えないのだ。


しっかり者の姉、正体は?

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(頼れる姉と頼る妹)

さすがお姉ちゃん。妹を諭し勇気付け、財布と定期入れを買ってあげました.
妹は、勇気を持ち続け、行動に移せるか。お姉ちゃん曰く「自分は強いんじゃなくて
いろんな経験をして それをいろんな場面に生かしてるから」
確かにいろんな目に会ってる。その解決も自分から働きかけて成してきた。小学生のときから。
本人の明るい性格と、他人を恨まない信念が、それを成してきたと思う。
中2のときの状況が一番ひどかったが、それを克服してから、見違えるように強くなったと、
父は思う。学校で怖がられて皆が近寄りたがらない男子に、彼女だけは、タメ口で接し
「ばっかじゃない」などと強気の言葉を発するものだから、周囲が驚き心配してた。
電話で、男子に対ししかりつけるような言葉を、出すのを聴いて、父も驚いたものだ
ただ、 そのあと「きつい事行ってごめん」と、誤ってたので、そんなに男子に敬遠されては
いないようで安心した。しかし 元来男嫌いである。なぜか同世代の男には厳しい。
女子にはそこが気に入られたか、高校以降は女友達が多すぎるくらい出来てバレンタインデー
に、何故か両手に袋一杯のチョコレートを持ち帰った。女子の友人達からもらったという。
まさに 誰が見てもやることが男だったんだろう。そんなわけで嫁に行く心配など全くなさそうで、
安心させてくれるお姉ちゃん。夕べは帰るため 家を出たのが 午前1時前 アパートに着いて
メールをくれたのが2時過ぎ。今日はもちろん仕事。大丈夫かと、心配しそうだが。
夜更かしはいつものこと。電話に出たとき「今カラオケ」「居酒屋」「友達が来て飲みかた」
こればっかし。いい加減にしろ と 言いたいが 我々の20代もだいたいこんなもんだった。
男だと思えばしょうがないか。

今日は雨。そして 昨日と同じ寒い一日、陽も注さず春は何処やら。
気温10度に達せず、今は7度。これじゃあ2月の方が暖かかったんじゃないか。
終日、雨も降り止まず。
こんな悪天候の中、出水から娘が久しぶりに帰ってきた。会うのは私が未だ入院中の
2月中頃以来。週はじめまで、体調を壊し、頭痛に苦しんでいたが、すっかり回復し
元気な姿を見せてくれた。妹の「会いたい」要望に応じたわけだが、こちらの様子も
見ておきたかったのだろう。妹の様子が、先ず知りたいだろいうが、母親も「鬱だ」
と、言ってくる。父親の退院後は、どうか。昨晩母親と電話で久しぶりの会話を
1時間近くしていた。その中で、お父さんの悩みを、滑稽に語ったらしく、その後
メールが来ていた。既に就寝していた父親 私のことだが 朝方4時半に、気づき
読んでみた。自分と 妹を比べて、違う点の分析、やっぱり妹だけど 心のうち
は、解りかねるらしい。今日はこれから 妹を食事に連れて行ってくれる。
きっと 苦労を乗り越えて 強くなった 自分の体験から、妹への良きアドバイスを
してくれるだろう。親にできなかった部分の助言は、姉に任せられる。
持つべきは しっかり者の長女。

また寒くなった。昨晩から気温が下がり、今朝はひんやり。快晴で陽が注してくれているから
春の装いは、保たれ、冬に逆戻りとまで行かなくてよかった。
こちらはひんやりの春だが、もう初夏の与論から、またアイスコーヒーの大量注文。
「居酒屋ひょうきん」のさゆりさんが、アイスコーヒーを飲みながら電話してきた。
冬でもアイスがよく出るところだから アイスの注文は、予想しているのだが、
毎回量が多い。当然在庫は足りないので、あわてて焙煎、同時にマイルドブレンドの注文も
あり こちらもかなりの量、配合したら、使用した4種のコーヒーがほとんど空に。
これらも焙煎。結局9釜。いつもは早朝から焼き始めて昼過ぎには終了して 午後からは
配達に出れるが、今日は注文を受けた後10時過ぎから。終わったのは16時半。
幸い と、言っていいかどうか 今日は他からの注文が少なくて助かった。
ここ数日、個人的要因で、落ち着かなかったが、新しい豆も入荷して、もっと仕事に身を
入れなければ。ハンドピック(豆の選別)作業で疲労し背中の筋肉が痛む。この痛みが、仕事
を、しっかりやった証拠。ふわふわした気分から仕事に集中する体制に戻れた。

娘の話は 夕べ遅くまで、そして今日も続いた。ほんとにいろんな辛いことがあり
それを 話せず,胸のうち溜め込んで、そのことでも苦しんでた。
お腹の音も、その後にいじめがとともなって、トラウマに発展していた。
中学時代の教室でも 部活でも辛い出来事に襲われている。それでも、休まず
行ってくれてた。行かなければその理由を、聞かれ いやな体験に言及しなければ
ならない事も さらに嫌で、我慢の登校を、続けざる得なかった。
話せれば楽だったのに。話してくれたら助けてあげられたのに。と、親は思う。
でも話せないものなのだと言うことも 知っている。
親は気づいて聞いてあげなければならなかった。話しやすい環境にしておかねばならなかった。
親とよく会話する子だと思ってた。実際学校でのことは、よく話してくれた。
でも 自身の苦痛は話せなかった。話されてもわたしは「そんなこと気にするな」「がんばれ」
としか言わなかっただろう。「話しても解ってもらえない」」こう思ったことが、話すのを
ためらった原因だろう。楽にしあげられなかった。ほんとにすまない
学校へ行って、昨日の旧担任と 新担任に面会してきた。二人ともよく理解してくれた
やはり 教育に携わる人、的確に生徒の内面を推察できた。新担任は若い、近い年代の
生徒達の心理と行動を、よく理解してた。
娘の状態を受け入れて、結論を先送りにしてくれた まだ何とかできそう 何とかしたい
「あと暫く様子を見ましょう」。この言葉をありがたくいただいた。

今度は 下の娘のことを書きます。今夜、前年度の担任だった先生が尋ねてきてくださった。
娘は、今不登校の状態です。昨年10月から、ほとんど高校へ行ってません。
先生は、何度も家へ様子を見に来て、「無理はさせないで」という言葉を、かけてくださるのが
常だった。しかし 今日は「明日の朝から 必ず登校してください」と、厳しい口調で娘に語った
昨年度 出席日数が足りずに進級できなかった娘には、通信制高校への変更を考えていたが、
娘の「今の高校へ通いたい、薬を飲んでで、どんなことをしてでも頑張るから」という、言葉を
信じて、再度1学年をやり直すよう、先生が、手配してくださった。今日は「固く約束したことを
守るように」と、解いたのだ。真剣だった。迫力があった。娘も驚いたことだろう。いろんな
言葉で 励ましてもくれた。自身のことをあからさまにし、命を縮めることになってもという
意識で接してくださっていることを知った。
娘は できれば行きたいという意志は、持っている。しかし 朝体が動かない。中学時代も度々
同じ状態になったことはある。しかし一週間程の休みで戻れた。中学の卒業間じかに、長期の
欠席をしてしまったが、4月高校入学後は、直ぐに友達もでき 支障なく登校していた。
勉強は、ずっと苦手で、ほとんやらない。中学のときから試験勉強も、したことがない。
2学期に入って休んだり、遅れて登校する日が増えて、またじゃないか、と心配していたが
10月の中間考査の途中から、長期欠席になってしまった。
試験恐怖症と、思っていたが、登校が、負担に、なる原因は、私にとっては思いもよらぬもの
だった。中学時代に一度 授業中お腹が大きな音を出した、後の休み時間に 男子生徒たちが
その音を話題にして笑ってた。それまでも お腹がなることは、よくあったが、それ以来、
お腹の音が恐怖になり、おとが、聞こえやすい静かな授業時間が苦痛になったと言う。
ずっと以前に その話を軽く耳にしたが、そこまで深刻なこととは思いもせず、「そんなことで」
と、聞き流していたのだ。娘には大変な負担で、あさ、登校の準備に掛かると、気に掛かり、
腹痛や、吐き気を、覚えるようになり。休みが長期に重なってしまった今は、もしお腹のことが
解決しても、学校に行くこと自体かなり苦痛になってしまっている。
強い決意をした娘だが新学期になっても、すんなり登校はできず、先生の訪問となった。
叱咤激励の先生の話を、圧倒されたように聞き入っていた娘。先生に対し、「行きます」と
返事がでて、私も先生も安心した。
しかし、娘は、「行かなければ」と、思うほど、内心の不安が増幅。「行きたいけど行けない」
先生の励ましも、圧力のように感じてきて、明朝のことを考えると辛いようで、蹲ってしまった。
残念だが、いまの高校への通学は断念。残念と思うのは、私が行って欲しいと思っているからだ
私の考えが、娘への理解の妨げになっていたのかも知れない。娘の意見を聞いても、私の希望
に沿う答えに導こうとする。娘のためと、思っても娘を苦しめていたんだ。
次の道を探して、今の状況から脱せられれば、娘の苦痛は拭い去られ、よい結果にたどり
着ける。そう信じて、応援していこうと、今は考えを新たにしている。
娘は、今までに辛い思いをした体験の数々を、延々と語り、思いを吐き出し スッキリした表情に
変わっている。家族皆にとっても明るい道に、進めそうだ。

新聞によりますと
奄美の中学校でも、丸刈り強制といわれている男子の長髪を認めない校則の見直しが
数校で、行われ 4月から実施されているそうだ。
ずっと以前に 見直された龍郷町の中学に加え 奄美市内の学校でも次々に、長髪解禁
に、進んでいるらしい。割と生徒数の多い旧名瀬市内のA中や、K中もその中に入って
いて,全体として解禁になった言えそうだが、最も生徒数の多い 2校が未だ決定していない
何年も前から、「もう なるだろう」と、言ってたのが、今になって「やっとなりそうだ」。
私としては 何で丸刈りでないといけないのか が、わからない。尋ねられた学校はどう説明
しているのだろうか。テレビのワイドショーで、取り上げられたこともあったが、出演してた
人たちも、何で問題なのかわかってなく真剣なコメントはなかった
「生徒が自分で署名を集めて、長髪を認めるよう 校長先生に言えば 済む話じゃない」と、
論を結っした意見がむなしかった。「生徒はもちろん親が何度、請願しても学校は聞き入れ
なかったのだ。学校の意志だけでなく、市民にも,中には保護者にも、丸刈りに固執する意見は
ある。一番困るのが「伝統だから」というもの。伝統だったら男は全員丸刈りだ。
1960年代までの高校の丸刈りだって、奄美の本土復帰前は認められていた長髪が、復帰して
赴任してきた鹿児島からの教員によって禁止されている。たいした理由もなく
「丸刈りの方がいいんじゃないか」と、「自由にさせたら風紀が乱れる、非行が増える」と
言うのが 解禁反対の多数意見のようだ。長髪自由化と非行の相関関係を、あらわす数値が
資料としてあるんだろうか。逆の数値なら私は知っている。少しの自由と責任を持たせた結果、
生徒達の不満が解消し、問題行動が際立って減った。そういう事例を、いくつも知っている。
保護者には経済的理由を、あげる者もいるが、自由化だ。丸刈りを禁止にするわけじゃない。
私達の中高生時代は、GSブーム フォークシンガーの長い髪がもてはやされ、我々も真似
したがった。でも、そこまでやることは、周囲が容認しないと判断でき、理性がそれをさせ
なかった。今の中学生だって、わかるよ。今 男の長い髪なんてはやってないし やりたがら
ないだろう。長髪じゃなくて 調髪に徹してくれるはず。
「髪ばかりいじって 勉強が手に付かない」という親が 昔はいた。確かにあの頃 
ヘアースタイルは男子生徒にとっては大事だったかも。好みの髪型をビッシっときめて
颯爽と町を闊歩したものだ。でも 服装はいつも学生服。
今 生徒達の興味は多彩だ。服装もナイスコーディネートを心がけている。頭髪ばかり気が向く
ことはないだろう。やらなければならない事は、身の回りの環境に関わらずやってる。
ただ、好まない髪型の強制は真っ平だ、と言っているのだ。


健全な肉体は万全な睡眠に因る

昨日は、雨のため ウォーキングを休んだ。その分もと思って、今日はいつもより長く
と、気力だけは満たして、挑んでみたが、歩きはじめから体がだるい。足が重たく、速歩
が出来ない。
木曜日も、後半同じように足が重くなり、きつかった。燃料が切れたみたいだった。
その日は、朝食を取る時間がなくて、その一食抜いた昼食を多めに取って、カバーしたつもり
だったけど、体のエネルギーが、十分には補充されてなかった。
今日は、遅い朝食だったけど食べたし、昼食がうどんで軽めだったけど、満足できる量は食べた
歩く前には、バナナを一本。仕事が忙しかったということもないのにだるいのは、何故。
いつもと違うことが、何かあるか と 考えて、思い当たるのが、昨晩の夜更かし。
夜中2時に、ブログを書き込み、就寝が3時前。今朝は、8時半起床。5時間半の睡眠
いつもは 7時間寝てるから、寝不足と言うことか そういえば 昼食後眠たかった。
結局 昨日の疲れが取れてない、回復に至るほどの休養を取るには、睡眠時間が足りない。
病気になる以前は、こんな睡眠不足の状態が日常化していたのだ。こんなにきつい事なのに
慢性化して、神経は通常のことと知覚し、体に警告する必要も覚えず、催眠に掛かったような
脳は、「まだ大丈夫」を繰り返していたんだろう。この鈍った神経と蓄積された疲労をほおって
おけば病気になるのは当たり前か。
この だるさを 忘れることなく、健全な生活時間を守ることに努めなければ。
我が家は 晩御飯が、遅いんだよな 自分の分だけ自分で早めにさっさと作ってしまおう。
できれば 美味しく。


こんな遅い時間に書き始め。ピアノを、弾くのに夢中で、12時前から
明日の準備に掛かり、終わって今からブログの時間
何で急にピアノに、はまったか。まだはまってはいない。
よそに貸していた 電子ピアノが2年ぶりに帰ってきたからなのだ。
上の娘のために、彼女が小学2年生のとき購入したグラビノーバ
世良正則のコマーシャルで、娘役のこが、「お父さんは自分のために
グラビノーバを買ったのよ」とせりふを言うのがあっが、我が家も
そう。娘が大きくなってからは弾くことなく、家もでてしまい
下の娘は、テレビとゲームに夢中で、たまに、母親と一緒に、ピアノに
向かうが、年に数回。母親は昔バンドで キーボードをやってたから
また、弾きたいんじゃないかと思ってたけど。「そんな暇ありません」
「今 使わないから」と、知り合いに貸してしまってた。
私の楽器、サックス ペットは、うるさがられて駄目。ギターは弾いた
あと、置いておくと「邪魔」と、すぐ タンスの上に仕舞い込まれる。
家具のようにいつでも置いてある 電子ピアノなら スイッチを入れて
直ぐ弾けた。2年経って ピアノのことなんか忘れていたが、借り手が
転勤で、去るため、戻されたのだ
やっぱり私が先ずその前に座る。「Killing me softly with His Sonng」
を弾いてみたが うまくいかない。次「My Romance」、ビル エバンス
に、なりきった。「softly as in a sannrise」これは、ウィントン ケリー
夕食の後 娘がピアノの前に座ってた、傍らに立って、私も鍵盤にさわり
娘のためにと、サザエさん 踊るポンポコリンのメロディーを奏でて喜ばし
あとは、娘が去り また私が、独占。Nut rocker ・blac orpheus
オスカーピーターソンのつもりgirl from ipanema ハンプトン ホースの
green lives of summer 思いつくメロディーをジャズピアニストになったつもりで
没頭してしまった。
なったつもりは、ジャズが弾けるつもり ほんとはピアノが弾けるつもり。
私はピアノを、習ったことなどない。弾いているというより、音を探して
鍵盤をなぞっているだけ。したがって 右手で、メロディーは奏でられるが、
左手は、時々コードの一音だけ合わせて 後は適当に打つだけ、右手もたまに
広げて コードの2音を同時にたたいて 格好だけピアノプレイのつもり
こんな遊びが、ピアノが大好きな私の、最高の楽しみ。

「彼岸花」で思い知った、娘の親父は切ない。昔も今も

昨日観た小津映画「彼岸花」、続きを今日鑑賞。観終えて考えたこと。
親は子供に対し、「こうなって欲しい」と、理想とまでは言わなくても、
願い のようなものを抱いている。これは、親だけのものとして、子に
指導のつもりででも、くどくは、いわない方がいい。指図と、受け止められて
うるさがられだけで、子は親の思いを解ってても、それを忠実に守ろうなんて
これっぽちも思わないだろう。「こういうことはいけない。」と、思うことだけ
普段からうるさいくらいにでもいっておくだけにした方が良い。
映画の趣旨とは、ずれてるが、観ながらそういうことを考えていた。
主人公の父親が 激怒したのは、自分達が日ごろから娘の幸せのためにと、良縁
を、探してるのを知ってるはずなのに、娘は勝手に自分で相手を決めてしまったこと。
現在なら、本人達 双方の同じ思いによって決まるものだが、50年前だと、家長に
強い権限があったようだ。小津の作品は、よくこういう娘の縁談が テーマになる。
「晩春」「秋刀魚の味」では、父親の進めた縁談で落ち着いたが、この「彼岸花」
は、、娘の一途さに負けた、父親が苦々しい思いながら認めざる得なくなった、
父親の滑稽な頑固さが、佐分利信の演技で、見事に現れている。滑稽に見えても
父親はこう思うのは当然だ と、言う意見も多分多かろう。
私の周囲でも、娘を貰いに来た男を、本気で怒ったという話はちょくちょく聞く。
ある親父は 芸能界に身をおく婿に対し「俺は 女の芸者は好きだが男の芸者は好かん」
と、言い放ち、結局,傍で聞いてた、娘を泣かしてしまい他の家族の大顰蹙を買ってしまった。
またある親父は、「娘をやるからには、相当飲める奴でないとだめと」「一晩付き合って飲め」
と言うことで飲み比べをはじめたが、その内、酔いが回ると 楽しくなって嬉しくなって、
親父だけ、どんどん酒量が増え、結局婿に介抱された とか。親父は自分で、
ケリをつけなければならない悲しみを抱えているのだ。私の場合、・・考えるの止めた
どおせ 娘は行くときは勝手に行くのだ。
映像の中で気づいた事。52年前、社会は現在とそんなに変わってなかったんじゃないか。
舞台は東京だから、都会は早くから発展していたのかもとも思うが。
人々は 今と同じ服装で、オフィスで仕事をしている。仕事帰りに、なじみのバーで、一杯
休日にはゴルフに行き、ゴルフ場には、クラブハウスがあり飲食が、可能。
浪花千恵子は、なんと人間ドッグに、入ってた。52年前でも、今の我々とやってることは
変わらなかったのか。違うのは、オフィスで仕事をしながらタバコをすってる。電話が、黒い
しかも、交換手を必要としている。もちろん携帯は、出てこない。
有馬稲子と山本富士子が、若い娘役、これが、映画が古い証拠。



ブログの書き込みは、だいたい夜行う。以前は、真夜中だった。
最近は、11時までに終わらせようと、開始を早めにしている。
ところが 今時刻は23時40分。19時にウォーキングから 買えってきて。
20時までは、DVD鑑賞 小津安二郎の昭和33年の作品「彼岸花」
見始めたら面白くなった。家内が、留守にしてるので 娘の食事を、作らないと
いけないのだが、ちょっと待たせて、1時間見てしまった。急いで 魚を焼いて
サラダを作って、出せせたのは 20時40分。風呂の準備をし、ガソリンの給油
のためスタンドへ、ついでに あすの弁当の材料の買出しをして、戻ったら22時30分
食器を洗ってから、隣の作業場に来て、明日の出荷の準備、焙煎の準備をした後、パソコンに
向かったのが 今の時間。
今日は時間もないし、書きたい事も、思い浮かばず、お休みと、決めていた、単に 
遅くなってしまった言い訳で これだけ書けた。内容は乏しくとも形だけは保てたかな。

私の作ったサラダで 娘は腹痛を起こしている。同じものを食べた私はなんともないのだが
お父さんが作った というだけで 神経性の胃炎にでもなったか。

Softlyにロバータ・フラック

ブログ「今宵の一枚」第592夜は 1973年のグラミー賞ロバータ フラック「やさしく歌って」
ロバータ・フラックの、コンサートの映像を、見るのは初めてかも入れない。
この曲と 「愛は面影の中に」を聞く機会は何回でもある。写真も、沢山見てる
でも、動く映像は初めてかも。印象が、今までとは、違ってた。カーメン・マックレイや
エラ・フィッツジェラルドのような女性を想像していた。ジャズシンガーもよくこの歌を
レパートリーにしているが、カーメン・マックレイやエラおばさんじゃあちょっと
会わないかな。彼女らのファンから異論が出るかもしれないが。
ロバータ・フラックは、そんな 威勢のいい人じゃなかった。やはり バラードの似合う
穏やかな美しさを備えた人だった。ブログに紹介されてたコンサートは2009年とあるが
それにしては若い。1972年にワーナーパイオニアが、所属アーティストの紹介のため
出した2枚組み980円のLPレコードで、初めて「愛は面影の中に」を、聞いて以来、その
歌声に魅了されてきた。今日も二つの曲を、時間が止まったような感覚で、うっとり聞いていた。
それにしても うまい!この歌この声、ロバータ・フラックでなければ、表現不可能とさえ
言い切ってもよい。今夜も この後 また聞こう。

減ったぞ

午前中、一ヶ月ぶりの病院。血液検査で、コレステロールのことを指摘されないように
食べようとして、調理した卵は、食せず。食パン2枚に、マーマレードを付けて、豆乳
と一緒に腹に入れただけで、病院へ。今日卵一個食べなかっただけで、目だって変わるわけ
でもないのに、少しでも と、思ってしまう。体重も減ってない、食事は少なめ、そして
徒歩で、向かった。近いから 12分位で、着いてしまったけど。
しかし 今日はそれらの検査なし。医者は 手足のむくみがないかを調べ、聴診器をあて
「水分は、十分取っているか」「以前のように普通の生活が出来てるか」を質問
体重も何キロか尋ねて「ン十1キロ」と答えると、ン十8キロまでは 落としなさい」と言っただけ
血圧を測って正常であることを確認して 終わり。毎日粗食で頑張ってるのに、それを
確認する血液検査はなかった。なんだ、と思いながらも、必要ないほどに回復している
のだと 理解し、まずは安心。その安心が、ちょっと慢心に、なりそう「今日ぐらいは
歩くの休もう」と、考えてしまった。でも いつもの夕刻、体は歩く習慣に、抗せず
、他に仕事もなく、歩き始めた。一時間の、速歩の、後 体重計に乗ってみる。
やったぁ 大台を 下回ってる。初めて 成果を確認できた。子供に
「毎日こつこつ 頑張って続けたからだよ」と、威張ってみせた。
もう 以前のスマートな体型に、戻ったつもりになってる。いや まだまだ あと18キロ
落として 元の体重。果てしなく遠い道のりだが、やるしかありません。明日からも
ひたむきに歩き続けます。

懐かしの「街」、ナターシャ7

高石友也と、ナターシャ7の曲「街」は、最後の部分の歌詞
「この街が好きさ 君がいるから この街が好きさ 君の微笑みあるから」
という ぐっと来る歌詞で、大好きだ。この部分は、いろいろ替え歌に出来る
高校の名前にすると、私の母校は大島高校。通称大高。
「大高が好きさ 君がいるから・・・」私の実家がある名瀬長浜町は「長浜が 好きさ・・・
夜なら、スナックるびーで 「・・・・るびーが好きさ 君の微笑みあるから」
得意先の テオリアも出さないとまずいか 「テオリアが好きさ 君がいるから・・」
原曲は 京都の街を、歌ったもの。歌詞に出てくる 五重の塔や路面電車は どこにもある
物ではないけど、路地裏通り、美術館 流れる川 背の低い山 は、割と探せばありそうだ。
初恋の涙に、ぴったりの山陰の細道。君を待つ並木道。君と僕の明日へ思いを馳せらせる
山並み。これらの素敵な言葉を生かして、ロマンティックな歌詞が作れそう。
実際何曲か作っているがまだ人前で歌ったことは無い。カラオケがあったら歌ってみたいが
無いだろうな。
ナターシャ7のコンサートは2回見たことがある。うち1回は、北山修が、別名で主催する
「ダーティーサーティーズ」のコンサートで、北山修や杉田二郎らとのジョイントだった。
77年頃だったと思う。彼らも高石友也も30代だった。
ナターシャ7のメンバーも 木田たかすけ と、坂庭省吾は、既に故人となってしまった。
バンジョーの名手、城田じゅんじも訳あって活動できない。ランナーとしても、有名になった
高石友也さんひとり、この「街」や、「私に人生と言えるものがあるなら」「陽気にいこう」
など、コンサートで一緒に歌った曲を歌い続けている。ナターシャ7としての歌と演奏を
実際に聞くことは出来ないが、すばらしいコンサートのライブ録音が聞けた。京都の
恒例となってた、宵々山コンサート の演奏、70年代から80年はじめまで毎年行われていて
いつのものかは解らないが、「街」を、会場全体で歌ってる。丸山音楽堂での演奏であることは
間違いない。千人余の、観衆のコーラスが聞ける。美しいコーラス。聞きほれる。すばらしい。
京都の人たちは、この歌が、好きなんだと、しみじみ思う。

我喜屋監督に捧ぐ

最近、野球を見ることがほとんど無くなった。20代の頃は、毎晩テレビでの
プロ野球観戦が、楽しみだったのに。ニュースでも気に留めることは少なく、
ホークスの結果と姶良出身の川崎が、どうだったか、結果だけ知ればそれで
良い。高校野球にしても、県内の大会で、知り合いの子息が、出ていたら
応援に球場へ、出かけるが、テレビでは、鹿児島代表の試合でも、ちらっっと
勝ってるかどうか確認するだけになっていた。
今日は、割りと長い時間、選抜大会の決勝戦を見た。実際は、長い試合の3分の1
くらいかな、5、6回と、7、9回の一部。最後の12回。最後の12回の裏、表。
結果が決まった、クライマックスを、見れたので、気分は、試合を十分楽しんだ思いだ。
沖縄代表を応援したわけだが、監督の我喜屋さんの思い出が、応援した理由でもある。
興南高校が沖縄代表として、当時では、思っても見なかった 活躍で ベスト4に
進出したのは、1968年、そのときの我喜屋キャプテンが、数年後、都市対抗野球
で、優勝、大昭和北海道の、ナインとして新聞で紹介されている記事を見て、驚いた
ことがあった、そのときの驚きは、「沖縄の人が わざわざ北海道まで行って野球して
いるんだ」という事。高校野球では、その後暫く 沖縄チームの活躍が少なかったため
興南のベスト4は、まぐれ 見たいな事も言われていたため、我喜屋選手の活躍は
あのときの興南の、選手達はやっぱりすごかったんだ。と、再考させる事となった。
1989年の、7月、都市対抗野球が開催されてた時期、私は東京にいて試合会場の
東京ドームは、頻繁に行っていた。準決勝で、野茂投手の新日鉄堺と、大昭和北海道の
が、対戦した試合も観戦した。そのときはまだ 我喜屋選手は 大昭和北海道の中軸打者
として活躍していて、当時のNO1ピチャー野茂を打ち込み 勝利した。初回にホームランが
2本出たが、我喜屋選手が打ったんじゃなかったろうか。21年前の事で、わからないが
彼が活躍したのは確か。
その後監督になったようだ。(思い出した1989年の時点で彼はコーチ兼任だったはずだ)
選手として長い期間 プレーし、活躍もしたわけで、やはり 立派なプレーヤーだ。
そして、数年前、母校の監督になったことを、新聞でしり その活躍を期待していた。
今日優勝監督として、インタビューに応じ その真摯に受け答えする姿を見て、立派な人格者
だと 確信した。これまでの野球人生同様、好選手として活躍しても地味で目立たず、周囲を
盛りたて、気配りを忘れず。地味であっても 野球界では、絶対必要な人でもあろう。
今後も この監督に注目し、応援したい。


友人の保証人になった。雇用契約で、彼の勤め先に対しての保証。実際は頼まれて、
保証人の承諾書に署名捺印しただけ。友人の会社が、私を保証人としてふさわしくないと
判断する場合もある。
友人の保証人になることには、何の疑念も無く、即断で応諾したのだが、
何で、保証人を求めるのかが、疑問で、友人にその件を言うと、彼も
「必要ないと思ってほったらかしてたが、監督権のある官庁の検査のとき、
問題にされるからから、と本部の指示」と、言う。
もう30年も勤めているのに、未だ、保証人が必要なくらい 信頼が薄いのか
と、思っていたが、形式を大事にする 役所の意見に企業が従がわざる得ない結果だった
私も 30年前 同じ会社に就職した。保証人をつけることを求められ、なんか腑に落ちないが
この会社では、提出せねばならないのだろうと、提出を、拒めなかった。
なぜ保証人の必要に疑問を持つかと言うと、ある 企業人の事を雑誌で読んで、その行動に
同感だったから。
「会社は 試験を課して、その人が、有能で信頼できるから 採用を決めたはずなのに、保証人
を、付けさせるのはおかしい。」と、保証人に関する書類の提出を拒否したという。
私は それほど有能じゃないので、会社に強く言う度胸は無かったが、数年後にまた新たな
保証人の承諾を求められた際、支店長に「私の信用が足りないから保証人が要るんですか」
と、ちょっとふてくされて言ったことはある。
有能で誠実な人間でも 魔が差すことはあるが、本人と企業の雇用責任の方が、大きいはずで
保証人に、責任を負わせて弁済させることは、ほとんど無いんじゃないか。
彼の方の、保証人書類提出を渋る理由は「保証人をお願いする」事の煩わしさにあったようだ。
これまで保証人になってもらったのは 年長の人が、普通だった。親と叔父なら頼みやすかった
が、皆高齢になってしまったり、既に他界してしまったり。本人だって、甥、姪の保証人になって
あげてる立場だ。もう後数年で定年というところまで勤めてきたのに、まだ保証人を要求される
不快もあるだろう。規則だからと言われれば従わざる得ないだろうが、十分な社会的地位を確立
している彼らなどは、本人の誓約書で済ませるなど、実際に効果がありそうな規則も、考えれば
いいのにと思う。何かあったときに備えて保証人という考えは、必要な契約もあるけど、
大よその、契約事に、当然のように適用する慣習には、疑問を持った。
もうひとつ疑問は、彼と私の関係で言えば。彼の方が私より収入が多い。私の保証人が彼で
あるなら解るが、その逆で、いいんだろうか。冒頭で書いたとおり、相手会社が、私を承諾しない
可能性は、そこにある。承諾したら、ほんとに形式だけと言うことだ。
もう一人 高収入の保証人を探せばいいのかな。 





昔ジョージと呼ばれていた本名正樹

大学時代 私はジョージと呼ばれていた。と言っても 親しい周囲の一部からだけど
あの ジョージ・ハリソンに似ていたのだ。ロングヘアーに口ひげ 体重は48k
頬はこけてた。ただ 身長は、私がかなり低いが。高校のときにもジョージファン
の女子に、「似てる」と言われて、ちょと嬉しかったということはあったが、大学でも
言われて、これはもうその気にならざる得ない。
目の悪い私は 学生生活の後半はめがねを欠かせなかった。流行の銀縁めがねをしていると、
今度は違う人に似てくるのだ。ロングヘアーに 口ひげは変わらず、めがねをして電車に
乗ってたとき、大阪環状線で、鶴橋から大阪へ向かってたときの車内で、数メートル離れた
ところから 私をちらちら見ている女の子が2人。全く知らない顔で、「なんでだろう」
と、気になっていたところ「上田正樹ってもっと、背、高いんとちがう」と言ってる声
が、聞こえてきた。上田正樹も好きなミュージシャン、彼の顔を、思い浮かべれば、似てる
と、思った。これも嬉しいけど 私は背が低いし顔意外は似てるところなし。上田正樹を
知っていたら明らかに違うとわかるだろう。私は表情を変えないように、じっと窓外の
景色に目をやるばかりだった。女の子に注目されてうきうきした気持ちがあったのも事実
だけど。「かっこいいミュージッシャンに、似ているんだ」と気分も良かった。
今は 面影なし。誰かに話しても、「うそだろう」と、相手にされないだろう。
娘には、昔の髭面の写真を見せて、強引に「うん 似てる。」と、言わせたが、妻は、
嫌がって 写真を見ようともしない。私がかっこよかった、と、思ってる頃の写真なのに
見てくれない。ジョージハリソンは、既に亡き人になった。上田正樹は 口ひげはそのまま
だが髪は、ずいぶん短くなってる。「似てたよな」 と言っても 友人達はもう忘れてしまって
「そうだっけ」と言うだろう。私だけが今は言っているわけだ。
ロングヘアーは、高校卒業した年から、床屋へ行くのが面倒で 伸ばしっぱなしにしていた
髭は、女の子とよく間違われたから。何しろ長い髪に小柄、女性と似た体格なので、よく
「お嬢さん」と、呼ばれた。「お前ゲイバーで働けば月100万は、堅いぞ」と言う輩もいた。
たまに また髭を伸ばそうかと、思うことがある。コーヒー屋だから いいんじゃないかと。
でも かっこよくはならないのは、確か。不評を買ってそらざる得なくなるだろう。上田正樹の
いつまでもかっこいい髭の似合う顔がうらやましい。