店主の気ままなひとり言
珈琲工房かわもと店主の、ほとんど独り言

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私が 以前開業してた「世扉亜」はそのあと Aさん夫妻が引き継いで、「喫茶 世ぴ亜」として 営業していたが、今日 3月31日で、閉店となった。ただ営業不振ではなく、市の区画整理事業で、店舗建物が取り壊しとなり 立ち退きを余儀なくされたからである。
平成2年の8月15日から 平成8年10月31日まで私が営業,6年間。Aさんたちはその後 14年間も続いて営業してたのだ。当時 小学1年生だった息子さんも 今は大学生。ご主人は 他店で調理士として勤務し、ほとんどは奥様が切り盛り。夕方から ご主人が手伝い、翌日の仕込みでケーキなどを作る。二人でやってこれたのが長く続いた要因だろう。
客層も私の頃とは 大分違う。子供の頃から この商店街に住んでる奥様の関係で、近くの店の店主や従業員の女性が多く、私のときの 公務員 OLが多かったのと少し ふんいきは違う。
私が購入して使ってた 器具もその後大事に使ってくれてた。今でもほとんどの器具 食器を使い続けていた。
私の作った 看板がまだ入り口に置かれているのは ちょっと 感激。
もう やめるのではなく、今 移転場所を探しているところだという。場所さえ見つかれば、道具は揃っているのだから、直ぐ 再開出来るだろう。奥様 この商売が大好きみたい。また 素敵な店を作ってください。新しい店に行くのを 楽しみにしています。
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3月末、年度末 そして転勤時期。引越しが集中し、引越しに付き物の贈り物の注文が入ってくる時期でもある。旅たつ前、お世話になった方々へ、お礼をこめて。と 行った先でのご挨拶。お歳暮、お中元と違うのは、数と一個あたりの金額。お歳暮は少々値が張ってもお世話になったあの人へ。ということだが お礼の場合 ちょっとしたものという事で、値はそう高くない。ただ 数が多い。
今日準備したのは 学校の先生からの注文 コーヒー箱詰めで20個。別のお客さんから、勤め先の部署が変わるということで、新しく同僚となる方たちへ 20個。学校は明日28日が離任式ということで 明日午前 学校へ配達。
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私は転勤 2回経験あり、奄美名瀬の支店から 与論支店へ と 与論から名瀬へ。
引越しで慌ただしいのに面倒な慣習があるもんだと 他の人の転勤の時には思っていた。しかし 自分がその時になって、ねぎらいや 励ましのことばをかけてもらった時、嬉しくて なにか お返ししたいと思うようになった。中には 餞別というものをくださる方もいて これには 相応の返礼が必要だし、感謝の気持ちの表現として心ばかりのもの は、いいもんだ と いまは思えている。


藍美代子さん

東日本大地震の被災地として 石巻の名前がある。元 歌手 今 ジャズシンガー 藍美代子さんの出身地。いまも そこに住んでるんじゃなかったか。石巻と聞いたら 私の中では 藍美代子なのだ。
昭和48年「みかんの実る頃」でがテレビ ラジオからよく流れていた。美しいハイソプラノで、透き通った声での歌唱はすばらしかった。アイドル歌手ではない、ほんとの歌唱力で観衆を惹き付ける事の出来る若いながらも実力派の歌い手だった。テレビで アイドルの浅田美代子と、一緒に出演することもあったが、名前は似てても全くタイプと価値とが異なる2人だった。
今、藍美代子は、仙台で パブを経営しながら、ジャズシンガーとして活動している。東京でのライブなども定期的にやってるようだ。CDも出てる。ジャズシンガー藍美代子の声も聞ける。
その声は歌謡曲を歌ってたときと比べ、落ち着いている。年輪を重ねたこともあろうが、重厚になっているような気がする。声自体は、変わってないのだが、歌う技術が進化しているんだろう。
私が歌謡曲時代の歌で一番すきなのは 「手のひらの秋」49年の 作詞家協会の 音楽賞をとった歌だ、作詞は山上路夫「今朝 顔を洗ったら 水の冷たさに驚きました。」という台詞で始まる。町の景色の変化で時の経過に気づき、美しく変わった風景が次の季節への明るい希望をもたせてくれる。マイナーな曲調だけど歌詞は明るい。美しい景色と美しい心情を美しい声で歌ってくれている。
ブログによると地震の影響は 住まいは無事だけどライフラインの切断、物資不足で不自由な生活をしているらしい。東京で予定されているライブには出れないが、仲間達がチャリティに変更して行ってくれるそうだ。
パブのほうは 28日から再開。今までのいつもの活動に戻りつつあるようだ。
小さな体ながら、豊かな声量で、綺麗なハイトーンを披露していた歌手時代の歌を、今聴いても懐かしさではなくいつもの心に響く歌として聞くことが出来るし、今のジャズシンガーとしての歌声も、ゆったりと落ち着いた心地よさを得られる素敵なもの。ララバイ オブ バードランド を聴きながらそう 思った。



与論の風来簿君が私のためにTシャツを作ってくれた。ありがたいのだが、これ 彼が主催する「倶楽部 風来坊」の会員証なのだ。私が会員番号3番。2番はT嬢。しかし T嬢は「会員の話・・・しばし待たれよ、考慮中」とのメールを送ってきているそうだ。その理由は Tシャツの写真にあるのは誰が見ても判る。ボディービルダー風来坊の勇姿なのだが、彼女には、全く興味もないし 理解も出来ない。私は、この体を作り上げるのは並大抵のことではない と知ってるから、ミスターコンテストでのこの写真は敬意を持って見れる。ただ 会員になると言った憶えはないのだが、もう 既に 会員証にあたるTシャツが出来てしまってる。せっかくだありがたくいただくことにしよう。私のほぼメタボの体とは全く違うこの肉体美の写真を胸にして、他人の前に出るのはやっぱりためらわれる。
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ちなみに T譲からも 貰った。私がそのTシャツの事を聞いて 是非欲しいと、言ったものだから 送ってくれた。こちらは お気に入り。宣伝も兼ねて、ウォーキングの時に着てみよう。昔 一緒に飲み語らった酒造会社の社長も頑張ってるようだし、応援したくなる。
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さて 風来坊、一人じゃ着て出る勇気はない。仲間を増やしてみんなで着れば なんとかなるかな。会員増やしてくれ。

12日は父の3回忌の法要の日だった。11日の船で奄美に帰る予定にしていた。
その日の 15時前 あの地震。ラジオの一報で震度7と聞いて、「大変なことになった」と思った。家のテレビの前で、支度をしながら 音声だけ聞いて、津波警報を、知った。そのときはまだ、震源地周辺のことという認識しかなかった。その後 鹿児島にも津波警報、さらに 奄美にも。
与論の友からメールが来た。「与論は津波警報がでました。川元さんが乗る船は大丈夫ですか」
えっ というのが直ぐの感想。遠く離れた鹿児島で影響が出ることなど全く、予想してなかった。
港へ着いたら、待合室入り口で、船会社の職員が、説明していた。
「今 津波警報のため 岸壁は閉鎖されてます。そのため 乗船手続きも中断してます。津波到達予定の6時10分が過ぎないと 手続きは始められません。」
6時10分まで待てばいいのかと思った。結局8時過ぎ 欠航が決まった。警報は解除ならず。なんと 注意報に変わったのは、その24時間後だった。待合室のテレビで 東北の津波被害のことを知った。すさまじいものだった。現実に起こってるとは、信じ難い画面の中の状況だった。遠く離れたこの地も与論もまる一日以上解除されなかった津波警報。東北の様子を見れば そうだろうと考える。おそろしい津波の破壊力だった。
奄美には翌朝 飛行機で行き、当地の交通も混乱気味だったので、行ったその日の夜、警報解除と、同時に接岸した船に飛び乗り戻ってきた。
それから 一週間、被災地はさらにその困窮の度合いを増している。新たな問題も発生。私の意識も 田舎へ、帰ったことなど振り払われたかのごとく、遠くなり、目の前の悲惨さに涙する。

もう 1週間書いてない。まさかこんな 沈んだ気持ちになろうとは。
悲惨な状況を目の当たりにして、楽しく愉快なことを記すことなど出来ない。恐ろしい光景だった。何かを訴えようという気にもなれなかった。何も出来ない 口を閉ざしてしまった。
読む人に楽しんでもらおうと考えて書き込むことが最近は多くなっていたので、この状況について思いを語ろうにも、軽い言葉に終始してしまいそうで、語る自信が無い。
余震 原発事故 生活物資の不足、避難生活、混乱 まだ 災害が続いている。
伝わってくる情報は、まだ 復興を目指し始める状況にはとても至ってないということ。テレビ画面で見ればそれは一目瞭然。
ただ 被災者のために 我々みなが 何をすべきか、何をすれば役に立つか、これを考え 提案する 投稿がラジオから流れてきはじめた。既に 自治体でも 個人でも、可能な財物 労役の提供の申し出が相次いでいる。国民がこの事態に一体感をもって対処している。このことがこの先に希望を抱かせるありがたい要因。
これを意識して、さらに、明るさを取り戻せるような方向が望めるものをさがして、明日からこのブログが続けられるような気になっている。

昨日 箕島高校野球部前監督 尾藤公さんの告別式のニュースが流れていた。この監督と 箕島高校の野球は、私も大好きだった。
笑顔の監督という評が、大半だが,笑いながらも奥歯をかみ締めて、気だけは抜かないようにしてる表情だった。
試合で エラーした選手に「お前のエラーはあと2つは予定してる」と冗談言ったら、選手が安心したようにリラックスでき、よい結果に繋がった。というのが笑顔の理由として、以前話されていた。当時の監督としては、異例だったのだろう。「恋愛も励みになるからどんどんせぇ」と推奨したらしい。春夏連覇したときにの保守 島田宗彦に彼女がいるという話は よく伝わっていた。
思い出す試合で 一番多くあげられるのが、昭和54年の 星陵との延長戦だろう。この試合延長で 2回ホームランで追いついたのだが、最初のリードを許したのは、エラーだった。普通落胆を顔に出してしまうところ、彼等はそんな態度微塵も無いどころか、一塁手は笑ってた、この余裕が逆転劇を生んだか。試合を楽しもうと、言ってもそうできるものじゃない、しかし 彼等は、普通どおりだったのだろう、余裕を持ってた。負けて泣く試合はしない というのが目指すものだと言ってた。それを聞いたのは、もっと前、昭和45年の選抜での優勝インタビューだった。この試合でも 延長に入り、点を許しながら 追いつき さよなら勝ちに結びつけた。
この試合でも、大詰めの場面で 簡単なファールボールを野手が見合って落としてしまった。エラーだ。でも 内野手達は笑ってた。1点リードされた裏の攻撃 ランナーを置いて4番島本講平の打順で、期待が盛り上がる、しかし 三振、落胆万事休すのはずが、投手でもある、島本がつぎに備えて投球練習を始めた。テレビ解説者が驚いてた。次打者が、長打で、ランナーを返し追いつき、最後は島本のさよなら打で、勝利。優勝。この試合もよく憶えている。
このどんな苦境のときでも笑顔を、保てる、余裕を持って考え 判断できる。こういうチームを見て とても感心し、以来 この高校のチームを、応援してきた。
漫画 「どかべん」のユニホームが 箕島のユニホームをモデルにしているというのを、聞いたことがある。試合中は、常に真剣で、笑い顔など見せてはいけないとされてた高校野球。このユニークなチームにはたくさんの人が、興味を持っていたのだ。
大学のとき 同じセミに 箕島で、ピチャーをやってた男がいて、親しくしていた。一言でいうと おおらかな男だ。大学生としては、社会性を持ったというか、我々より、一段上の分別 礼節を既に備えていた。尾藤監督に教えられた、人としての基本を見事に発揮していた。
他の 多くの高校の監督達が、尊敬し教えを請うという、立派な監督として、高校野球界に 名を残していくだろう。


カンニングで逮捕されるとは、思いもしなかった。カンニングはルール違反だが、違法行為ではない。威力業務妨害ということだが、損害を受けたという大学の損失は 相手を犯罪者として世間に晒さねばならないほどのものだったのだろうかという、疑問が多方面から起こっている。
1回のカンニングで 捕まるどころか 学校を退学になった例さえ聴いた覚えが無い。
ルールを破ったことで、ペナルティーは架せられるが教育の立場で考えたら、過酷な状況に突き落としてしまうようなことは普通考えられないと思う。有名な難関の大学で、新しいツールを使って、新しいカンニング法で。という事で、マスコミが大きく取り上げ、世間が騒いでしまった。あとで落ち着いて考えてみたら 逮捕という手段は疑問に思えてきたのだ。
ただ やったほうも 本当にそこに入学したいんだったら、入試でカンニングはするべきでなかった。入るんだったら正々堂々が絶対条件だ。その時の運も、あろうが全てを超えて勝ち取るべきものが合格だった でなければ入った後、不安で仕様がないだろ。
中学高校でのカンニングは、怖くて出来なかったが、大学 社会人になってからのそれは、割と 大らかに考えがちだ、「まあ まあ その程度の事いいじゃないか」という雰囲気になってた。もちろん 厳格な資格試験などは別である。大学でよくやったのは、回答の大事なキーワードを、机に書いておく。もし 度忘れでもしてしまったら見ればいい というもの 実際には実行することはそれほど無く、安心のためだ。みんなで というのもあった。語学の長文訳の試験で、印刷物を、配布するんじゃなく、講師が 黒板に問題の文章を書いていた。テキストからの出題なので、ノートに回答がある。黒板に書かれている間に、みんな ノートを出して 写しだした。問題を書き終わった時には、回答が出来ていた。講師も多分知ってたと思う。講義を受けた人には単位を上げます という事だったようだ。会社での試験でも、監督する 支店長が、わざわざ理由をつけて 席をはづし 受験者みなテキストを出して 回答を探す。ただ、試験はそれを見ただけで簡単にわかる程度のものではなかった。支店長も当然それを知っている。
ある程度 大目に見てもらえる試験と 絶対に許されない試験の区別は一般人にわかる筈。してはいけないときにしてしまってら、それに関する権利を全て失ってしまう。それで 良いんじゃないか。かたぐるしく法律を持ち出さなくても。

今日は 南の島 与論島の1大イベント ヨロンマラソン。好天に恵まれ無事に大会は成功裏に終了した模様。メールで詳細を教えてもらった。詳細といっても、知り合いの様子だけど。とりあえず みな 完走できたそうでなにより。 おめでとう。
「つぎは 私も」と、楽しそうな 向こうの様子を浮かべると、行きたい願望が強くなる。残念ながら 今は走れない。「づっと歩いてる人もいたよ、時間内にゴールすればいいから」という報告に また 奮起。早歩きだったら大丈夫。いまやってるウォーキングを、練習にして、距離を漸次伸ばしてき、40キロ歩ければいいのだ、または7時間早歩きが出来るか。
私はこの第1回に参加した。19年前。今回は20回。19年前一緒に参加した、風来簿君、Y氏 TM氏が、今回も参加している。中でも TM氏は、20回連続の出走だ。今は 鹿児島に住んでいるのに、ずっとこのときは与論に帰って 走っている。すごい。TV風に あっぱれ。
19年前は 大会終了後、夜遅くまで、祝宴で、献奉を何度も飲み干した。泊めてもらってたひょうきんのK坊に連れられ 最後は アスリートのNとヤギ汁をたべた。
今日も 完走の目的を果たして 満足感一杯の ランナー達が 同じように 仲間同士で 祝杯を傾けていることだろう。
そう 思ってたら 割と早い時刻 風来簿氏が、「今日はくたくたです。」とメールをくれた。あれから 19年、昔のようには出来ないようだ。
彼の風来簿ブログに、明日 詳しく大会の模様が紹介されるはずだ。


「記憶というものは、深い海の中に、沈んで堆積しているものが、何かのきっかけで 海面に出てくるようなもの」。大学入試の国語の試験の長文の冒頭に、これがあった。30数年前のこと 私19才。何で こんなこと憶えているか。 この年 受けた別の大学の入試でも、同じ文章が出されていた。こんなラッキーがあったのだ。結果は、両方とも不合格。先に出た問題の検証などしてなく、ラッキーを生かせなかった。
そのときの驚きと、結果に対する悔い が、これをづっと忘れさせないのかも。感情が伴うと強く印象付けられる。
私が 昔のことを、話すと、「よく そんなこと 憶えているね」と 驚かれる。大体は実際に体験したこと、これまでの人生での記録が頭に残っている筈。当然、ハードディスクのように 容量に限界がある。これからの体験については、いつか もう記録されなくなってしまうのだろう。
「記憶力がある」というのとは違うと思う。私のは印象付けられた記憶で、何かを記憶しようと、能力を働かせたものではない。従って、何かに役立つものではない。無くても困らない。勉学に生かせる力は、無かった。
興味のあるもの、興味を覚えたものが、私の記憶の対象で、持っていなければならない知識が、記憶として残ってないこともある。
また 激しい感情を伴った記憶などは 嫌でも消えることなく、時々積まれたものを引っ掻き回されて、蘇る記憶になっている。
記憶がいい と 言うことが、その人の長所とばかりにはならない、場合によっては窮屈に生きてしまう要因にまなる。忘れっぽいという人も、それはその人の気質で、能力の有無とは関係ない。「面倒なことは 忘れる性格」というのは 素敵な生活を保証してくれているのかも知れない。
さて 私 記憶のことで 賞賛もされるが、警戒もされている。同窓生などは、過去の隠したい出来事を、私が覚えていたら、ばらされるんじゃないかと、疑心を持つらしい。そんな 秘諾の情報など持ってないし、その人が触れられたくないことには触れない。そもそもそんなたいして興味の無い記憶は蓄積の中にあっても 言われなければ取り出されない。 大学教授が「アグネスチャン万歳」と叫んでたとか、校長をしてる体育教師が「めぐみちゃん」ばかり口にする麻丘めぐみファンで、女生徒にあきれられてたとか、楽しく笑える思い出だろう。
中には 過去に嫌な思いをさせられた相手が、何も無かったように接してくるのを、強い憤りに感じてしまう人も多いようだが、苦痛の感情が消せない当人と、その場限りの感情で残らない相手との落差は大きい。相手に何かを求めるのが不可能なら、自分の方で忘れてしまえたら、楽になれるのだが。
記憶もただ積んでおくだけでなく、選択して、捨てた方がいいものは 捨てるよう努めよう。性格の問題でもあるが、楽に生きる方を欲するなら、やってみようか。新しい知識、情報をこれからも記録するためにも。
人間死の間際に一生の思い出が蘇るという、楽しい思い出だけを持って旅立ちたいものだ。

与論マラソンへどうぞ

東京の山元から メール着。先日の東京マラソンを沿道で見ていた奥さんから「来年はあなたも出なさい」といきなり言われたそうだ。感動したらしい。彼もTVで見ていて、「ゴールするそれぞれの人に感動があるんだ」と、しみじみ思ってたところ。その気になってきたと言う。自転車で東京中を走っていたり、毎週水泳で鍛えていたり、昨夏は、蒲田から江ノ島まで 一日かけて自転車で往復した 体力と気力の持ち主。「練習したらきっと大丈夫。奥さんと一緒に頑張って」と返事を送った。
抽選に当たらないと出れない。うまく当たるといいね。
もし 当たらなくて断念せざる得ないときは、与論マラソンを勧めようと思う。
今年も今度の日曜 3月6日 20回めの大会が行われる。南の与論島 自然の中、澄んだ空気を胸いっぱいに吸いながら、さわやかな海風を浴びながら、きらきらひかる海の波間とたまに頭を出す鯨も見えたり。島民みんなの熱い声援を浴びながら、みんなと走る、仲間になって走る。ゆっくりでも大丈夫。単調でなくバラエティーにとんだコースのすばらしい大会だと思う。
周囲22キロほどの島を、ほぼ一周したところで折り返し。同じ道の行き帰りだけど、目に入る景色は全く違う。走りながらづっと楽しめる大会。島民が参加者を精一杯にもてなす手作りの大会。レース前日から 終了後までそのもてなしは続き、必ず 島外からの参加者が満足できて、また来たい と思う大会になるはず。
私は第一回に参加したとき、感激した。が、その後 都合が付かず参加できないでいるうちに、ウエイトが、どんどん増して、走れなくなってしまったが、また 体を絞って 絶対出るぞと思っている。公言もしている。実際 20年連続の参加者も鹿児島にいる。私の友人達も走る。これまでも走ってきた。テレビで取り上げてもらった友人達もいた。お父さんと兄弟3人で、参加したM。大会最年少 10歳で 泣きながらも頑張って完走したyamada親子。結婚を控え記念に二人でゴールを目指したRYとT子さん。あの風来簿君も 第1回では数日前からTVカメラが張り付いて、彼の行動をつぶさに収めたが、残念ながら 没になった。私個人のこんな思い出があるからだけでなく、温かい島の人たちが、誠の心でもてなす最高の大会として 自信を持って進めることが出来る。
東京で残念だった諸君、ならば与論に行こう。そしたら 次は先ずヨロンを目指すようになるから。



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