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友人の死 以来 どうしても自分がかかった 同じ病について 思い出し考えてしまう。何故彼等は命を落とし、私はこうして今 元気でいられるのか。
私の症状も、相当ひどかったはずだ。看護士や、他の医師からもそういわれてた。「でも よかったね」という言葉が続くけど。いまは 近くの国立病院にかよい 診察を受けているけど、ここの医師も「今は、再発する可能性は ないけど、運良く命が助かったんだ という事は忘れないように」と、注意を促している。
倒れる以前の生活も 私のほうが 不摂生だったはずだ。彼等は 仕事に励みながら、スポーツにも関わっていた。昔からスポーツマンだった。私のように メタボでもなかった。
違いは 私は発症してから 徐々に症状が進行し、数十分後に歩行困難になり、病院に駆け込んだ。彼等は 発症と同時に 命も途絶えた。この違いはどおいうことだ。
運ということで 済ませていいものだろうか。私とて よかった では終われない。今後 一生心臓をいたわって暮らさなければならない、激しい運動 力の限りの肉体を駆使する仕事は出来ない。興奮しすぎるのもいけない。薬を飲み続けなければならない。こんな 制約が課せられた生活を 続けなければならない。体重を増やさないために 粗食にして 長時間歩く。病気だからでなく 普段の健康によいことだ。間食をしない。睡眠を十分に取る
これらのことをいま 出来うる限り やっている。健康に対する 意識も強くなってる。病気になったからだ。
まだ意識が十分でないところもある。薬は一日おきにしか飲まない。それでも血圧は正常な数値だ。絶対直そうという気があれば医師の指示通りにするだろうが、これで十分と思ってるから、治らなくても普通に暮らしていければ いいのだ。しかし また発症したとき 命の保証はない。他の多くの人たちに迷惑かける。そんなことを考えれば 早く治そうという 意識に変わってくるはずだ。
「君は 生かされてるんだ」何人かの人たちからこの言葉をいただいた。その 生かされてることの御礼に 、感謝の心を内に持ちながら 何か世間に役立つことを一生懸命務めていきたい。
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初恋の人に似ている

少数派だけど、キャンディーズの中では ミキさんが好きだった。今のミキさんを見ていて 気づいたのだが、初恋の人に似ている。ショートヘアーになったから 気づいたのかな。37、 8年前 彼女と出会ってすぐの頃キャンディーズが登場。その頃 似てるとは思わなかったが、ミキさんの髪型をショートにしたら 似てたのかも。彼女はミキさんの様に いつもにこやか ではなかったけれど。
その彼女とは 同窓会で 35年振りくらいに会って たくさん 話をすることが出来た。嬉しくて昔の思い出話を、次々 語る 私に 彼女は「昔のことは 忘れてください」と。迷惑そうな風ではなかったけど、面白くもなさそう。
しかし 高校生の頃の彼女は 今も 忘れません
同窓会の 彼女も やっぱり素敵だったけど、もう忘れたかな?
 

レフト・アローンを聞きたくなった。
親しかった同窓生の 突然の訃報が伝わってきた。以前私がかかっても助かった、心筋梗塞だった。
彼が去って 残された者の孤独感を 歌っている曲 ほんとうはビリーホリデーの死を語っているから彼女なんだけど、大切な存在を失った寂しさを表現しているレフトアローンが、今 最もふさわしい曲に思えた。

スポーツが得意だった。バスケットが大好きだった。短距離走も早かった。
焼き鳥屋をしていた、その店が 同窓生のサロンになっていた。同窓に何か事があった時、彼に電話すれば 大方のことがわかった。たまに 電話をすると 長々と会話が続き 楽しいときを過ごすことが出来た。
そんな 彼の死が信じられない。戻って来い。まだ やることはいっぱいあるだろう。そう 叫びたい心境だ。
辛口もよく知られていた。例え客であっても、間違ってると思ったら 遠慮なく意見を言った。正義感が強かった。私が 東京でコーヒー学校に行ってる時から 飲食店でのアルバイト経験が永かった彼に、相談をしていた。意見は 大体 厳しいものだった。わたしの開業後も、それは変わらなかった。しかし 後々わかったことだが他所では 私のコーヒーを褒めてくれてた。優しい奴だったんだ。ありがたい でも もういない。心配かけた事もしばしば お礼がもう言えない。無念でならない。

詠別

キャンディーズファンではない私も 田中好子さんの 肉声の別れの挨拶には 涙があふれた。たとえ覚悟を決めたとしても、認めて 最後のことばを録音するなんて、相当の勇気が要るだろう。何とか助かりたいと、最後まで思うもの もしかしたら という事さえも 考えたくはないのが普通だ。その内容も 聞いた人皆の心に響いて長く 刻まれるだろうと思うほどの、感動を覚えるものだった。
田中さんの思い出を語る人たちが 一様に 笑顔を 言っていた 「思い出に残ってるのは いつでも 笑顔だった」と。
同じ 病で去っていた 二人の同窓生を思った。彼女達も 常に笑顔だった。仲間の中でも 特に 活発に行動し、元気だった。いつでも同窓会の中心にいた 彼女達の死は、私達に衝撃を与え 強い喪失感に落とし、運命の理不尽を恨んだ。
「乳がんは 治る病気ですよ」と言って 私は 嘗て保険の勧誘をしていた。やっぱり癌だ どうにもならない奴もあるんだ。
彼女達のこと、あるいは 最近になって 肺がんで逝ってしまった二人も 我々はづっと忘れない。でも 失った事の悲しみは、とても 大きかった。
思い出した うたもある BUZZの 別れ~詠別
  
               

テレビからハートへ キャンディーズは近くなった

従姉に、「お父さんのことは、そんなに心に深くは刻まれなくて、割と 冷静に捉えられてるんだね」と、言われたことがある。本人が 自分の父親の死後 何年も 立ち直れなかった経験から 私の様子をそう評価したようだ。父の死後2年。 もう2年か まだ2年かで、考え方は 極端に違うのかもしれないが、父の件は、ある程度 予想が出来た。予想よりは 早く その時が来てしまったけど、父が 長く生きれた人生に満足していることを 日ごろから聞かされていたので、我々 遺族の気持ちは 穏やかに保たれていた。当然その死は家族にとって辛く悲しいものであることは間違いない。「できればもう少し元気でいてくれてたら」と言う思いはずっと持ってる。だが 悲観してばかりはいられない事情もある、父が逝ってしまったことで我々は強くなれた面もある。身近にいた存在でいたのがその後 魂が私の心の中に棲み始め、もっと近い存在になったような気もしている。
人の死で 心が揺さぶられた経験は 作家 島尾敏雄 一色次郎 干刈あがたなど その時 その著書をよく読んでた、少なからず 私に精神的な影響を与えた彼等の死を知ったときに、あったことを憶えている。新聞で 突然、その死を知ったわけだし、死はまだ早いんじゃないかという思いが 強かった。
突然 報道された 田中好子さんの死も、たくさんの人の心を震えさせたことだろう。キャンディーズファンというのは 何十年経っても ファンでい続けてるらしい。彼等には まさしく 一時代の終わりと認識させる衝撃だったことだろう。それほどファンではなかった私でも 39年前 NHKの歌謡ショーのアシスタントで 登場以来 づっと テレビで見続けているわけだから、親近感は より 強く持ってはいる。毎日見てた 「ちゅらさん」のしっかりものの母親役が私の記憶の中の 最も強い 田中好子の印象だ。明るい しっかり者 楽しくさせる存在 だから その死というのは 最も彼女に 似合わないことだった。まだ 死んではいけなかった。キャンディーズファンが望んでた再結成または 元メンバー3人の共演は実現の可能性が絶たれた。キャンディーズを完全に失ってしまったということかもしれない。しかし 再びキャンディーズに戻された昔の少年達は、あらためてその存在を より大きく感じていることだろう。
いまでは いい大人達 だけど、想い出に入り込むと その若かったときに 感情が戻ってしまう。一人のアイドルの死だけど、思い出すのは、当時の楽しかった事々。喪失感に締め付けられてるいい大人でも、明日は 責任ある社会の一員として活躍する。その活力になってるかもしれない楽しい思い出を蘇らせながら、いま 田中好子という アイドルのことを 思っていることだろう。

        


想い出を蘇らせる 今宵の一枚

昨日 youtubeで 懐かしい音楽を楽しんだ事を記したけど、うめまつり の後はやはり いつもの ワタナベさんの「今宵の一枚」1に興味が移る。
先ず 新しいアップの 方で アントニオ カルロス ジョビン WAVE があった。 ボサノバの名曲、もちろん私もだいすきな曲。何回も聞いてる。ジョビンでない他のプレーヤーの演奏でもよく聞いている。わたしが持っているレコードと同じ、キリンの写真の ジャケットが画面に 映っていた。その次 someday my prince will come ジャズのスタンダードで ビル エバンス、トミー フラナガンのリリカルなピアノやリッチーコールのバリバリのハード バップの演奏が 馴染みだが 今回のは、4人の美しい 女声コーラスのミュージカル。私にとっては珍しい演奏だが なかなかいい!透き通った声で 浪々と 歌う。オペラではないが歌唱法は、声楽といえる。動画の後半は、ミュージカル 白雪姫の場面の映像。
次に 過去の記事を探って エンゲルベルト フンパーティングの 「太陽は燃えている」と「ラストワルツ」太陽は燃えている は love me with all you heartが英題 歌詞にも太陽は出てこない。実は原曲はスペイン語で書かれ得ていて、「太陽が熱くなるとき」だそうで 日本ではこちらを題にして 売り出した。彼の名前もイギリスのシンガーなのに 英語ではない。この名も ドイツの作曲家から取ったものだ。私が中学時代に聞き始めていた ヨーロッパポップスのなかの一曲 トム ジョーンズと歌い方が似ていて よく比較されていた。もう一つの「ラスト ワルツ」はミレイユ マチューの歌で よく聞いてた。多分 シャンソンの曲だろう。「リリース ミー」「愛の花咲くとき」や先の「太陽は燃えている」と並んでエンゲルベルトの代表曲には違いない。
アルバート ハモンドの「カリフォルニアの青い空」 it never rains southern california 英題を 訳すと 南カリフォルニアでは雨は降らない これでは 日本で売り出せるタイトルではない。カリフォルニアのイメージもこの哀調を含みながらも軽快な曲の雰囲気からも 「青い空」は、とてもマッチしたタイトルだと思う。
サラ ボーン 「ラバーズ コンチェルト」喫茶店をしていた時、初めの頃 毎日 必ず一回はかけて曲 ダイナミックなサラの歌唱を 誰も耳にしたことはあるだろうし、上品な感じの曲が 店の格を作るのに良いんじゃないかと考えていた。ちなみに 近くで 喫茶をしていた 今も得意先のH姉さんは 朝一番に この曲を流していた。お客さんでケ-ブルテレビのアナウンサーをしてたN子さんはこの歌を聴いて「涙が出る」と言ってた。沖永良部に嫁いで行ったが、まだサラボーンを聞いてるだろうか。最後に ジャニス イアン at seventeen 「十七歳の頃」グラミー賞受賞曲だ。ワタナベ氏によれば ジャニスは17歳で結婚し 破局はするものの その経験がこの歌に なったと解説している。ギター一本の伴奏で 淡々と歌う静かなこの曲がとても説得力のある歌だったのはそれが所以だったか。ジャニスの曲では ほかに love is blind が有名だが私が好きな曲に テレビの「岸辺のアルバム」の主題歌になっていた will you danse? がある。1977年の話題になった ドラマ の最終回のシーンを はっきり覚えている。そのなかで挿入された 水害の映像も 当時 衝撃だった。 33年後に同じような惨劇を目の当たりにしようとは。

昨日 今宵の一枚 の ブログ内で 聞いたのは以上の曲。これらも、それぞれに想い出がある。歌って 音楽って いいなぁ 改めて しみじみ そう思う。 ブログ管理人のワタナベさん ありがとう。

北山杉

わたしの大好きな曲としては 3本の指に入る曲 うめまつりの「北山杉」。普段 自分でよく口ずさんでいるがyoutubeの、動画を見たのは久しぶりだった。以前にも書いたように、私にとって思いで深い曲、それに 以前このブログにその想い出を書いたときには うめまつりの リーダー 増保良治さん と ピアノの小谷薫さんのいとこの圭史さんから コメントを頂き その感謝が更に この歌を かけがえのないものにしている。
今日は その 歌と共に 書き込まれている たくさんのコメントを 読んでみた。大方 齢60前の人たち 京都での思い出に慕っている そして 当時の恋人のことを思っている。二人で作った楽しい思い出と その後に経験したほろ苦い思い出とを 語って、胸を熱くし、その相手の今にもおもいが及ぶ。コメントの中で その後永遠の誓いに達したのは 一組だけ。後の人は互いの事を 気遣いながら 別々の生活を営んでいる。そして その思い出と その人のことを 大切にしている。

「この曲を聴いて 涙が・・・」というコメントがいくつもある。私は この人たちと同じ経験はしてないが、勝手に一人で燃えた思い出と京都の風景と、コメントをした人たちへの共感で、やはり 胸にこみ上げるものがある。青春ということばで思い浮かぶこの感情は、いくら年月を経ても失うことは無いだろう。
私のあのときの想い出が この北山杉を聞いて、何故現れるのか、というと 全く幼稚で恥ずかしいのだけど、その後 書いて出した手紙に(酔った勢いで出してしまった)「青春色の京都の街」ということばを 繰り返し書いたからだ。 

鹿児島県中学校 軟式野球大会 春期大会。南大島地区代表の与論中の応援に行ってきた。
相手は 姶良地区代表 国分の舞鶴中。結果は0-2 舞鶴中の勝利。両投手が好投し 守りもエラーなしの緊迫したいい試合だった。
部員15名の与論中チーム。選手の数は参加チームの中で 一番少なかったはず。しかし スタンドを比べ見ると、与論中を応援する人たちの数は、相手の方より 断然多い。最も遠い位置にある与論から はるばる やってきた人たちに 鹿児島在住の島出身者。私のように 以前居住していた者。与論に縁のある人たちがたくさん集まった。与論から来た人の中には 父兄ではない、たまたま 鹿児島に帰ってきていた県本土出身の与論在住者も数人いた。せっかくの休暇でも 与論の人たちと一緒になって中学生を応援している。酒造会社の社長が来ていたが「これにあわせて 出張の仕事を 作った」と言っていた。彼のような懐かしい顔に出会えたのも嬉しかった。一緒に観戦したT嬢に 選手の父親の名を聞くと、これも 懐かしい名前が次々。「彼の子どもか」とわかるとますます 応援したくなる。暫し 私も 島っチュ に戻った気分で 応援。キャプテンS君は立派に選手宣誓をこなしこれも 皆感激。
試合が終わると 周りの あちらこちらで 「とーっと ガナシ」の挨拶と、「久しぶり」の声 こういう嬉しい機会がもてたのも、頑張った 与論中野球部の生徒達のおかげ。また 夏も 予選を突破して 県大会に来てください。
DSC00523_convert_20110419002042.jpg
DSC00524_convert_20110419002731.jpgスタンドはこの上も左も与論の応援団
         DSC00525_convert_与論中野球
焼酎 有泉 のシャツを着て 与論をアピールDSC00529_convert_与論中与論町の旗も誇らしげにはためいて。

わだつみ館

奄美市住用のわだつみ館、山下弘さんから久しぶりの電話
「15日から また 喫茶を再会しますからよろしく 今度は 家内と二人で」
わだつみ館は日本蘭学界会員で写真家の山下さんが、ご自分がとり続けている奄美に自生する蘭の写真の展示と 奄美固有の植物の紹介を目的に 設立され、喫茶も併設されていた。
ただ会社勤めをしていた山下さんが 徳之島へ転勤で、行っている間 閉鎖されていた。
昨年 10月の 奄美豪雨で、最も被害の大きかった住用にあるため 心配していたが、資料館として再会したという 新聞記事を今年初めに読んで 安心はしていた。そして 今日の電話で 昨年で会社は退職され、わだつみ館の経営に専念されるということ。写真のや執筆の方も ますます 精力的にやっていかれることだろうと思うと、これからの活躍がたのしみだ。
場所は国道沿いの 、木工センターなど他の多くの施設が並ぶところ。たくさんの人に訪ねて行って欲しい。この施設を訪れる人の目的の一つに私の提供したコーヒー豆が役立てば幸い。そうなるよう精一杯努めさせて頂きます。

録画してあった BS朝日の「うたの旅人」を2本見た。「北国の春」「五木の子守唄」このうたにそれほど興味は無いが、番組は大好きだ。そのうたに纏わる面白いエピソードを紹介してくれる。
北国の春は B面ように 急遽作られた歌だったそうだ。遠藤実は、曲を5分もかけずに作ったという。作詞のいではく 作曲の遠藤実 歌った千昌夫 それぞれが 北国 寒冷地を故郷に持つ 共通点を持ち、出来たばかりのこの歌にすごく共感したらしい。レコードを出した後 一年間 話題にもならなかったが、思い入れの大きかった千昌夫が、新曲を拒否してまで歌い続け 一年後の大ヒットに繋がった。ただ 私が最も感動したのは 最後の場面
 ステージで歌う千の伴奏が 生ギター一本。そのギターを弾いていたのが、ナターシャ7の坂庭省吾だったこと。ナターシャ7の前 遥か前だけど クライマックスで「花嫁」のコーラスを甲高い声で 歌ってた。5,6年前に他界している。彼のギターを弾く姿、youtubeで見ることは出来るけど、こうしてまたテレビで、意外な場面で見ることが出来て、胸が熱くなった。
五木の子守唄は 子供を寝かしつける子を守るうたではなかった。子守人として 奉公に出された 年若い少女達の 辛い 悲しい歌だ。歌詞の意味をよく知らずに聞いていたが、「私は物乞い あの裕福な人はいい着物」「この泣いてばかりのこの子が 憎くなる」という歌詞があったのだ。五木村の中でも地区によって歌が少しずつ違っている。隣の相良村でもこの歌が歌い継がれているが、やはり 微妙に 違っている。この地の歴史にも触れ、ひっそりと皆が寄り添って暮らしていたと想像してたが、33戸の地主が 小作人を絶対的に支配していたという話は衝撃だった。子守に娘を出すのも地主の指示だったらしい。現在は 川辺川ダムに翻弄さ土地を住民が離れ、一昔前と様相が一変しまったのも哀しく思える。
ここでも 胸に突き刺さるほどの悲哀を感じさせた 話が最後の方にあった。10歳を少し過ぎたばかりの少女達が 奉公に発つとき親子の別れる峠が 子別峠という名前の場所だったという。そこを下って、二度と 故郷に戻れない人がほとんどだったそうだ。五木の子守唄で、その 苦行を知っている 子と親 その別れはどんなにつらかったことだろう。「生きていくためにこの方がいい」と親は無理やりにでも 納得させて、この悲しみに耐えたと 解説していた。
みんなの心に残る歌には 人々が思いを共有できる、感動できる背景が備わっているのだ。