店主の気ままなひとり言
珈琲工房かわもと店主の、ほとんど独り言

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また ブログがご無沙汰になってる。生活は、以前のように、夜型に戻った。夜はたっぷり時間が有るはずなのだが、ブログの更新に、かかれない。日々、平穏で 取り立てて意欲的に、書こうと思える事項が、ないわけではない。世間では いろんなニュースが飛び交い 興味を引く話題も数々。
与論の 「風来坊」「こずえ日記」2つのブログを毎日たのしく 見てる。山元順公の、帰省した奄美からの便りも、面白く,心に残ってる事はたくさんある。
舞のその後の、雑務と、下の娘の 進学の準備で気を揉むこともあり、ブログに向かう意欲を失っていた。おおかた 解決したことで、今日久しぶりにブログに書き込んでいる。
久しぶりといえば 今夜は星が見える。このところの鹿児島は日中、はれた空から 突然激しい降雨がある 異様な天気。夜の空も、雲が覆って 見上げても ただ黒いだけ。今日昼から、変わった 夏に戻った。私の中でも何かもやっとしたものが取れたような、爽快感がわき、ブログに掛かる意欲が出たようだ。まだ これから 家庭内宗教論争は続くが、これは内のこと、夏の青空の如きスカッと爽やかコーラ的話題を、書いていけたらと思った、残暑には遠き湿気の澱んだ汗滲む夏の夜の独り言でした。
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土曜日は、下の娘と、加治木の花火を観覧した。しばらく見て 休憩に入ると、娘は
「もう行こう」と、言い出す。買い物に行きたいらしい。
私達が見てたのは、加治木の祭り会場じゃなくて、家の近くの堤防の上。昨年 周辺3町が合併したあと、姶良の花火は催されなくなった。加治木は続いてる。例年会場の出店で、何かを買うのを楽しみにしているのだが、できないので 近くのスーパーで 惣菜でも買って、持ち帰りたべて見たいらしい。私はまだ、花火の 瞬間輝き、はかなく消え行く、花火の美しい情感を味わいたくて、まだ 立ち去りがたく、堤防を降りたところで、30分あまり、堤防のてっぺんから、出現する、一瞬咲く花の数々を眺めていた。スーパーでから揚げを買って、帰宅した娘が
「お父さん ありがとう」と、言う。「うん」と応えたが、何への感謝か。花火を見れた事か、から揚げを買ってやったことか。
同じ言葉を 小学生の舞にも 言ってもらった事を思い出した。二人で神社の六月灯に出かけた帰り道だった。連れてってくれたことへの「ありがとう」だった。他の友達みたいに、あちらこちら連れてってもらうのは無理かなと、思っていたのが、つれてってもらった嬉しさだった。下の娘も同じだろう。
私は喫茶業だった。仕事を終えて帰宅するのは、早くて10時だった。土 日こそ忙しくて、休めなかった。
下の子が生まれた年だ。母親に頼めないのは判ってた。皆のように 親に遊びに連れてってもらえないことは、悲しかっただろう。その時は 張り紙をして店を早仕舞いした。その後,客からの苦情はこなかった。「子供のためなら 許されるだろう、許してくれ」と 以降 こどもの日と 土曜の午前中を、子供のために費やす事にした。もちろん運動会の日もだけど、終わった夕方から開店する事もあった。
学校帰りに 舞が 店に寄ってくれるので、触れ合う時間が少ないとは、思ってなかったが、店に来る他の父兄が「夏休みの間 何度もキャンプしたりバーべキュウしたのに また してとせがまれる」といってるのを聞いたら、ほんとに 舞にすまないと思った。我慢してるんだ。
鹿児島へ出てきて、今の小売業になってからは、定休日を、設けたが、高学年になった舞は、友達との交友が多くなり、親と一緒の行動は めっきり減っていた。それでも、家族で、大分と、宮崎に 旅行に行けた事は、舞の中では、大いに喜べる事だっただろう。
後年 舞が 旅行に連れてってもらえない妹をかわいそうだと、自分が連れて行ったことがある。
同じ年代の頃の自分の寂しさが記憶にあったからだろう。このときも 舞に頼ってしまった。「こんな親ですまない」また 思った。
「ありがとう」の言葉を聞いたときは嬉しいが、そういわせるほどの 寂しさを、子供に持たせていたと言う事。あぁ 思い出してはため息がでることばかり。

<昭和青春グラフティーでは、青春だった時代のお酒 について語っていた。関口宏、山本陽子 吉田類が、自分達の酒にまつわるエピソードを紹介しながら 昭和20年代 30年代 40年代の酒場の様子などを話してた。
子供の頃私もその名を知ってた、ジョニーウォーカー黒ラベルは、当時の大卒初任給の2倍にあたる 1万円もしたこと、それに対し、庶民のためのトリスウィスキーが発売され、街に沢山のトリスバーができ、一杯100円で飲めた事。今ブームのハイボールも彼らの青春時代からあった。そして焼酎が今は、お気に入り。
私が20歳になった頃、ウイスキーと言えば サントリーオールドだった。いくらでうってたかは、憶えてない。買ったことなかったかも。スナックでキープする酒だった。あのころはビールが好きだった。今でもビールは好きだが、20歳の飲み始めのころは、ビール以外の酒では、直ぐ酔っ払ってた。だから ビールばかり。ただ 大人ぶって外へ繰り出すと、ビールじゃ高くつくので オールドの水割り。焼酎などは 一口で目が回りそうだった。
青春の酒、としてあげるなら、サントリーホワイト。安かった、お酒を出す喫茶店はもっぱらこの酒だった。3000円でキープできた。こういう店で 歌を聞きながら、時には唄いながら、飲むのが一番楽しかった。正直スナックは、綺麗なお姉さんがいたから行ってただけ。
サントリーホワイトは初め 買うのに 1000円出して50円くらいおつりが来た。学生時代のうちは、1000円と数十円以内でづっと買ってたはず。酒屋で買って、下宿で、レコードを聴きながら、フライビーンズをつまみに、一人で飲む事も多かった。たずねてきた事のある友人が 思い出として「部屋には。ホワイトの空き瓶がゴロゴロしてた」といってるが、確かに捨てるのが面倒で、10本くらい、室内に放置してた。
焼酎をよく飲むようになったのは、30代、与論にいたときからだろう。 4年の在島中 一生で飲む酒の半分を
飲んだと、大げさに言ってたが 飲めなくなってしまった今思うと ほんとにそうだ。一気飲みが慣例だから、焼酎の一升瓶がすぐに空になる。3人で飲むと3本 4人で飲むと4本、当然毎回 正体なくすほどによってしまう。島の人は 一機に飲んでさっさとお開きにして ぐっすり寝て、翌日も元気。見習ってこの習慣を身につけることはできなかった。
娘 舞は 焼酎が好きだった。「ビールなんて苦いのが何で美味しいの?」といってた。引越し手伝いで出水の彼女の部屋へ行った時にも、焼酎の5号瓶が、そうとうあった。私の学生時代の部屋なんか その比じゃないくらい。夜、電話をすると「今 カラオケ」「今 居酒屋」「部屋にいる 友達が来て飲み方」決まって返事はこれだった。飲酒よりも 交友が、目的であるのは確かだけど、その手段の焼酎は、欠かせなかったようだ。出水の「島美人」が好みだったようだ。ソフトなタイプの焼酎が流行の中、きついくらいの芋焼酎の島美人を、好んでた。
出水を去るとき、大方、処分したが、黒霧島のパックと、伊佐美の一升瓶を、姶良にもってきた。黒霧島を飲んでみた、5,5の水割りで、一杯で酔いが回った。昨年、2月の私の入院以来 初めての焼酎だった。舞の位牌の前にも供えようと思ったが、反対されるのがわかってて、面倒なので、やめた。ちょっと 高級な伊佐美は、もったいなくて空けられない。来年の7月 友人達を招いて、その時あけよう。
201103150241000.jpgDSC00474_convert_yuusenn.jpg
与論で飲んだのは 有泉

感謝 Dr森正樹

娘が 亡くなった翌朝、同窓生の一人から 悔やみのメールがはいった。naさんから連絡があったそうだ。
その彼の名が、今日の新聞に出ていた。大阪大学 医学部の教授だ。九州大学のグループが、がん抑制遺伝子を増やす仕組みを突き止め、それを邪魔する分子特定。その研究に彼が協力し重要な部分を担ったようだ。
娘が亡くなる数日前、既に「もう 治療は無理」と宣告を受けたあと、naさんから 「彼m君に相談した?」と言われ、してない旨話すと、すぐ メールを入れてくれた。
mから返事が来て、「九大の血液専門の教授に、連絡する」と言うことだった。
その後 「九大のa教授と、そこの病院の院長は懇意の仲で、教授が直接、院長と話をして、結果を、連絡します。」と言うことになった。私も 「今は 何にでもすがりたい」と、お願いするメールを返していた。
結果を伝えるメールで、「感染症が治まったら、移植もできるようです。」とあった。naさんと、まだ可能性はあるんだと気持ちが奮った。 もう一本、個人的に私を慰める内容のメールが来て、実際は無理だとわかった。感染症が治まって 体力が回復するのを待ってる間にも、病気はより 強く進行するんだ。この メールで全てを掃って、覚悟ができた。それから 娘の最後の 到来は、あっという間だった。
葬儀に来てくれたnaさんは、悔やみきれぬという表情で、言葉がなかった。私は、全てに感謝できていた。
naさんのおかげで、日本の最高の医学者の判断をうけられたのだから。
後日、入院してる病院の院長から、「すごい 有名な方と、お知り合いなんですね」と。言われた。mが、日本で始めて 幹細胞を使った 乳がん手術を成功させた人で、再生医療の第一人者であることは知ってた。テレビでの映像もみた。新たに知ったのは、彼の研究が、ISP細胞を、もっと安全で確実に作り出す研究で、まさに ノーベル賞級のものだということ。
そんな彼と小学3年生の時、同じクラスで、毎日のように遊んでいたが、いま親しくできるのは、一昨年、私達が同窓会をしている時、同じホテルで、日本医学会の会も開かれていて、彼が我々の会場にきてくれて、さらに2次会にまで付き合ってくれたから。そして 「困ったことがあったら何でも、相談して」と言ってくれたから。
小学生の頃、当然彼は秀才だった。運動もよくできた。持久走が得意だった。それに 素直だったはず。3年生の秋、10月だった、私と彼は、放課後児童会に出なければならなかったのだが、さぼって、学校近くの山で遊んだ、ランドセルは教室に置いたままで。教室に戻ると、二人のランドセルは、担任の机の上に置かれていて、先生が 怒っていることを知った。翌日 やっぱり叱られた。2人 前に立たされ、「昨日のことは絶対許しません」とまで言われ、彼は素直に泣いて謝った。私は、何とかごまかそうと、いいわけばかり並べた。やっぱり昔から、逃げてばかりの意気地なしだったんだ。彼の父親は、当時の校長。担任のu先生も、きちんと叱ってくれた。だからみんなu先生が好きだったんだ。
思い出話に それてしまったが、そんなm君だから、私達の苦悩を理解して、暖かい言葉をかけてくれるんだ。彼には人々を幸せにできる力がある。これからも一市民としてよろしく。そしてこれまでの事に、感謝。



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