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藤家虹二と奄美ジャズの会

昨日から また クラリネットを、聞いている。
片付けをしていて「鈴木章二とリズムエース」のカセットテープを見つけたから。先日の 「世界は日の出を待っている」も スィングジャズのスタンダードナンバーとして 大好きなんだが、ジャズクラリネットといえば 「鈴懸けの道」。これが私のフェボリットソング。サックスでもよく奏でていた。曲調の良く似てる「ディア オールドストックホルム」と交互にやってた。
今日も聞いてるけど それは 今朝の新聞で藤家虹二の死亡記事を見たから。
私のジャズ 初体験は藤家虹二だった。高校2年のとき、田舎の島で行われた パイオニアのステレオコンサートに きて 演奏した。あのころ時々 こんなコンサートが催されていた。離島で、ミュージッシャンが来ることはなかなかなかった頃、音響メーカーのパイオニアが 自社製品の宣伝に 最新ステレオセットで当時話題の レコードをかけて、聞かせてくれた。無料で、しかも抽選で景品がもらえることも。ゲストのミュージッシャンも来て 演奏してたが、メジャーでないギタリストのソロとかで 印象は薄かったが、このときは ジャズカルテット。当時 まったくジャズなんて知らなかったので、「面白い、楽しい」と感じたことと、原田イサムのドラムソロに圧倒され友人達と「すごい かっこいいね」という話をしてことだけ憶えている。その翌年 後に私も参加する「奄美ジャズの会」が出来、その翌年 初めて菅野邦彦のトリオを招致してコンサートを開いている。会長だった南氏が、公民館で自前のレコードを持ち出してやはりステレオコンサートを行い、それを機に 「生のジャズを聴くためにプレイヤーを呼んで コンサートをやる」という目的の 「ジャズの会」が出来た。菅野トリオのコンサートは大成功。その時の演奏は 「菅野ライブ」 という LPレコードに収められた。
あのときの 藤家虹二カルテットの演奏が、奄美のジャズファンに火をともした。
3大クラリネット奏者といわれている、北村英二 鈴木章二 藤家虹二。もっとも メディアに登場して知名度のある北村英二も、フォークの茶木みやこのアルバムでの演奏の美しい音色に感嘆 コンサートを見たのはそれよりずっと後だが、クラシックの演奏も難なくこなす技量に魅せられた。藤家虹二も東京芸大出てるし、しっかりした基礎が、大事なんだと、俄かジャズもどきでたらめ演奏を一人で楽しんで遊んでた自分に恥じ入ったものだ。

3大クラリネット奏者の演奏動画 真ん中が藤家虹二
ドラムは奄美に何度も来た猪俣猛、 猪俣と一緒に来た 浜田均太がバイブで。
   
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今日は暑かった。日差しも強かった。数日前 布団の中で寒さに震えていたときと、あまりに違う。
夜になって気温は かなり下がっている。さすがに半袖シャツではいられない。昨日は雨だった、その所為で気温
が上がっていたが、きょうは晴天、夏の陽気だった。

ウォーキングは休んでいる。サボったというべき日もあった。寒かったとき、血圧が上がっていた。頭が重い。寒い外に出ると血圧はさらに上昇する。ここは自重。次、雨になった。傘を差して歩けないこともないが、「そこまでしなくても」と休み 昨日あたりは大雨で 外に出るのも大変。今日は行けると思ったが、予定外の急用が入り「まぁ 今日まで休みでいいか」。

血圧が上がってたときは体調も良くない。頭が重い。心配そうに見てた 娘が、「お姉ちゃんが 冬の お父さんの体調 心配してたよ」と言ってきた。「入院したの冬でしょう」「冬によく病気になるよね」
そう頻繁に病気を患うわけではないが、2年前 救急車で運ばれたのは 2月はじめの寒い日に 外を歩いていて、血圧上昇と脱水症状により誘発された 心筋梗塞だった。
舞は仕事を休んで すぐ出水から駆けつけ病室に入るなり「お父さん大丈夫?」慌てて 狼狽して、険しい顔で、ほんとに心配して、その第一声を発した。
私の入院中。週2回の休みの日は 必ず 病院にやってきた。結構長くいてくれて、頼みごとを、引き受けてくれた。私の仕事の依頼でも、きちんとこなしてくれた。出水に戻れたのは毎回 日が変わった 1時とか2時だったはず。ほんとは きつかったろう。若いから 大丈夫 なんて 安易に考えたりしてたけど、その時 免疫力が下がった体に 何かが起こって 命に関わる病が現れたのかもしれない。
私の病気は 明らかに 普段の不摂生。
心優しく 有能な 私の自慢の娘を、巻き込んでしまったのか? 自分ひとりの責任でやるから どうにでもなれ といきがってた愚かさにつくづくあきれている。
昨今も 「私なんか」と何度も思ってた。私だけ では 済まされない。
「自分が大変なときでも 相手のことをいつも心配してたね。」舞の友達の言葉。父親に対しても同じだったようだ。私の様子を見てその心配をしてたんだろう。
舞の思いに応えて、体調に万全の注意を払わなければ。
ウォーキングを休んでて たいじゅうの増加が心配だったが、僅かながら 数字が小さくなってる。歩かないと、それほど食欲も増加せず、食事の摂取量が減ってるからだろう。これで 減量できるなら、こっちが楽でいい。でも 運動で塩分を消化できるらしい。続けなければ。
しっかりしないと!


テレビで 血液内科の専門医を紹介していた。この番組を事前に知ってはいたが、見る気にはなれなかった。義父からの電話で教えられた娘が 見るというので、一緒に見ることに。
東京虎ノ門病院の医師という事で、骨髄移植で有名な病院。亡くなった娘 舞の病院にも そこで 研修を積んで、戻ってきた医者がいて、担当ではなかったが、最後一月は、幾度も見てもらって、的確な治療と 説明に 信頼が持てた。それまでしなかった治療で、ぐんと よい結果になる事で、本心 この医者に期待をしていたものだ。
助かりたい 最後の望みを、この病院に託した、患者たちがやってくる。難しい状況、助からない可能性が高い場合も多いが、そんなこと関係なく 「とにかく助ける」という信念でやってる 決して諦めることなく、最後までどうすればその患者は助かるか に苦悶する日々だという。
3人の患者が 紹介されてたが、無事に退院できたのは一人だった。統計でも造血幹細胞の移植で 成功する割合は30%らしい。70代男性は移植前 病状が急変して命が絶たれた。予期してなかった事態。舞と同じ状況だった。50代女性は 肝細胞移植後 感染症を克服しながらリハビリにも励んでいたが、移植後 40日目に絶えた。舞が病棟で最も親しくしてた40代の女性が 同様に 先月亡くなってる。毎日ロビーで賑やかに会話していた、他の人たちのことにも思いが及ぶ。
やはり 深刻な 危険な病気なんだ。予防も出来ない、原因もわからず 突然なるんだから。免疫力が落ちたときに何かが起こったんじゃないかとは 聞いた。でも 普通はならない。なった人はどこが違うのか。舞は なってからわかったが、遺伝子の6番 9番が入れ替わってることがわかった。これは白血病に進行する「異常」らしい、担当医は珍しい といってたが、骨髄移植の関係書をみると ちゃんと載ってる。この異常も 先天性か 後天性かわからない。
今日出てた専門医の 最も感心すべきとこは 絶対諦めず 必ず治す と、決めてるところ。舞の最後の2週間前、担当医から 相当に辛い移植治療をして、成功する確率は5% 緩和ケアで、2ヶ月延命できる、そして 若くして逝った2人の患者が 静かに限られた短い時間を過ごし、思い残すことなく旅立った 話をして、暗に移植断念を促された。私達は 2ヵ月後でも 娘を失いたくなく移植を希望した。しかし 宗教に依存している母親が、その関係者から移植断念を勧められ、心変わりしてしまい、意見が分かれている状況では、出来ません と、
決定になった。
どうなったかわからない 強行したら 途中で 命をを落とした可能性ももちろん高い。でも 治療できなかったという後悔が づっと残っている。最後まで諦め切れなかった。舞も 移植を待ち望んでいた。きっと最後まで頑張ったはず。私の望みでなく「本人のため これ以上苦しませないように」という優しさもあろう。
舞を、娘を失った寂しさを 今になって とてつもなく辛い と感じてきてる時、その 医師が苦悩に満ちた顔で、患者を救う道を、探し 考えてる姿を見て、ここまでやったからと、思える状態では なかった自分達であったことを後悔し、この人が側にいたら、最後まで託せたのでは、と 鹿児島出身という 東京有名病院の医師を見ていた。
でも やっぱり 見ていて辛かった。当然 舞の妹は泣いてた。

今月から通信制高校に入った娘が、勉強を始めた。昨年6月に高校を退学。それより前 不登校は一昨年10月だから 勉強するのは2年ぶりかも。相変わらず 登校には恐怖感があり、入学式にも出れなかったので、意欲にかけてるように思っていたが、2時間集中してやってた。課題プリントの提出期限があと1週間ほどと知らされて慌ててる向きもあるが、教科書を熱心に読み込み、鉛筆を走らせてる姿は、今まで目にしたことがないほどのもので、何も出来てないと思ってた2年間でも、成長はしてたようだ。
ここから彼女の新しいスタートになるか、明るい夜明けに、将来に向かって日の出になるのを待っている。
そこで 昨日言ったとおり、「世界は日の出を待っている」を 聞いて爽快な気分に
先ずは 定番 北村英二 藤家紅二の双頭クラリネットに 一緒に飲んだことのある ベースの水橋 孝も4参加してるスイングジャズ。


それに ギターの神様レスポールの超絶技巧演奏も見つけた。



テレビを見ていて、泣いてしまった。感動して泣いたの久しぶりだ。新聞のテレビ欄の、「響けスゥイング」と言うタイトルて、見てみたくなっていた。
岩手 気仙沼の少年少女ジャズバンドの話だ。
震災の混乱の中、コンサートに向かって 活動を再開した「気仙沼スゥイング ドルフィンズ」。その中の一人の少女をメインに、番組が作られている。家が流され 楽器を失っても、学校の楽器を借りて、練習を欠かさず続けていた少女。そこに本場ニューオーリンズから 新しい楽器がプレゼントされる。 さすがジャズ誕生の地で世界にジャズを広めた サッチモの町。ありがとう と、見ていて思わず言ってしまった。
しかし 震災に襲われた家族の状況は安易ではない。職を失った父親との信頼関係が、揺らぐ。練習に身が入らなくなる、でも 音楽を通じて父親との絆がもどる。
困難を克服して、成し遂げる ステージ演奏の場面。すばらしい演奏をしてくれたから、というよりこれから生きる力強さをアピールしたから。天国に上ってしまった人達に「私達は元気に頑張ってるよ と 伝えるために「リパブリック讃歌」を 合唱 観客をも誘ってその場全員の合唱で、私の涙腺の緊張が切れた。歌テル観客も涙している。「悲しくても 苦しくても 私達には大好き音楽があります」
この 挨拶を聞いて この子達が、町に光をもたらし、復興の大きな力になるだろう。この子たちが成長して10年後 15年後 東北はすばらしい成長を遂げるかもしれない。
ここしばらく レフトアローン に 浸りたい気分だったけど、今、リパブリック讃歌を口ずさみながら満月の明るい夜道を歩いてきた。映画「五つの銅貨」でダニーケイ扮するレッドニコルズの演奏したリパブリック讃歌を。思い浮かべる映像は どうしてもサッチモに なってしまうけど。



明日は 「聖者の行進」を聞いて さらに 「世界は日の出を待っている」で、スイングしてるだろう。


追悼 星の王子様

彼のことを「星の王子様」と呼んでいる。17年か18年前、夜遅く、彼に誘われて、北大島をドライブしたとき、笠利のあやまる岬の展望場所で、暗い気分の私に あの かん高い明るい声で、360度見渡せる夜空の、星について 解説してくれた。星座を示し それが どう移動するか、星座に纏わる言い伝えは 彼の講演を記した新聞記事などで 少々知識を得ていた私も、そのうちあまりに美しいその星空に魅了され、質問などし始めた。前日私は 酒で 大失敗をしていた。その日は店も夕方まで開けられず、ほとんど夜だけの営業、ほんとに暗い気分だった。家にも帰りたくなかった。遅い時間に店に来た彼は 落ち込んでる私を見て 誘ってくれた。当地では星空観測会の講師として知られていた、あの ハヤブサを打ち上げた 内之浦の宇宙空間観測所で講演したこともあった。私一人で聞いてたあのときから 私も夜空を眺めるようになった。ふと心が和むことがわかったから。2時間くらいのドライブだったかな。その時のことを今でもはっきり憶えているのは、彼の優しさを しみじみ感じたから。
今 彼の姿はどこにもない。一瞬の出来事で命を失った。彼に何の落ち度もないのに。
名瀬からの一報はまだ未確認ものだった。まさかと思った。次に「どうしよう」と思った。本当だったら恐ろしいことだ、私の現在で彼は絶対なくてはならないものだったから。どれくらいか時間が過ぎ それが真実だったと知らされた。
2ヵ月半前 娘の葬儀にわざわざ駆けつけてくれた時の彼を思い出した。半月前 電話で話した 彼の声を思い出した。まだ 信じられなかった。そして 彼の家族にもう一つの不幸があったことを知り絶句。彼のお母様のことを思わずにはいられなかった。
今は 奄美野鳥の会 奄美ネイチャーセンターの理事、森林保安員など 自然保護のテーマの下の活動に、法律や会社経理に関する業務など 幅広い分野で能力を発揮し、信頼を得 「彼に聞けばわかるよ」とみんなに頼りにされていた。
私だけではないはずだ。彼の死の衝撃を、喪失感を魂が抜け落ちた程に 強く感じてるのは。
通夜 告別式は たくさんの人が訪れたことは当然のこと 通夜の席は 賑やかだったようだ「ほとんど同窓会」といってた。明るい彼に それが ふさわしいから。
高校1年で知り合った。みんなが知ってた、人気者。身体にハンデキャップをおい、意地悪な連中に何か言われても「はいはい そうよ」と聞き流しいつでも明るく、なぜか話題も豊富で彼との交わりはまだ 鮮明に思い出すことが出来る。楽しかったんだ。たとえば 私が好意を持ってた女子生徒と同姓のタクシー運転手が 町のやくざの親分を撥ねてしまったそうだが 大丈夫?なんて 冗談だろうが、真顔で言ってきたことなど。高一でやくざの親分を何で知ってんだ。
お<そらく みんなの中で 少なくとも 同窓生の中で 彼の死 という事実は受け入れられたとしても その存在は 永久に消えることはないだろう。事あるごとに彼の魂は 我々の中に侵入してきて何かを語るに違いない。
まだそこにいるはず。また彼のいた事務所に毎度のように 会いに行こう。

      彼が好きだった歌はこれ

「南沙織が好きだったから 自分は琉球大に行った。」とやはり 真顔で言ってたが。これも本当とは思えない


鳥越俊太郎氏が この世を去るとき 最後に聞く音楽を探していた。テレビの企画だが。ジャズが好きな彼は、ニューオーリンズを旅していた。ジャズ発祥のこの地は、5年前ハリケーンカトリーナにより建物の崩壊など甚大な被害を出し、市民生活を困窮させた。しかし 人々は音楽を楽しめるようになっており、すさんだ教育の現場にも音楽を用いて、子供たちの心を救っていた。演奏してたのは 教会のゴスペルとジャズだ。ジャズの偉大さを知る。
鳥越は、オスカーピーターソンが 好きだそうだ。本場ニューヨークのジャズクラブ バードランドのピアニストは、彼のために 先ず 「自由への参加」を演奏する。数あるピーターソンの演奏の中でも 屈指の演奏にあげられる レコードがある。名瀬の靴屋のM]が初めて聞いたときえらく 感激していた。私ならWe get reqests がベストアルバムと思ってるので その中から択ぶとすると、ユールック グッド トゥナイトかイパネマか しかし
好きな曲 となると ワルツ フォー デビー や ソフトリー またサムデイ マイプリンス ウエルカム。オルフェのサンバ。ミスティ。今宵のきみは なども 好きだ。今 でれては決まられない。もしかしたらジャズでなくフォークかもしれない。バードランドのピアニストも「明日聞く曲になるかもしれない」と言ってたが、これから30年 40年 あるいは50年かも知れない その時に聞きたい歌は、今聴きたいと判断する曲とは違ってくるだろう。その時の状況によって、決まるんだろう。山元順公は今なら是って 拓郎の「落陽」だろうが 数十年後は違うかもしれない。もっといい歌を知ることのなるかもしれない。
舞の葬儀で流した 西野カナの「ベストフレンド」は年配の参列者にも好評だった。こういう新しい曲にもこれから心にずっと残る曲 かけがえのない曲が出現するだろう。最後に聞く曲は、最後まで聞き続けて決めよう。これからまだたくさん聞ける。