店主の気ままなひとり言
珈琲工房かわもと店主の、ほとんど独り言

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Author:川元 正樹
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宵々山コンサートのナターシャセブン

さっきから youtubeでフォークを聞いてる。12月間じかになって早くもお歳暮の注文があり、その商品つくりを夜遅くまでかかって終わらせ、やれやれと座り込んで、なんとナシに パソコンを立ち上げ、なんとナシに 保存してた歌を聞き出したら止まらなくなり、さらに曲を探してyoutube を、漁ってる。バズ ラビ ウィシュになぜか弾みで 天地真理 と 城南海も聞いて、その後 高石友也の「街」を聞こうとしたら、京都宵々山コンサートの動画が 沢山出てきて 今はそれを楽しんでいる。高石と 九大を退官した北山修が「あのスバ」を歌っている。教授だった時は 公務員なので、メディアへ顔を露出する事を避けていたが、自由人の今は 堂々と貫禄の風貌を見せていて 相変わらず面白い事言って、客席から爆笑の声が聞こえている。城田じゅんじが出ている。バンジョーで ブレイクダウンを演奏してる。視聴者のコメントに 「城田じゅんじのバンジョーがまた聴けるとは思わなかった」とある。私も驚き 感激。訳あって彼は人前に出て来れなかったのだ。名手の演奏 変わらずすごい!。高石の奥さん としこさんも出てる。あの歌を歌ってる、女の恨み歌だけど タイトルが思い出せない。レコードで調べられるが、こんな夜中 時間がない。ナターシャセブンの歌もコンサートも 良く見聞きした。今はメンバー2人が故人になってしまった。五輪まゆみ 「恋人よ」のモデルになった木田たかすけは、知らぬ間に交通事故で。坂庭省吾が亡くなったときは 新聞記事を見つけた。一人で活動していて さっきも 「花嫁」をソロで歌う映像をみていた。テレビで ギター伴奏している事もあった。今日も 「春を待つ少女」 「孤独のマラソンランナー」 「私を待つ人がいる」など、懐かしい歌をたくさん聞いた。会場はこれも懐かしい 円山音楽堂。私が行ってた70年代と同じ舞台なんだろうか。出てくる歌みんな懐かしい。いつまでも終わらなくなりそう。今は 「陽の当たる道」が聞こえる。軽快なバンジョーと、楽しそうなコーラス。
だいぶ前のだけど、フォーギーマウンテン ブレイクダウンの演奏を 聞いてください。

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居酒屋恋し

「居酒屋って好きだなぁ」と テレビを見ながら、しみじみ思った。「吉田類の酒場放浪記」。今日の放送では、4軒の居酒屋 焼き鳥屋が紹介された。一軒は洋食屋をかねていた。どの店も長く続いている店。3軒は店自体古そうで、入り口が がたがたのガラス戸だったりもしてた。どの店でも紹介された品はおいしそうだった。これぞ という一品をどの店も持っている。珍しいものもあった。ラムの串焼き、にしんの蒲焼、おでんに味噌たれをつけてたべたり、焼き鳥屋は当然その店にしかない、秘伝のたれを 持っている。ちゃんぽんが名物と言う店もあった。そして
お酒がすすみ、カウンターに居合わせた 他の客と知り合い 話が弾む。楽しそう。でも 私は飲めない。そもそも外に飲みに出る機会はない。この一年 居酒屋へ行ったのは一回。飲めないので ウーロン茶。美味しいのを食べたが、何だったかは忘れた。姶良へ越してきてから、行く機会が極端に減った。。誘われる事がない。たまに鹿児島から、誘いがあって、電車に乗って出かける事が年に数回あったが、去年病気をしてから、誘ってくれてた友人達も遠慮するようになってる。
酒は飲まなくても、雰囲気が楽しめるからいいんだ。会話が弾むからいいんだ。「行っても飲めなきゃつまんない」と言う人もいるが、私はウーロン茶で、酔っ払いと同じくらい楽しめる。もう 12月 巷は忘年会で賑わってるんだろう。20代の頃 10回くらいあった忘年会も 今はゼロ。ただ 一件だけ 忘年会ではないが 誘われている。硬そうな会にも思えるが、みんなの話が弾めば、きっと楽しい集いになるだろう、今は それが楽しみ。

そろそろ老年の勝手な青年団考

日曜日の夕方 MBCラジオでは、県内ローカル局の番組を紹介していて 奄美のFM宇検の番組も流れる。今月は宇検の青年達の日常を紹介していた。スポーツが盛んなこと、祭りの相撲大会では皆がまわしをつけること、青年団 壮年団の活動が盛んで、年配者との交流が多いことなど。確かに名瀬以外の地方に行くと各町村の連合青年団の名前をよく聞く。名瀬でも、中心部から離れれている、後から合併した三方地区という地域には青年団が存続しているが 私がいた中心部では 昭和40年代から、青年団の名称は聞かなくなっている。全く私には馴染みのないものになってた。
そんな私が 青年団の集まりに参加したことがあった。社会人になった年、会社から 「奄美を興す、青年の集い」と言うのがあり、若い職員を参加させて欲しいと言う要請があったらしく、新人の私を含め3人,参加することになった。街から離れた 岬にある研修所で一泊する。自費でだった。他の参加者は費用が支給されたらしい。町村の公費からだったり、青年団からだったり。
それは 青年団活動をどう盛り上げるかと言うテーマの会だった。20代の私は団体というのは 個人の自由と敵対する と考えていた。だから 後に組織からはみ出して、自営業に転じてしまったのだ。その会は 全く私の興味とは離れた内容で展開され、友人達との普段の会話では聞くことのない話題ばかり。一言も意見を言うこともなく。ただ 数人いた 素敵な女性参加者を眺め 彼女達の発言だけ、聞いてた。当然親しくなっても 話が合いそうにもない。「相撲大会に誘っても 出てこない人がいる こういう人たちを参加させるにはどうしたらいいか」なんて意見が出ると、「僕だって 相撲なんか絶対出たくない ほっといてくれ」と 内心思ってたり。
3年後 転勤してきて一緒に仕事するようになった先輩に 青年団活動をしてる人がいた。その人と 良く飲みに行ったりもしたが、青年団の仲間も一緒の事が多かった。小さな集落の青年団。その地で生まれ育って住んでいる。そんな繋がりの強さを知った。その 青年団の人たちとはそれからもずっと親しくさせてもらった。
その後 与論に転勤して、青年団とは 若者だけのものでなく 社会的な存在である事を知った。島の行事 祭りの担い手として 青年団があった。経済活動 福祉活動にも 青年団が重要な役を担っていた。青年団活動でしりあって結ばれた夫婦が沢山いた。そうだろう いっしょに汗を流し、一緒に楽しんで、お互いを見て 分かり合えば、これからもずっと一緒に と意識するだろう。与論に行ったのは20代最期の年だった。誘われた事もあったが、まだ 分からなかった。丸谷才一の小説に「国家は個人と敵対する」と言う言葉を読んで「そうだ!」と思ってた時期だ。国家はそうでも 青年団は人生を楽しくしてくれる。そう考えを改めたのは、 もう壮年になってからだ。

今夜は割と暖かい。数日振りにウォーキングに出た。このところ寒くて、家を出ても すぐ不安になってすぐ引き返していた。血圧が上がってるだろうと思うと、なんだか 胸の辺りが痛くなる。心臓に異変がありそうな気になる。心臓に痛みを感じることもある。心臓には神経が通ってないから痛みを感じることはないらしいが、心筋梗塞になったとき、確かに胸部に痛みがあり、治療で血液が通り始めたとき、スッと痛みが消えたのを、憶えている。心臓が痛むと思ってたが、心臓の周辺の何かが痛かったようだ。はっきり あのときのような異変はないが、気になって仕様がない。筋肉痛だろうが上半身に感じると、それは心臓と関係があるんじゃないかと、大変だと、そう思えて仕方ない。そうなると もう続けられない。このままじゃ体重は減らない。増えてしまう。去年頑張って落とした体重は、正月から 厳しい寒さの続いてた間に、5キロまた増やしてしまってる。その後体重は減らず、最近は食事の量を落として、減量を試みるが、まだ成果は出ない。何とか今夜のように暖かい日だけに限って頑張るしかないかな。なんとも やっかいな体になってしまった。
そういえば 今日墓に行ったとき、北極星は雲に遮られているらしく、ぼやけて見えた。暖かさは明日雨かもしれない天気の崩れによるものか。雨のときどうしようか、濡れて風邪引いたら面倒なことになるけど、暖かい日ってそんなにないだろう。少々の雨なら、傘差して歩こうか。

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名瀬のTから 本が送られてきた。「結いの島のふれいもん 三浦一宏物語」奄美で少年達の更生のために尽力している、同窓生 三浦一宏君のことを、紹介した本。彼のことは 何度もメディアで取り上げられてるし もちろ小学校から親しくしているので、良く知ってはいる。ただ 以前 PHPでの記事を読んだとき、彼の家庭事情など知らなかったことが 沢山記されていて、予想外だった。彼の御両親も良く知ってるし、お母さんは 私が長期に学校を休んだときに「人事じゃないと思って」と、見舞いに来てくれた。彼の思いやりは 母親からうけついだかな。この本も読むの楽しみだ。今日は 半分ほど読んだ。感想はまた後日。
今日読みながら 蘇った想い出がある。本の中で 約束を破って 高校を辞めてしまった少年に 三浦が最初は厳しく叱責する。3ヵ月後にまた やめたときには 逆に3ヶ月がんばったことを褒めてやった。少年は涙を流し反省。その後無事に卒業までたどり着く。私が中一のときの担任は、串山先生という 初老の人。今は初老だっんだろうなと思うが、当時 12歳の私達からは完全に おじいさんと言っていいような存在。その私立の学校には公立学校を定年退職した教師もいたから、ほんとに老人だったかも知れないけど、見た目よりはずっと元気だった。で、厳しかった。同じ小学校から行ってたSなど毎日叱られてた。友達と校舎の階段で、ふざけてスリッパを蹴って遊んでいたとき、過って踊り場にかかってた額のガラスを割ってしまった。職員室に謝りに行くときは 絶対厳しく怒られるだろうと、緊張して行った。先生は「どうした川元 お前みたいな真面目な者(もん)が」と笑いながら言ってくれた。瞬間、目の前に何も映らなくなった、目を閉じてた、ドット涙があふれるのをこらえてた。あのときの感情を経験したことは他にはない。少し気恥ずかしくて 誰かに話したことも一度もない。それをきっかけに心を入れ替えたかと言えば 全くそんな事はない。小学生の頃から悪る賢かった私が 最も素直になったときだった。素直さが残ってた 遠い昔 少年時代の思い出です。

昨日NHK「SONGS」であった 矢野顕子と上原ひろみの演奏を 録画してあったので、今夜見た。3曲だけの演奏で、あとは二人の、東京紀行。番組内ずっと楽しそうな二人だが 演奏中もほんと楽しそう。ピアノの連弾が2曲。矢野のボーカルの伴奏を上原がやってるのが1曲。「リンゴの木下で~リンゴの歌」は メドレーではなく、2曲をあわせて一つの曲にしている。これは 聞いてて楽しかった。ライブではなくスタジオで録画したものだが、向かい合わせたピアノそれぞれを演奏しながら、本人達の方がずっと楽しそうな様子でプレイしていた。矢野はこの曲のときは ボーカルをやめ ピアノだけ。軽快に音を奏でる、ユニゾンの部分も バッチリ。テレビ画面は その時だけ グランドピアノの前方部をカットして 二人の鍵盤をたたく手を 並べてアップで写してたが、その手の動きがぴったり。おもしろい映像だ。矢野顕子を初めて聞いたのは、細野晴臣や坂本龍一のティンパンアレイに参加したときだった。そのジャズ感覚にすぐ魅了された。独特の歌い方も良く知られてるが、たとえば「津軽アワー」で ホーハイ節を歌っても メインはピアノだったと思う。上原ひろみも 「トム&ジェリー」のように 度肝を抜かれる曲もあるけど けっしてフリージャズじゃない。しっかりした音程で、スピード感のようなリズムで 自由に奏でる。上原のアルバムCDは1枚持ってるけど、どの曲もオーソドックスな演奏だ。最後に上原が作った歌を 矢野が歌って 上原がピアノ伴奏しているのを聞いて、オスカーピーターソンと同じ音だと思った。「ユー ルック グッド トゥー ミー」を聞いてるようだった。さすが ピーターソンに気に入られただけの事はある。この二人 ジョイント盤も出たらしい。聞くのが楽しみ。音楽ってほんと楽しい と 思いながら見ていた。

一曲どおぞ テレビではなかった曲だけど


コーヒー屋を目指す人へ 疲れた珈琲屋から

若い二人が 焙煎を見学に来た。9日のブログに書いた、中学生のときからマンデリンを飲み続けている元少年 今は青年とその彼女。彼女の方が「焙煎教えてくれませんか」と、言ってたが、今日も彼女の方が熱心だった。将来喫茶をやると はっきり目標を定めているそうだ。そのため パン屋 ケーキ屋で、働いて、技量を磨いているらしい。コーヒーのことも勉強したいと思ってるところへ、彼が持ってきた マンデリンが 気に入って このコーヒー屋にお願いしたい と思ったそうだ。東京でコーヒー屋でバイトもやっていて、ある程度のコーヒーの知識は 既に持っている。沢山の店に行っていろんなコーヒーを飲んでいる。東京でも大阪でもコーヒー屋めぐりをして 鹿児島でもコーヒー屋を見つけては 入って楽しんでたそうで、コーヒー屋については 沢山のコーヒー屋の情報を私より遥かに多く持っていた。そういうコーヒーに強い興味を持ってる相手には こちらも饒舌になって、はなしが弾む。焙煎しながら 段階ごとに豆の色と形状の変化を説明しただけで、「やり方は焙煎する人それぞれ違うから 豆の性質を理解して自分の好みの味を作ればいい」と、伝えて終わり。炭で焼いてる事に驚いていた。「だからほかの店のコーヒーと違うんだ」と、そこまでわかってくれると頗る嬉しい。私のつたない話で、大丈夫か。満足してないんじゃ とおもい、専門の本を貸そうというと、「先ず 基本から」と応えたので 私が一番初めに読んだ「コーヒー専科」を渡した。そんな謙虚な人 是非 夢を実現させて欲しい。

連日寒い。真冬のように感じる。夏の間に敷き布団を捨てられた私は、夜寝るとき寒さをこらえて震えながら、体温が、毛布の内側を暖めてくれるまで眠れず耐えてる。
昨晩は 娘に 「寒いから一緒に寝よう」と声かけると なんと 私の布団に入ってきた。幼さがいつまでも抜けず困ったものだと思ってたが その幼さが昨日に限ってはよかった。ただ 娘の体も温かくはなく、狭い布団で窮屈な体勢になっただけだったが、いまさら 「もういい 出てって」とは言えず、そのまま程なくねむりに入ることが出来た。夜中に目が覚め時には 娘はもう 自分の床に戻ってたが、朝 目覚めると 布団の中にまだ何かある。いつも 娘と一緒に寝ている猫だった。こいつは結構暖かい。夕べ 娘が連れてきて自分だけ出て行ったのか、猫が 娘が寝てる側にやってきたのか。おとなしく寝てるだけなら、布団への進入歓迎。
娘は「夕べはお父さんを寝かしつけてから 自分は寝た」と言っている。今夜も寒い。娘は 湯たんぽを準備している。「私は湯たんぽじゃないからね」



ホークス秋山監督 日本一

昨日はホークス秋山監督の涙に ちょっともらい泣き。試合中ずっと ベンチの奥のほうで、でんと座り、時には笑ってるようにも見え、全て選手に任せているような様子に見えてたが、内心はプレッシャーを感じ 緊張もしてきつかったのだろう。
現役時代はすごい選手だった。本塁打 打率 盗塁 守備でも一流のプレイをした。身体能力は陸上の十種競技でトップになれるだろうと言われるくらい、走 跳 投全てですぐれていたらしい。日本シリーズで本塁打を打ってホームに帰ってくるときバック宙をやって驚かせた。チームは盛り上がったが、相手は苦々しかっただろう。それとも秋山の能力を知ってるから、しょうがないとあきれてるしかなかったか。そんな彼も 最初、ライオンズに入ったときはドラフト外だった。熊本では、野球では実績のない高校を県大会決勝に投手として導いた彼は評判の選手で、プロのスカウトも注目していたが、全くプロになる意志を示さなかったので、ドラフトでは指名されなかった。確かに 最初に秋山の名を聞いた時は 全く知らない存在だった。当時ライオンズは 無名選手を ドラフト指名して、周囲を驚かせ その選手が活躍するということが続いていて、秋山もその類と思ってたけど、評判の高かった彼のことをあきらめなかった当時の根本監督の熱心な勧誘が 彼を成功させたわけだ。30本塁打 3割の打率 30盗塁。また40本塁打 40盗塁。30本塁打 50盗塁など すごい記録を達成している。プライドを持った選手でもあり、送りバントのサインに「出来ませんと」と拒否し 交代させられたこともあった。
もともと 知的なイメージもあり 引退後 講演会などによく呼ばれ 福岡のある中学が 数学の秋山仁の講演を企画したが 手違いで 秋山幸二が来て、地元のヒーローの出現に生徒達が大喜びだったと言う 新聞記事を読んだことがある。彼の出た 八代高校の名を 野球で聞いたことはなかった。八代東なら甲子園出場したこともあり良く知っているけど。私の高校2年のとき 同じクラスに、八代高校からの転校生がきたが。そのひとから、その高校は、レベルの高い進学校なんだろうと 予想していた。
選手としての経験と スマートな考えで執った、采配が 日本一のチームを作り上げたんだろう。



舞の墓には毎日夕方6時頃行っている。この時期 午後6時は もうすっかり暗くなって夜といっていい時間。ただ墓地隣の ビデオ店が、店舗の外に向けて沢山の照明を、使用しているため墓地内はその光で明るく、墓参りの行為をするのに支障はない。墓は一番道路寄り。北東の方角に背を向けてる。その時間 星はまだいくらかしか目に出来ない。しかし 一段明るい北極星は、いつもはっきり認められる。丁度 墓を後ろから見守るような位置にそれは輝いている。その星は 星の王子様 こと 川口のような気がする。彼が舞を あちらでも守ってくれている。「大丈夫 任せなさい」そう言ってるように思える。彼が 学習塾を開いてたとき 舞も数ヶ月通わせた。舞の先生だ。その先生 お通夜のとき名瀬から来てくれた。舞のために。ここ数日 そんなことを思いながら 手を合わせている。墓碑と向こうに見える 北極星にも。

巨人軍は永久に○○です。

今 プロ野球が面白い。日本シリーズはもちろんだが、巨人の内紛で、世間はいろいろな意見あり。「よくぞ言った」もあれば「組織では許されない」も。ただ 「何でこの時期に」と言う意見はかなり多い。真相はわからない。これまで組織内でタブーのように扱われた、特定の人物の批判を、あえて行った事実は 大きいと思うのだが、どちらが真実を言ってるか、今はわからない。権力者に抗う手段として、社会評価を低下させようと、誇張した言葉で 相手を攻撃したか。対しては組織を守るために、できるだけ隠そうとしてはいないか。カメラの会社や製紙会社そして電力会社が 事実を隠そうと一生懸命だったことが暴かれて 世間があきれている実態が今まさに起きてる。あの 批判された御仁は世間の意見や様子がどうであれ、自分が全て正しいと 思ってるから、強気に何でもおっしゃるが、組織としては、外に漏らしたくない事実を、隠し通すために手段を択ばないだろう。
巨人の組織で この 御仁が全権を持ってて この人の承諾なしには何もできず。この人の意志が 組織の意志となる事を 誰も疑わない。それも 世間や、関係する者達が、反対しようが何を言おうが、その意見に耳を傾けることはないようだ。野球ファンならずとも尊敬されている選手に対し「選手のぶんざいで」と発言し、世間の反感を買ったのはよく知られているところ。ただ 会見を開いてまで その人物を 批判した方も 言ってる理屈はわかるが、直前まで その組織にいて その御仁に へいへい 従ってたわけだから、本心はどうなのか 保身のためでは、という疑念は晴れない。
しかし 窮屈に感じてないんだろうか、自我の欲求は満たされているんだろうか。自分の意見を殺して、上からの意見だけに従って、選手 チーム ファンのためより 会社組織が優先。「この御仁さえいなければ、自由なのに」なんて 考えることはないんだろうか。 組織に属さない私が言ってるだけで、組織内の人間なら当たり前なのかも知れない。「勝手なことばかり言いやがって」と怒られるかな。
それに 巨人ファンでない から 面白がってるわけで、ファンは もっとやるせない気持ちなんだろう。33年前のやはり 巨人が 批判された 江川入団のごり押しのときは、私も巨人ファンだった。好きなチームの印象が悪くなるようで、滅入ってた。空白の一日って言うけど、「翌日のドラフト会議の準備のためと その一日を設けた理由が 示されているんだから」と 屁理屈にしか聞こえないことを言う連中に反感を持った。まぁこれは昔のこと、江川くんも 今では反省してるし、小林とも和解したし。あれだって 画策した 巨人と阪神の社長が悪いんだ。
などなど 組織に属さず巨人ファンでもない 私の独り言です。読んで不愉快な思いをした方、悪しからず。
日本シリーズは明日もある またテレビで見れる。今は ホークス応援中の私の 負け惜しみ。

文学館でしばし憩う

配達の途中 鹿児島近代文学館に立ち寄った。娘と一緒に。2011111816440000.jpg

島尾敏雄展をうやってるはずと思っていたが、それは11日で終了して、今は 向田邦子の回顧展をしていた。入場券を購入して常設展示室へ入っていくと、鹿児島ゆかりの文人達の顔写真がある。20人くらいいただろうか。その中で特に著名で、鹿児島に深く関わってた作家のコーナーがある。海音寺潮五郎 林芙美子 梅崎春生 向田邦子 島尾敏雄。彼等の直筆原稿 著作の初版本 愛用品の展示と経歴の紹介、それとナレーションの音声が出る紙芝居のような仕掛けで 幼少期 少年期を紹介する設備がある。意外にも 娘が 展示物に興味を示し 熱心に見ている。半分は物珍しさだろうが、作家の年表など、ちゃんと読んでる。時々 感心したような言葉を発するが、どうも歴史としてみているようだ。
二階の向田那子展は テレビの世界で活躍した人らしく 華やかな雰囲気で テレビドラマの台本、場面のパネルそして一部屋を使って 彼女の普段の紹介。部屋の居間を再現して 実際に使ってたソファやテーブルがある 衣服も。猫と一緒の写真が何枚もある。マンションの見取り図に 「猫室」と言うのがある。猫のために部屋があり、「この部屋のために青山のマンションに引っ越した」と、妹和子さんの言葉が添えられてた。無類の猫好きの様。同じ猫好きの娘はこれで ますます 向田邦子に興味を示す。嘗てのインタビューを受けた時の映像、寺内貫太郎一家 のVTR 久世充彦など 親しかった人たちの回想VTR さらに 著書の朗読音声など、全て見聞きしていた。懐かしい戦前の磯の風景 じゃんぼ餅が好物だった向田がその磯で家族で それを食べ 桜島を眺めながら砂浜で一日遊んだことを書いた文章が 大きなスクリーンに流れるように表示されるのを最後まで 見つめていた。さて 帰ったら 向田の本 引っ張り出して 娘に与えよう、向田が事故死した一年後に出た 「向田邦子ふたたび」という 特集雑誌を 持ってるが、一体どこにしまっただろうか、私もまた読みたい。
館内で紹介してる作家には 大屋典一つまり一色次郎も、迂闊にもこの人のことを忘れてた。島尾敏雄の死からしばらくしてこの人の死去を報じた新聞記事を目にして こみ上げるものを感じたほどだったのに。その年の正月奄美の地元紙が彼の特集を企画したが 彼がインタビューに応じなかった。一通の封書が新聞社に送られ、そこに指の腱鞘炎で ペンがもてないほどになっていたこと、いまは 関西だったと思うが、公民館で文章教室の講師などをしていること、などが記されていたそうだ。苦労して作家になったけど 晩年も苦労はついて回ったのだろうか。長年 大量に書き続けたからの腱鞘炎で、著作はまだ 沢山あるんだ。私が一番気に入ってる「古里日記」仁ついては、この文学館では何の紹介もない。確かに、「青幻記」や「太陽と鎖」直木賞候補になった「冬の旅」の方が 知られて入るが。
意外な人も、与論に 句碑がある 山口誓子の名が。祖父が鹿児島の出身だそうだ。
あっという間に2時間が過ぎてた、まだ 全部に目を通してはないが 仕事の途中ゆえ、これ以上は留まっていられず、出てしまったが、娘が「また来たい」と言ってる。

帰り来ぬ青春

「今宵の一枚」で見つけた、私のはまり歌「帰りこぬ青春」。シャルルアズナブールの歌として有名だが、私がはまったのは「この胸のときめきを」で。知られているダスティ スプリングフィールド。アズナブールは苦手なのだ。あの芝居っけたっぷりの歌い方が苦手。それに比べ 素朴な声で静かに展開していき最後に全ての思いを歌に託して響かせ語る歌い方。「この胸のときめきを」も」同じような展開だ。帰りこぬ青春はまた静かに語る、今となっては思い出として収めるしかないだろうと。シャーリーバシーも歌てるけど力強くて切なさが、伝わってこない。「どおだ素晴らしい青春だろう」と誇らしげにきこえる。
いい歌だけど あまり好んでは聞いてなかったけが、ダスティ スプリングフィールドの歌なら何度でも聞きたい。「今宵の一枚」でまた素敵な一枚が見つかった。


森昌子も歌ってる


映画マザーウォーターを見て考える

居眠りしながら 映画「マザーウォーター」のビデオを見た。ほんとに退屈な映画だ でも このシリーズの作品、必ず終盤には 頬が緩み、最後は「う~ん(よかった)」と 笑顔になってしまうのだ。
主役が誰なのかも良くわからない。登場する女性四人、みな主役の様でもあり、脇役の様でもある。ほかに登場人物は、男3人に 重要な関わりになる 赤ちゃん、赤ちゃんのお母さんらしき後姿と、声。「かもめ食堂」では明らかに小林聡美が主役 三作めの「プール」もおそらく小林聡美が主役のようだが、娘役の伽奈も重要な位置にいる。与論で撮った「めがね」は誰が主役かわからない。旅行に来た小林聡美なんだろうが、もたいまさこの方が登場人物の中心になってるような気もする。
マザーウォ-ターでは女性4人が中心。男性も含め全員が赤ちゃんを抱っこする。全員が赤ちゃんに微笑む。癒されてるというのだろうが、女性達は全員のんびりと自分のペースで暮らしてる。悩みを抱えている男達とは対照的。舞台は京都だけど 誰も関西弁は使わない。他所からそこへ移り住んだと言う設定。2箇所 京都弁が入るが、これは地元のぎとが出演。出演じゃない 演じてない 八百屋のお上さんと 銭湯に来たおばあちゃん。普段のそのまま。京都は「一元さんお断りの街」とか 余所者には厳しい とか 聞いてたけど、余所者にとっても素敵な町には変わらない。緑が眩しく 加茂川の風景は広々とのどかで、疎水べりは静寂な中のせせらぎの音が心地よい。一人が、他の一人に「またどっかに 行っちゃう。」と聞く。「う~ん わからない}と返事するが、「今は ここが気に入ってる」と、思ってるだろう。「どうしてここに来たの」と言う質問にも、「なんとなく」。住みたくなったのだろう。時間がゆっくり流れている古い街。ただ眺めてるだけで幸せに感じる時間が持てる街、赤ちゃんのあどけない笑顔を見るのと同じように嬉しくなる。そこで、何があっても、流れに任せて生きていける人た達、私の理想の暮らしだから 最後の笑顔になってしまうんだ。
この映画のロケ地めぐりのブログが有りました。「毎日を楽しく暮らす」映画のシーンと実際を写真で比べてる。
京都を愛する人の歌「街」


今朝のワイドショウー



アメリカで由紀さおりの 「夜明けのスキャット」が人気になってるという話題がTVであった。アメリカの有名ジャズバンド ピンク マルティーニと共演したアルバムがチャートの上位にランクされていると言う。アメリカでは ジャズの部門にランクされてるようだ。ピンクマルティーニのリーダーが たまたま 「夜明けのスキャット」聞いて 由紀さおりの歌声に魅力を感じ、気に入ったのがきっかけ。カナダでも人気になってて、さらに他の22カ国でアルバムが発売されている。「上を向いて歩こう」のような世界的なヒットが期待されている。
この歌を聴くと 胸が熱くなる。好きな歌というより 、幸せだった 中学時代を思い出すから。1969年 私の中学時代にヒットした曲。よく聞いた。テレビでも見た。あの頃の歌では 最も印象に残っている。
由紀さおり 安田祥子のコンサート は 舞だけ見させてる。舞が小学3年生のときだったと思う。妹がまだ 1歳で、母親は 会尾上へ入れず。私は 仕事中で行けず。合唱団に入ってた舞には是非聞かせたくて、ひとり行かせた。会場は 住まいのすぐ側 正面にある 文化センターだから、行かせるのに問題はない。帰ってきた舞は嬉しそう。コンサート後 出演した二人と握手が出来たそうだ。アルバムにはほかに 「ブルーライト横浜」「夕月」「いいじゃないの幸せならば」など 懐かしい歌が収録されていて、69年を思い出す。
見ていた番組で、次の話題が 大人 というタイトルの商品が人気 という話題。大人のカルピス とか 大人の科学とか。ずっと以前からあるのは 「大人のふりかけ」。舞の 好物だった。小学生の頃 私の仕事先に 電話で「お父さん 大人のふりかけのサケ 買ってきてぇ」と言ってきた。もちろん私も大好き。入院してた病院でも使ってた。「大人の」とつけると何故売れるか。テレビでは、小さい頃食べた利遊んだものを 大人になっても 欲しいが、そういう 幼い者の商品を買うのは、恥ずかしい。「大人」ってついてたら、買いやすいという解説だった。私は 今でも良く 「不二家のミルキー」を良く買う。舞に備えるため。舞が大好きだった。それを知ってる友人達が 病院に来るとき みんなが ミルキーを 持って来た。いつでも2,3 袋の ミルキーがあり、私も食べないと 消化できない。私の好物にもなった。今 私が買ってくるミルキーは お供えした後、全て私のお腹に入る。
朝食を取りながらテレビを見て、話題ごとに 舞のことを思い出してる。

学校では学ばない常識

「手前味噌」という言葉を「知らない」と言った 東大生に 皆唖然とした。さっき見たテレビのクイズ番組だ、ただ私が見たのは、終盤の10分くらいだから、その東大生タレントがそれまでどういう成績だったのかは 確認してないけど、その番組に出演を請われたと言うことは、ある程度の知性が認められたからであろう。出演してたお笑いタレントが不思議そうに目を丸くした顔が 印象的だった。誰でも知ってると思ったことを、それまで難問をクリアーして皆を驚かせてた才媛が、聞いたことないというのだから。
教科書に載ってなかったんだろう、学校で教えられなかったんだろう。受験勉強に集中してそれ以外の情報は必要なしと、排除したのだろうか。仕方ないとすべきものなのかもしれない。
以前 防衛問題について国会議員達が、審査する弁論会で、自民党議員の大喝采を受けた優秀な女子大生に、他の議員が「先の大戦のことを どう思いますか」と質問すると、その学生は、「先の大戦って何ですか」と返事してこれも唖然。聞いたところ 第2時世界大戦は歴史上のこととしか認識していない。親や 祖父母から 戦時の話を聞いたことは全くないということだ。今の国会議員の中にも戦争を軽く考えてるような人がいるので、日本で最も悲惨な結果を招いた 大戦のことに疎くてもこれも仕方ないのか。
私にも あった 明治時代 大正時代が 何年続いたか知らなかった。「だって 学校で習わなかったから」と言うと 「そんなの常識だろう」と、叱責された。
有名な物理学者が 脱税を指摘されてしまったときにも 「これに 税金がかかるなんて 誰も教えてくれなかった。」と弁解してる。物理に熱中しすぎて、世間との関わりが薄かったか。
だから 別に あきれてしまうことではないんだ。特に 若い人たちは、今まだ 知識を吸収してる途中なんだから、経験も足りないのだ。年取ると 頭の回転が鈍くなる とよく言われる。そうだと思う。でも 経験して得た知識は圧倒的に多い。
今の私のほうが 10代の頃の私より 多くの漢字を知ってる、語彙も知ってる、英語もわかる 書けないけど、これは 長く生きてるからだ。
たくさんの歌を知ってる。本もたくさん読んだ。映画も何本も観た。友人も沢山 恋も沢山 これは私の場合ウソ。でも 経験したことが人間を作るとすれば、年配者ほど豊かな人間となりうる。年を取りながら経験が積める。
年を取るって 素敵なことなんだ。

娘の素敵な先生

舞が中学のとき、塾で英語を指導してくれてた先生 が 尋ねてきた。中学3年のときだから 10年前。家で 英語の勉強なんて全くしなかった 出来の悪い舞を、熱心に教えてくれた。その真樹子先生。当時は大学生。塾でだけでなく、自宅にまで 生徒を呼んで 教えてくれた。舞達中学生女子にしてみれば、素敵なお姉さんの 家に呼んでもらって、わくわく 嬉しかった事だろう。
先生 今は 熊本に住んでいるのだが 実は 舞の葬儀の日はたまたま 実家に帰っていて、葬儀場の前を これもたまたま通ったときに 案内看板に舞の名前があるのを見て、我が家へ駆けつけてくれていた。10年前の生徒の一人に過ぎない舞のために 名前も良く憶えてくれてたものだ。舞と もう一人 仲良しのMちゃんは 高校合格後 彼女に手紙を書いたり、会って 近況を話したり親しくしていたのだった。今日も 熊本から帰省したところで、「舞ちゃんに手を合わしたくて」と言って 大事な時間を割いて来てくれた。
舞も 私も 彼女には感謝していた。英語に全く興味もなかった舞に、英語の勉強の面白さを教えくれた。高校に入れたのは間違いなく 彼女のおかげ。しかも 高校に入ると 英語が大好きになった舞は、英語だけは得意になり、英語の専門学校に進学までした。高校の文化際で、舞が先頭になって練習し演じた英語の歌のコーラスのビデオを見ながら 1時間ほど話をした。舞とMちゃんから来た手紙は、まだ持ってて、読み返したという。舞の性格もわかってて、嫌がる男子と喧嘩しながら、コーラスの練習を強引にやったことなどを聞いて「舞ちゃんらしい」との評。彼女、大学は 教育学部の英語科でなく 英文科でもなく 心理学専攻だった。中学生の考えることを良く理解していて、それを指導に生かしたんじゃないか。今も 心理士の仕事をしているそうだ。
もう一人 仲良しの Mチャンは やはり同窓生のYさんと 2週間ほど前にたくさんの花を持って、墓参りに来てくれた。その時に 真樹子先生が 来てくれたことを話したら とても懐かしがっていた。
そこで、「真樹子さんまた 来たよと」と伝え、電話番号を教えた。二人その後、懐かしさと嬉しさを胸に、会話が弾んだことだろう。二人が言ってた「舞ちゃんが 引き合わせてくれたんだ」。

赤い鳥 知ってた?

朝日新聞  歌の旅人は 「赤い鳥 翼をください」、今ではほとんどの日本人が知ってるんじゃないかとおもうほど有名なこの曲、私も高校時代良く歌ってた。赤い鳥というグループが 洗練された感じで 若者には人気が高かった。「河」「忘れていた朝」「言葉にならない言葉」「赤い花 白い花」竹田の子守唄」「紙風船」彼等の歌をたくさん聴いて 歌ってもいた。「翼をください」は 「竹田の子守唄」のB面だったとある。確かにそうだった。思い出した。私も「竹田の子守唄」を良く歌ってた。ギターでイントロを良く弾いた。赤い鳥のことも 歌も良く知ってるつもりだったが、今日読んだ記事で、まだ詳しく知ってるわけではないと 認識。でも いろんなことがわかった。
「竹田の子守唄」の竹田と言う地名が 丹波地方にある事は、大部後になって知ったが、被差別部落に伝わる歌だったため、ラジオでの放送が規制されてたというのは知らなかった。我々は どこで聞いてたんだろう。赤い鳥はアマチュアで参加した、全日本ライトミュージックコンテストで、小田和正や財津和夫のグループを押さえグランプリを取ったが プロになるつもりはさらさらなかったらしい。「翼をください」を 作曲した 村井邦夫が無理やり追っかけてレコーディングさせたとある。ただ プロになった後は コンサートライブやラジオの仕事で、。心身を消耗し、練習不足で 山本潤子 曰く 「プロになってからの方が下手になった」。
でも 私達は 赤い鳥を聞いて 歌ってた。naさんが 高校のとき「翼をください」を歌ってた私を憶えてくれてたけど、部活の遠足のとき、バスの中で 確かに歌った。思い出した。「河」も歌ったはず。その遠足にnaさんも参加してた。
この。「翼をください」、高校の教科書に載ったことで 一機に知られるようになったのだが、何故この曲が択ばれたか、その理由も書いてあった。混声合唱で男子が 歌いやすい歌だからと言うことだ。サビの部分で男子が低い音で主旋律を歌うので 男子が喜んで歌うらしい。慰めの歌になったり 応援歌になったり、広く国民に支持されてるというエピソードの紹介に、胸が熱くもなった。今 私は赤い鳥のCDは持っていない。でもLPレコードなら2枚ある。名瀬の山田から貰ったフォーク大全集 ほんとは山田のお兄さんのものだったが、これにも 赤い鳥の曲が5つ 収められている。引っ張り出してまた聞こう、ただ 五月蝿い山の神がいないときでないと。



朝 大阪のTから 電話があった。一昨日の私のブログを見て、誰のことかを 確かめるためだった。連絡が行ってなかった様だ。そういえば 彼への連絡は 先月亡くなった 星の王子様がいつもやってた。娘の時も 星の王子様と東京の山元に伝えたところ 彼等がたくさんの同窓生に 連絡してくれて Tもわざわざ大阪から、星の王子様も 名瀬から駆けつけてくれた。私へは、いつも 市役所の山田 星の王子様 山元など 複数の人が行ってくれてたから、いつも助かってた。私も 在鹿児島の人たちに連絡しなければいけなかったのだが、うっかりしてた。ブログには naさんも 寝耳に水の ごときことのようにコメントをくれた。naさんにとっては 亡くなったSYは、それほど親しい関係ではなかっただろうが 人一倍 同窓生のことを気にかけてくれてるから やはり 衝撃はあったんだろう。
naさんが いろんなことがありすぎる と言ってたが ほんとにそうだ。「頑張って 生きていかなくちゃ」naさんが言ってた この言葉が 心に響いてる。同窓生はいいもんだ 心が繋がってる 今 真にそう思えている。私の場合 同窓生に頼ってばかりだけど。 
私達は これから 精一杯のことをやって 生きていかなければ。離れていても 同窓生の 誰彼が 頑張ってることで、みんな明るく 頑張れるんだから。


一週間ほど前だったか、東京の山元が
「マリストで 一つ上で バスケット部で 小柄で、面白い人 知ってる?」と電話があった。
私が知るはずもなし。「寮で同じ部屋だったんだけど、名前が思い出せなくて」「変わった名前の人だったけど」
彼は 高一の夏休みの間に転校してしまい、先輩達に挨拶もできなかった事を 悔やんでた。名瀬にいるMに電話したところ 「それだったら Tが知ってるはず」という事で Tに聞くと「O塚さんだよ」といったらしい。
どうも違う気がして 私にも電話してきたわけだ。O塚さんなら私も憶えているけど、「あの人は 背が高かったし、成績もよくて 東大に行ったよ」というと、「やっぱり違うなぁ」
その後 毎日 その件で、電話が来た。もう一人の同室だった 徳之島のS先輩に電話した」。途中で転校した私達は持ってないが、OB会の名簿は高校まで卒業した者は皆持ってる。Tから Sさんの電話番号を聞いたらしい。それならわかるだろう と 思ったら Sさんも知らないといったそうだ。久しぶりの会話で 長々と近況などを語り合ったが 同級生でもあるはずの その人のことを憶えてないと言ってる。私の記憶にあるそれらしい人を思い浮かべてみる。O丸さん K丸さん「そうだったかな 違うような気がする」山元 ますます悩む、思い出せないのがもやもやして 気になってしょうがない。
今夜も電話が来た、「O丸さんも K丸さんも思い出した。でも 違う」「Aに聞いてみようかな」 八代にいる同窓会の幹事の名を出した。山元もAとは 何十年も会ってないだろうけど、電話したようだ。その後また 電話が来た「わかった Hさんだ、Aに聞いたらわかった。いま Hさんにも電話して話したら 自分のこと憶えていてくれた」よかった。彼の声は 40年前と変わらず それは 聞けば彼とすぐわかる。ほっとして嬉しそうだ。
私も 転校したのは中学3年の冬休み。帰省して家で父に言われて 急に決まった。従って みんなに挨拶してない。担任にも会わなくて、副校長と、面談して許可された。私も みんなに会いたい。4年前、同期会があると聞いて 電報を送り 「次回は私も参加させてください」と伝えた。私は その時の同室の者は皆憶えている。8人部屋で 3年生 2年生 4人ずつ。2年生でも はっきりわかる。水俣のSMはハンドボール部 奄美古仁屋のHMはバレー部 南関のYは剣道部だったけ、それに卓球部のY。みんな可愛かったが、今は、それなりに立派になってるだろう。



また 同窓生の訃報だ。柔道部だったSY。柔道部にしてはあまりにも温厚 柔和な顔。父親が高校で柔道を教えていたから、彼も始めたんだろうが、柔道が大好きだったようだ。後々まで 公民館などで 柔道教室の講師などをしていた。体型は柔道家らしかった。ぽちゃりがたというか、どっしりがたというか、まぁ ふっくらが、妥当かも。それに あの柔和な顔 独特の雰囲気を持ってた。いつも穏やかだった。怒ったところなど見たことない。最後に会ったのは 2年前だ、今年なくなった Hの焼き鳥屋で、その数ヶ月後、2年前の夏、他界したNと一緒にいるところへ、帰省してた私がたまたま行って そのとき会ったのが最後だと思う。SYも Nも元気そうだった。もちろん店主のHは、バリバリ。Nはその時で 病気をわかっていたらしい。気づかなかった。Hは突然死。SYも病気だったそうだが、いつからだったんだろう。あのときの3人 もういないのだ。高齢になってる同窓生の親の葬儀の案内が、かなりの頻度で来ていたが、去年あたりから同窓生本人の訃報が届くことが、急に増えてるような気がする。
「20代の頃 月に4、5回結婚式に呼ばれてたけど、今は葬式に 毎週のように行ってる」
今年6月 中学の時の同窓生Mの息子の結婚式で、久しぶりに会った やはり中学の同窓生 NMが話してた。
寂しい年代なんだ。

お客さんで 中学生のときから コーヒーを買いに来てた男の子がいる。今はもう立派な大人だ、既に大学も卒業して 社会人になってる。ずっとマンデリンを飲み続けている。配達先はいつも彼の実家だった。実家といったのは今は、別に部屋を借りて暮らしているからだ。その 新居に初めて配達した。奥さんらしき人がいる。新しい住所を聞いたときに たぶんそうだろうと思ったが、結婚したんだ。十年近く前からのお得意様だから そおいう年になってるのは 納得だが、結婚したとなると、中学生で父親に連れられて来てた当時と比べてしまい、その成長振りには大いに驚かされる。
コーヒー好きの彼の 奥様になった人も やはり コーヒー好きのようで、「焙煎教えてもらえませんか」といきなり尋ねられた。OKだと伝えた。過去にも3人教えて欲しいと、やってきた人がいた。ただ 焙煎機の扱い方を教えるだけで、私のやってるところを見てもらうだけだ。自分で経験しないと、人に出せるコーヒーは焼けない。
豆の性質はその時焼くまめについては話すが、全部は教えられない。結局コーヒー屋にはなったが
焙煎を始めたのはいない。手間がかかることがわかったのか、焙煎機があまりにも高価だったか、焙煎機は私が購入した20年前と比べたら3倍くらいの値になっている。
または 私の教え方がまずくて、理解できなかったか。
今回の若い二人。もしかしたら 好きなコーヒーを商売にしようと考えてるかもしれない。そうなって欲しい。私もしっかり教えなきゃ。



三谷幸喜の仕事

NHKテレビの「プロフェッショナル」に三谷幸喜登場。いつもはテレビでふざけてばかりの印象だが、今日は彼の仕事振りを紹介。やはり 簡単に思いつきで本を書いてるわけじゃない。毎回苦悩しながらの作業のようだ。彼の遅筆は、役者達がずっと言っていた。ぎりぎりまで出来上がらないことがしょっちゅうらしい。でも 待ってた甲斐があるくらいの面白い本を必ず書く という事で、支持され、作品もみな評判になってる。それだけ考えに考えて 構成しているんだ。劇団を立ち上げた若い頃は苦労の連続だったが、その経験が今生かされてるともナレーションが伝えてた。苦労に愚痴ばかりじゃ何にも始まらない 生かしてこそ意味があるんだ。
話を作って、演出もして、映画も作って、自分もテレビで面白いことして、新聞に連載を書いて。なんと忙しい暮らしをしてるんだ。新聞連載の「ありふれた生活」の内容と同じ 生活はしているようで、町内会の役員として 募金集めに近所を回ったり、犬を散歩に連れて行ったりする様子も紹介されてた。
最後に 「プロフェッショナルとは?」という質問に「要求に応えること」と言ってた。自分じゃなく 相手を満足させないといけないんだ。どんな仕事もそうだよなぁ。


11月3日の姶良図書館フェスティバルでは 雑誌の無料配布をしていた。図書館在庫の古くなった雑誌が一人5冊まで貰える。単行本も同じように5冊もらえるけど これは図書館放出のではないようだ。個人が持ち寄ったものらしい。
わたしも サライを 5冊 いただいてきた
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この サライ 名瀬で営業してた店で、ずっと取ってて、店内に備えてた。隔週発行の雑誌で、時事的な記事はなく、ちょっと 高級な趣味人の雑誌という感じなので 数年間分、店内に揃えて置いてた。お客様に読んでもらう為の物だけど、もちろん私が好んでる雑誌だ。読むようになったきっかけは、宮沢賢治の特集号を見つけ、読んでみたら、何ページにもわたって、賢治を詳しく細微まで 写真もふんだんに使って紹介している。気に入って次の号まで 購入したところへ、東京から島を取材に来てた出版者の人3名が、来店し「今 業界で話題になってる雑誌だ」と教えてくれた。鹿児島へ移った後も しばらく購読し続けていたけど、ここしばらくは、図書館で立ち読み程度にしか見てなかった。5冊。読み応えがありそう。
金沢にあった 有名コーヒー店 モナミの 鞍信一氏が「喫茶店とは味わい 憩い 学ぶ場所」と言ってたことを念頭においてたので、店の雑誌は、ためになりそう と思うものを、数も多めにおいていた。単行本も置いたが、読書するお客は 大体 自分で持ってきた本を読む。写真集とか 写真を多く使ってる本などが読まれてた。
女性客が多いので ファッション誌もおいてたが、クロワッサンや日経woman,など 自分の生活を豊かにす出来る本を択んだ。他には 月刊太陽 日経トレンディー アエラ、一枚の絵など。全く私の趣味で陸u上競技マガジン,
スイングジャーナル。もちろんコーヒーの本も。  

小林香織「変わらぬ想い」

新聞広告に小林香織が出ていた。梅酒の広告。その記事中の彼女のプロフィルの欄、
{youtubeにアップされた動画「Nothing's gonna change my love for you」が世界中で、420万回のアクセス]
と 書いてある。私も聞きほれたこの演奏。以前(09年11月)ここで紹介したときは 199万回 2年前だった。その後もずっと視聴され続けて、ファンが増えているんだ。私のように何十回も見た人も多いだろう。やはり アジアでより多くの人たちに支持されてるらしい。
2年の間に 女子高生サックスプレーヤーが登場し ロンカーターとのセッションなどで、メディアに注目されている。前は 小林香織と 矢野沙織とを、比較した文を載せた。新しく登場した 寺久保エレナは、バリバリのハードバップ。体を振ってエネルギッシュに演奏する。ルータバキンを 思い出した。軽快さと繊細さの小林、オーソドックスに、ときには リリカルにプレイする矢野、二人とはタイプがちょっと違うような寺久保は アメリカで人気のようだ。
私は最近 矢野沙織をよく聞いている。ウォーキングを音楽を聴きながらやるようになり たまたま プレーヤーに矢野沙織のCD2枚分が入ってるからなんだけど、安心して聞ける。彼女も10代でデビューした頃は 音に重みが足りないように感じたが、今は しっかり、しっとり 聞かせてくれている。
ただ youtubeで聞くことが出来る演奏だと 小林の この 演奏が最も惹き付けてくれる。今4528777回のアクセス数だ。

         

山田勇基君 九州一周駅伝で活躍

九州一周駅伝がグランツール九州と、名を変えて開催中。今日は 鹿児島市から都城まで。
昨年まではまさしく 長崎から熊本 鹿児島 大分 北九州 福岡まで 九州をほぼ一周するコースだったが、今年からは、途切れる区間が出ている。昨日は八代から川内まで。今日が鹿児島スタートだから、市来串木野 日置は通らない。明日も都城じゃなくて 宮崎がスタート。10日間だったのが8日間になり、区間数もかなり減った。去年までは、かなり負担が大きかったのだろう。
鹿児島からの第一中継所は、変わらず 重富中前。今年も行った。例年中学生は授業中だから、体育の授業の生徒が たまに沿道に出て応援してるが 今年は休日。部活の生徒が 練習を中断して、出てきて 賑やか。
17。4キロを走って トップで来たのは 福岡の中野良平。鹿児島出身で、ここ数年 ずっとこの区間を走っている。区間賞は始めてかも、しかも区間新だった。走った後は女子中学生に囲まれ記念写真、人気者だ。2位で来たのが鹿児島の久保山で 大歓声。姶良地区出身の厚地も長崎から 出て走ったが こちらは不調だったのか、8位。累計3位の長崎 今日は5位と振るわず。逆に累計4位の鹿児島が 勢いで 3位と健闘。鹿児島チームこのまま好調を保って頑張って欲しい。
その 鹿児島チームで 与論にいる友人の息子が奮闘している。昨日は第2区を走って区間3位。旭化成 九電工 三菱重工長崎 といった 実業団のトップレベルの選手と競って3位。すごい!今日の西日本新聞には、写真と健闘を讃える記事が載ってた。彼、山田勇基君が 幼稚園にもまだ入ってなかったときに会ったきりだが、メンバーを紹介したページの写真を見ると お父さんそっくり。名瀬の私の店に来たときは、ふざけてしまって お父さんに叱られてたが、こんな すごいランナーになってたんだ。もちろんお父さんも長距離走は得意だった。一緒に駅伝にでたり、沖永良部のジョギング大会には二人で参加した。あんな熱い与論で きつい思いをして走る人なんてそういないから、私も選手だったわけで、山田も好きだからやってて すぐれた能力を持ってたわけじゃない、そう思ってた。でも 遺伝子を引き継いだ息子の能力がすぐれてるのは確か。親父もほんとは! もっと真面目に練習すればよかったのに。今は 夢を息子に託して、サポートに専念してるんだろう。私も もちろん応援するよ。3日後の全日本大学駅伝も楽しみだ。
九州一周の方は まだ 川翔太君がいる。名瀬で陸上仲間だったお母さんが、大会で走る前でも 抱っこしてあやしてた男の子だ。彼も 3日目 5区で 区間4位。去年よりも確実に力がついている。和泊の武田も健在 こちらも 見逃せない。駅伝シーズン 今年も楽しみ。

大阪の橋下知事が、自分の目指す 改革のために、知事を辞め 市長選に出馬するという。改革とは、行政の組織の改革と、 もう一つ 野心が見え見えの 教育改革。保守へ導こうとする改革のようだ。教員の能力による選別効率のよい学校運営 など 学校の保護者には、賛同を得やすい提案だが、どうも自分の保守思想に沿った教育の場に変えようというのが目的に思われてならない。本人も 改革には独裁が必要というようなことを 言ったらしい。それがいい結果になるかどうかわからないが、違う意見も尊重する という 民主主義のルールからいうと、対抗する意見を排除しようというやり方には問題があるんじゃないか。
父兄を 学校運営に参加させる仕組みを作るらしいが、それを検討するメンバーは校長が指名する。校長の意見に賛同する人だけを指名できる。教育委員会の顔色ばかり気にしてる管理者がいるように、校長が教育委員会の支持に従順な人なら 地区の長の意志がそのまま現場で唯一のものとして、実践される。違う意見は初めからなかったことにされかねない。議会が首長の意を組んだ教育長の任命を拒否してくれたら、この事態は、猶予されるのだが。
保護者の間で、子供のためにと思う気持ちは同じでも、その 方法にはそれぞれ考えを持っている。各家庭で、個々で状況は違うのだから。その中で よりよい というものを総意として 選択しなければならない。有力者の意見が優先されるべきではない。
娘の中学の日曜参観で個々の違いが顕著に聞き取れた。部活でがんばっていること 礼儀正しくなったことを評価する者。勉強に影響しないように部活の終了時間を早くすべきと主張する者。担任教師が、子供達に送る標語を求めたところ、「努力」「忍耐」「勉励」もあれば 「青春」「のびのびと」という言葉もある。数ヵ月後 教室を訪れたとき この 父兄が中学生に贈った言葉のいくつかが 貼り出されていた。 当然?私の書いた「長いものに、まかれるな」というのは なかった。



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