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睡眠時間が不規則になっている。規則正しいのかもしれない。夜、眠くてたまらない日と 眠れない日とが交互にある。一昨日は11時前に、思考が停止して何も出来ないほどの眠気に襲われ、布団にもぐると同時に寝入っていた。昨日は 全く眠くならず、3時までパソコンに向かい、その後床についても、眠れず、5時半までは 時計で確認して憶えているので、寝れたのは おそらく6時前だったのだろう。さすがに今朝はちょっと寝坊したけど。そして今夜は眠い。炬燵に下半身を突っ込んでテレビを見ながら、寝てしまった。8時半頃だったと思う。目が覚めたのは、11時半。今もまだ眠い。一日が48時間になったみたい。48時間ごとに就寝して、昨日の睡眠は昼寝のようなもの、朝だけど。 ここしばらく こんな状況が続いてしまってる。
長寿日本一だった 本郷かまとさんが、2日起きて2日寝ると言う生活をしていて、その慣習は医師の研究対象になっていた。やはり 珍しい事だったのだ。寝ながらも 黒砂糖を食べたり、お茶を飲んでいる様子をテレビで見て 驚いた。寝続けていても、生きてるから、食事は必要らしい。あのひと100何歳だったかな115歳位だったか。もし 一日が48時間だったら、まだ 58歳くらいと言うことなんだが。
わたしは まだ あの人の年齢の半分以下。年のせいでは決してあるまい。睡眠時間は2日間で12時間位。少し短い程度か。やはり不摂生だ。健康によいとは思えない。たぶん ずっと夜更かしの習慣での疲労が、耐えられない程に貯まってしまっているんだろう。毎日十分な睡眠が必要な事は重々承知しているが、生活圏に刺激が多くて、つい。
反省しながらもまだ眠いのを我慢して、パソコンに向かっている。おとといは、途中で中断して、翌朝残りをかいたが 明日は早朝から焙煎の予定で、今夜で終わらせなければと続けているが、この後何を書こうとしているのか自分でも頭が回らなくなった。やっぱり もう寝ます。何か書こうとしてたこと思い出したら、あす また 続けます。

「夢であえたら」なんてロマンティックな期待を持ってた時代もあったなぁ そのころ聞いてたのは シリアポールと吉田美奈子 

          
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「今宵の一枚」から5曲

ブログ「今宵の一枚」は、このところ連日 私のお気に入りの曲が続いている。まず 私がよく似ていると言われてた(はるか昔の事だけど)ジョージハリスン「マイ スイート ロード」あのイントロが聞こえてくるだけで、わくわくする。「二人のアイラブユー」の盗作だと訴えられ、敗訴したけど、やっぱり 「マイ スイート ロード」はジョージハリソン。ビートルズ時代の「ヒヤ カム ザ サン」「サムシング」そしてこの「マイ スイート ロード」が彼の代表作と言っていいのでは 個人的には73年の バングラディシュ難民救済コンサートで歌った「バングラディシュ」も印象に残っている。
私も30年前はこんな風だった。 george.jpg


次に 先日訪ねて行った川口君 お気に入り南沙織の「早春の港」。愛くるしい歌声なんだが、魅力に感じるのは低音部の安定感。けっこう声帯域は広いのかも。このブログには他に「春の予感」「潮風のメロディー」いずれもしっとり歌うバラード風。「17歳」や「純潔」など リズミカルな曲は、いかにもアイドル歌謡だが、こういうしっかり歌い上げるメローな曲は今でも安心して聞ける。

キャロルキングの「君の友達については以前書いたことがあるけど、このブログで見たのではなかったのだろうか。アメリカのミドル世代の人たちにとっては若きよき日々に心に刻み込んだ歌。キャロルキングがピアノの弾き語りをしながら、顔を客席に向け 目で 「一緒に歌おう」と促す。観客が歌いだす。会場一体となって。青春を思い出したか 涙を流す婦人がいる。歌い終わるとそうしないといられないと言う具合に スタンディングオベーションで拍手。感動物


エルトンジョン「ユア ソング」最初のヒット曲がこの歌らしい。よく知られている歌。私は「イエス イッツ ミー」というきょくのレコードを持っているが これは 余り知られえていない。高校時代 ラジオで聞いてて、気に入ったんだろう。その頃 エルトンジョンが 世界的な有名シンガーとは知らなかった。イギリスの故ダイアナ妃が気に入ってて、葬儀のとき歌ったのは、世界中の人が知ってるだろう。

「パリの空の下」、沢山の歌手が歌ってる、シャンソンの超有名スタンダード。ここではジュリエットグレコが歌っている。映画「パリの空の下セーヌは流れる」は見たのかまだ見てないのかわからない。でもアコーデオンが奏でるこのメロディーを聞くと、確かに映画の中に出てくる、セーヌ河とパリの下町のような風景が浮んでくるのだ。シャンソン歌手と言えば ミレイユマチューと ジルベール べコーが好きだ。彼等もこの歌を歌ってる。かれらの歌はもちろん好きだが、ここで紹介された ジュリエットグレコもパリの詩人を連想させる語り口がとても素敵だ。


足りてないを知る

ひさし振りに、両親の墓参りをしたのは23日。墓地は賑わっていた。葬儀屋の従業員が宣伝活動していた。朝 兄に「今日は墓参りをする日だから、行って来て」と言われてきたのだが、その日は旧正月だった。そういえば旧暦の月初めと中日に、墓参りするのが、島の週間だった。
母がなくなってすぐ、墓地の奥の方に球体の墓を設けたのだが、道路から 坂を100メートル余り 上っていかねばならず、老齢の父が、難儀になったため、道路側にある、母方の祖父母や兄弟が納められている墓の隣を借りて、作り直した。墓石の形は球体では隣と アンバランスなので 普通に。母の俳句を彫った碑だけはそのまま移している。碑に書いてあるのは
「足るを知る、幸せにあり 年の暮れ」
「足るを知る」という言葉を、よく思いついたなと思ってたら、あちらこちらで 目に付くようになった。老子の言葉なんだ。
母は晩年 俳句に没頭していた。鉛筆を手に、チラシの裏を前に、空中に目の焦点を浮遊させ、ぼーっと している姿は 端か見てると滑稽でしかない。名瀬の句会 愛媛松山の同人に参加し、NHKの俳句番組にも投稿していたから、毎日 そんな風に句作の為に思索していた。生活の中の全てが句の題材で、事あるごとに 作句を試していたに違いない。
母の没後 姉がそんな俳句を 一冊の句集にまとめた。母といちばん仲のよかった、毎晩電話で歓談してた姉の執念のようにも思えるものだ。
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何冊作ったかは憶えてないが、俳句仲間や 親戚に配り、残りを 本屋においてもらった。売れたのはほとんどなかっただろう。2年後 鹿児島の古本屋で、100円で売られているのを見つけた。
表紙や、中の区切りに 昨日紹介した 山下弘さんの 写真を提供してもらい、載せた。この写真は当然すごく評判がよかった。
私は、ところどころ 目を通しているだけで まだ 全部は読んでないはず。たまに 手に取り、数ページ目に通すだけだから。明らかに私の ことを書いた句もある。
「マラソンの わが子 風に真向かいて」マラソンは 駅伝だったはずなのだが、いつの間にかマラソンに変わっている。
「三代の 福耳そろう 福寿草」父と私は 耳たぶがおおきく脹らんだいわゆる福耳という形状、私の娘も同じみみの形を持って生まれてきた。実家の工場の階上にある アパートの名は福寿荘」。いまは 壁面に書かれていたその名が 薄れて 判明せず。かわもとアパートに変わってしまった。
「福耳と 回し抱かるる 夏座敷」は、その娘の事。ほかに 気に入ってるのは
「大いびき 背に腹だたし 熱帯夜」、隣で寝ている父のいびきは 寝苦しい熱帯夜に耳障りでしょうがなかっただろう。私も いびきで 夜は一人隔離されている。
句集の題は「置手紙」、最後のページ 最後から2番目にある
「年の瀬や 玄関先の 置手紙」から取っている。なんの手紙かはわからないけど、しみじみと何かもの思わせる挨拶状みたいなものだったのだろう。最後にある句が 先の 「足るを知る」だ。
母がほんとに 年の暮れに 幸せを感じていたかどうか 本人に聞いてないが、私達 子供が まだ 学生の頃は花屋を営んで、年末は大忙し、大晦日も よる 遅くまで働き 正月準備は元旦に始めてた、あの頃に比べたら、ゆっくりできる晩年は ふと「幸せかな」と感じたのかもい知れない。こどもの私はずっと 心配をかけていた。不幸を感じたとしたらそれだけだったかも。私は 幸せに感じる年の暮れが最近はやってこない、足るかどうか考えたら 何か足らない。耳たぶも 小さくなったような気がする。

幸せな中学生の時 聞いてた歌


ギャラリーわだつみ館

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開館時間 10:00~17:00
休館日 木曜日
●館内では珈琲を飲むことが出来ます。

〒894-1116
奄美市住用町摺勝555-13
電話・FAX0997-69-5331

山下弘さんのギャラりー わだつみ館は、住用摺勝の国道沿い、内海に面している。館内の喫茶コーナーのカウンター前面は ガラス張りで、喫茶を楽しみながら、内海の穏やかな綺麗な風景を目にする事が出来る。ここも一昨年の豪雨では1メートほどの冠水があり 館内泥だらけになってしまったそうだ。しかし 以前来たときと同様に整然と、落ち着き 清潔な館内に戻っている。
喫茶を担当している奥様に 「コーヒーの淹れ方を教えてくれないか」と、以前山下さんから言われていたので、今回 寄ってみたのだが、コーヒーのことなど忘れて、展示されている野生植物の写真や、実施に栽培されている奄美固有の植物に 目を奪われ、山下さんの今の活動などを詳しく聞かせてもらった。山下さんの出された 2冊の本は所持しているが、最近山下さんが発見した新種の植物など、簡単には見れない貴重な植物がここで見る事が出来る。わだつみの木、羊歯 コケなどだが、他の同種の植物と 一見何ら違いは無い。これを見て 「違う」と気づく事が、神がかりに思える。ずっと見続ける忍耐と、細部にまで精通した知識を持って、初めて成せることだろう。野生の蘭の写真を山深く入って、ほとんど一日がかりで1枚 ピンホール撮影のように撮ってることを 聞いたとき、並々ならぬ野生植物への愛着を真に感じたものだが、他の奄美の固有種にも同じように目をむけ、その大切さを訴え、絶滅危惧種の存在をも 本に記して 広く知らしめ、その保護を、奄美の自然を守る大切さを訴えている。
今も 各地 各方面から、自然環境や植物に関する研究者や、報道 写真家 文筆家などが 山下さんを訪ね、意見を あるいは アドバイス聞いていると言。また エコツアーや 奄美の原生林に、興味を持った人たちのガイドを業として行う活動をしている。3時間 たっぷり話を聞けた。「奄美自生植物開花カレンダー」という山下さんが作成した、写真を満載した パネルをいただいた。1月から12月まで 奄美では必ずどれかの花が咲いているんだ。今ならリュウキュウスミレ コゴメキノエラン 珍しい名前でコショウノキなど もうすぐ咲くのが ヒメキランソウ キヌラン ポロポロノキなど。奄美で山に行く機会がある人、よく目を凝らして、探してみてください。わかってると思うけど、決して採らないで、目に焼き付けてください。そう簡単には見つからないだろうけど。
コーヒーのほうは 十分 美味しくて、そのままで結構でした。ミルの稼動域を広くする調節をしただけでした。
ギャラリー内の美しい植物写真を見て、素敵な住用の景観を楽しみながら、美味しいコーヒーを味わい、タイミングがよければ山下さんの話が聞ける。濃密な時間が過ごせる場所です。行ってみてください。

昨晩。と言っても日付は今日に変わって、しばらくの 1時頃だけど、風呂上りに紅茶を飲みながら、「今日は 朝まで生テレビ がある日だ」と思い、テレビをつけてみたら、割と若い人たちが 討論している。NHKだった。テレ朝の方は 橋下徹と彼を批判する または 彼に批判された 人たちとの討論 と言うより口論みたい。
橋下のふてぶてしさが目立つのだが、視聴者は 多数を相手に受けている橋下を応援したくなりそうな雰囲気。若者達の方が、理路整然と意見を述べている。感情的に激しい言葉の応酬になりかかると、司会者が「田原さんの番組みたいになりかかってますので」と釘を刺す。こちらだと 誰かの存在を不愉快に感じる事はまず無い。
出演者は70年代に生まれた人達が中心。80年初めの人が2人。年齢で30代から40代前半。大学の研究者、IT企業の経営者 クリエーター フリーライターなど、若くとも立派に論客と言える人たち。論題は「格差」。世代間の格差もあるが、同じ世代間でも経済格差がより広がっている。是正に積極的な意見も、格差の存在を肯定する意見も そんなのどうでもいい と言う意見もある。総じて、政治の無策に行き着くが、そもそも 国に、意政治に救いを求めるのが間違っている という意見、大きな社会制度の問題だから 国にしか出来ないという意見。私の20年前が 「国に頼って生きるつもりなんか 全く無い」と言う意見だったから、前者に同感だが、国に邪魔される と言う意見に賛同もすると、やはり 国よ 政治よ 頼むからしっかりやってくれ と言いたくなる。「日本は 増税などで収益が上がれば それだけ格差が広がる おかしな国」という意見の側で 「バカな国だよ」という言葉が出た。彼等はバブル崩壊後の、政治の怠慢で、自分達の世代の困難が生じていると不満を持つ。それを解消して、次の新しい社会を作るのは自分達の世代だ という 覚悟も持っている。彼等の世代が政治の中心になれば行き詰まりから 脱却できるのかもしれないが、若い世代が政治に無関心の間は、難しい。無関心でなく 政治に失望しているのが実情ともいえる。
ただ 誰も悪意があってそうしたのではない事も 皆承知。非正規雇用の増加も経営を安定させ、おおくの雇用を確保しようとしてなした事だが、結果が、社会的弱者の増加をもたらしている。善行に向かって進んでいたのに結果は最悪になってしまう。昔の経済学者(ケインズだったかな)が、指摘していたらしい。
問題は政治家の意識で、選挙有利な特定世代やグループ中心の方策を廃して、公平な富の配分 行政サービスの施策に真剣に取り組んでもらいたい。そういう政治化を択ぶ選挙民 主権者としての義務を持つ国民に 結局その責任は掛かってくる。
私より20歳ほど若い、次のリーダーになり 老齢に至った私達を救ってくれるであろうこの者達の 熱い討論に、仕切り感心し、頼もしく思い、安堵感を持った夜更けのひとときだった。

三浦一広君の語りに 教えられた

奄美市役所で三浦一広に会えたのはラッキーだった。彼と机を並べて仕事をしている同窓生のTを訪ねたところ、出張中とのこと。「三浦はいないですよね」と、室の入り口近くにいた女性職員に尋ねたところ、奥のほうから「はい!」と声がした。三浦はほとんど外で活動していると聞いていたので、たぶん今日も庁舎内にはいないだろうと思っていたので、思いがけずに会う事が出来た。市の青少年支援課職員として、市内の少年少女、その保護者達の相談に乗り、夕方は奄美合気拳同乗の師範として、武道を教え、その後は 支援センターゆずりはの郷、その中の 子どもの家 の所長として、子供達と向き合い、両親を支援し、少年事件があると昼夜かまわず駆けつける。一日中走り回っていて、ゆっくり椅子に座ってデスクワークをしている様子など想像してなかった。彼への相談は 奄美だけでなく 全国から寄せられる。これまでに、テレビでも、雑誌PHPでも紹介されているし、内閣府の機関紙で、各地の行政機関にも知られている。彼のパソコンには、沢山の 国内各地から届いたメールが並んでいた。それらの切実な訴えに 返事も彼が送っている。今回もう一つ、彼の保護司としての仕事も、なかなか難しいものだということを知った。こちらは大人が対象。刑務所内からも手紙が届いている。素直な手紙ばかりではない。脅迫めいたものもある。
「少年達と暴力団とのつながりを断ち切ったぞ」彼が最初に話し始めたのは、嬉しそうに弾んだこの言葉だった。
彼が 組長と信頼関係が築けたおかげで、ほとんどの組員をこの組長の意思で脱退させたそうだ。
しかし こういう成果に対して、反発する輩も当然いて、先の服役者のような 脅迫 言い掛かりは、何通も贈られてくる。最近は暴力団からの申し立てを鵜呑みにした、弁護士と 人権擁護委員会からの抗議を受けたが きちんと反論の回答を送った。すると 警察へ抗議して三浦の行為をあくまで糾弾しようとする。もともとの暴力団関係者の訴えが単に 嫌がらせ目的にながした 根も葉もない内容だから、三浦は毅然としている。
嘗ては、無理解な市民がいて、義理の妹を車に乗せていたら、彼の奥様にそれをわざわざ電話で知らせ、「教育者みたいな事言ってるのに、若い子と楽しそうにして 何ですか」と言ってきた婦人がいた。また 酒場にいると 「寄付してもらった金で 酒飲んでるんじゃないか」と、つっかかって来る者もいた。今は 彼の善行は町の人みんな知っているから、彼を批難する声は無いが、利害を気にして、対抗するものはいるようだ。
彼の自慢は、彼が関わって更正できた 元少年達のこと。今は 警護隊として、非行に走ろうとする子供達を救っている。自らの経験をきちんと伝えて、少年少女 その親にアドバイスをする事が出来る。
「奄美に 全国の 問題を抱えた子供達を集めて ここで、自然に触れ合いながら 更正できる そんな施設を作るのが夢」と言っている。単に夢のままにしているのではなく、既に 行動し 訴えて 賛同者を集めている。必ず実現させようという 強い意志を感じられる。
彼は どんな少年でも 少女でも 今 問題を抱えていても、きっと大人がきちんと向き合えば、立ち直れる。夢と同様、決して諦めない。この意志を持つ事を 見習おう と思った 彼 三浦一広との 深い 小一時間だった。

悲しみは尽きない

「星の王子様」川口君の実家、川口陶器店は丁度開店したところらしく、家業を引き継いだ弟の博和君は店頭で、作業中。背後から声をかけると振り返り、一瞬間をおいて「正樹さん?」と 返答があった。二人の会話が始まると同時に奥からお母さんが出てきて、「ありがとうございました」と言葉を発したときにはもう 目に涙をため、声も嗚咽に変わっていた。博和君に促され自宅の仏間に上がり、仏壇に手を合わせた。川口のつい最近の写真らしい、口元に笑みを浮かべた写真と、同時に葬儀をする羽目になってしまった弟さんの これもなんと優しそうな、それでいて きりっと引き締まった凛々しい顔の写真が、両サイドに並べられえいる。側のテーブルに新聞が開かれて置いてある。自然保護などに関する記事を。川口に見えるようにと、仏壇に向けておいているそうだ。二人のことを語り始めたお母さんは、何度も何度も目頭を押さえた。おそらく既にたくさんの人が訪ねてきて、もうなんども二人の息子の事を話したであろうが、まだまだ語り足りない、尽くせてないのだろう。自慢の息子達だ、失った悲しさ 悔しさは、いくら言葉で発しても、和らぐ事は無いだろう。葬儀の時、または その後、たくさんの彼を信望する人達の言葉で、新たな事がわかり さらに息子達の人徳を知り、失った大きさを認識せざるえなかったのだろう。川口の奄美での活動は我々 友人 知人だけでなく 広く一般にも知られ 評価もされている。島外からも、奄美の自然環境に関し、大きな貢献をしたことを賞賛する声が伝わってきた。実際 中央の要人が彼の墓を訪ねてきたこともあった。弟さんも 東京の勤務先で、立派な大きな功績を残した事が、その社長が葬儀に訪れ子供達や 遺族にかけたことばから知る事が出来た。お母さんの誇りの息子達は、短かった人生の中でも社会で大きな役割を果たしたと、言っていい。
7月 私の娘の葬儀に 悪天候の中、駆けつけてくれた。その時の川口は、娘の死を「もったいない」と悔やみながら 「正樹が心配」と気遣ってくれてたそうだ。本当にありがたい。これまで たくさんのことを彼に相談してきた。彼に助けられた。いつも心配かけてた、申し訳ない。一番のかけがえの無い友を、私も失ったのだ。彼に私がしてあげた事は何も無い。すまないと思う。悔やまれる。
お母さんと1時間あまり語った。優しい母親思いの息子達を思い 悔しさと悲しさに耐える日が ずっと続くだろう。彼の大事なお母さんを少しでも 助けてあげられればと思う。島に帰ったときは、必ずお母さんに会いに行こう。私の拙い言葉で励ます事は出来ないが、一緒に彼の思い出を語り合って、思いを共有できる時間が持てればと思う。

鹿児島は寒い! 奄美に比べればだが。鹿児島県内でも雪が降った箇所が 結構あるようだ。姶良は夕方 みぞれ混じりの雨が降ったが 雪は確認できてない。
奄美にいた2日間は雨だった。予想外に寒かった。鹿児島を発つ土曜日 鹿児島は好天気 温かかった。奄美の方が寒いんじゃないかと思った。しかし 実際には名瀬市街地は自転車で少々雨に濡れながら回ったし、父の田舎の中勝へも強風の中、単車で出かけ、家では暖房無しで、夜も畳に直に薄い布団2枚だけかけて寝れたので、さむくはなかったのだ 予想外に、温かくなかったということだ。
今 姶良はー1度と パソコンで表示されている。足下が冷えて 靴の中で足先が痛い。おまけに 船での寝不足のせいか 眠い。さっきから首が前後にふらつき、目は瞬きばかりしている。そして
ここに何を書こうとしているのかわからなくなってきている。そうか
「今夜は 寒くて 眠くて!きのう言った 奄美での事を書くのは 困難。明日からにさせてください」と伝えようとしてたのだ。という事で すみません もう 眠らせていただきます 悪しからず。

バードランドの子守唄


鹿児島への帰路

行きと同じ船に乗り、かえってきました。行きと違い 今度は大時化の中。昨夜9時半に名瀬港を出ると すぐ船が前後に大揺れ。船長からの挨拶の中で「会場は10?mの向かい風」と聞いて、揺れと同時に 鹿児島入港時間の遅れを覚悟した。とにかく寝ておくしかない。立ち上がると転びそう。まっすぐ歩けない。ふらつきながら柱にしがみつきながら、やっとトイレヘ行けた。
10時過ぎには 寝れたので、船酔いすることなく、後は楽だったが、3時半に目が覚めてしまい、その後寝れず、退屈。ロビーに出て テレビを見たが、やはり揺れで、気分が悪くなりそう、しばらくして船室に戻り、寝っ転がり、また 退屈でロビーに出て と 繰り返し3回。やっと6時頃 寝たのだが、船は遅れることなく 鹿児島に着く様で、入港1時間前の7時半に放送があり、室内点灯され、船客がおきだして賑やかに。1時間以上遅れると 予想して、あと一眠りの目論見が外れた。
10時に姶良にどり、早速 受けてた注文分の発送と 午後からは配達。
夜はさすがに眠くて 多分9時ごろだろう 炬燵に半身突っ込んで寝てしまった。先ほど起きたが、与論や東京からメールが来てたのにもう既にこんな時間 返信できず。
名瀬で「星の王子様」のお母さんと語らった事や、あのDSC00557_convert_20111128014358.jpg の三浦一広と歓談 植物写真家で得意先でもある山下弘さんのアトリエ「わだつみ館」を尋ねた事など 伝えたい事は山ほど。明日からでも順次書いていきます。
今日はこれで 旅の疲れを言い訳にして 就寝。

奄美へ

ちょこっと 奄美に帰ります。先週、港で「帰ろかな」と思ったら、帰る機会が早くもやってきました。
船は あの時と違って、マリックスラインの クインコーラル8 就航している4隻の中では一番小さいけど 乗客も少ないと思うから 大丈夫。天気も良好 海上は凪ぎ 快適な船旅になるだろう。星の王子様に手を合わせてきます。娘たちの分も。では 行ってきます。

クインコーラル8 queen-8.jpg


2012012016290000.jpg買い物?見てるだけ。


今日も娘が鹿児島市内への配達に付いてきた。配達と消耗品の購入と 私の用事が済んだ後、娘の希望で、ダイエーへ、「姶良にはない店だから どんな商品があるか行ってみたい」ということで。最近よくスーパーに行く。肉類を値段をじっくり比較しながら籠に入れてる様子は、いっぱしの大人なんだが。火曜日もそうだった。その日は繁華街天文館を歩いた。「AKBの柏木由紀ちゃんはここでスカウトされたんだって」もしかしたら今日もどっかで見てないか と 周囲を見回したが それらしき者は見当たらない。娘も可愛さという点では、すれ違った人がその言葉を発することがあるから、ちょっとは注目されるかも。ただ皆 中学生位にしか思ってないだろう、来月18になる娘にはとても見えない。もし13,14の少女を探してるスカウトマンなら 注目するかもしれないが、大人に近い年齢の女性を探してたら、全く目にとまりはしないだろう。対人関係をうまく出来ずに悩んでいる娘、社会的な活動に参加できるにはもう少し時間が掛かりそう。最近こうしてよく外出する。以前は人に会うのを嫌っていた、場合によっては怖がっていた。学校になじめず、高校を通信制に変えたほどだが 引き籠もりにはならずよかった。今日は 私が以前店を構えていた 駅前の一番街を 歩いた。このアーケード街のようすもかなり変わったが、酒屋 時計屋、ずっとそこで営業を続けている店に 立ち寄り 久しぶりと挨拶を交わし 談笑する横で 娘もにこやかに立っている。「私にも話しかけて欲しかった」と言ってたのは、懐かしさが大きいのだろうが、積極的にひととのかかわりを持とうとする、内心の回復の徴だ。嬉しい事だ。

一昨日お「合い大作戦」という テレビ番組あり。以前にも企画され、放送されたものが復活。場所は沖永良部。以前見たのと同じ場所。17年くらい前だったと思う。その時カップルになった中で、結婚式を挙げたものもいたが、未だに嫁不足は解消されていないのか。テレビでは盛り上がったけど、たった数組の成功では 状況が変わるわけもないか。あくまでもテレビの企画として取り上げたもの。逆に番組の為に 「嫁不足」を、強調してはいないか。参加した島の男は 二十数名だったかな?島に男はこの百倍はいる。20代も5,6名いたが、年齢が高いものが多かった、そういう結婚に縁のなかった連中を、探し出してきたのではと、勘繰ってしまった。
58歳の男性が、52歳の女性とうまく気持ちが通じてカップリング成功。驚いたが、ほっとした。番組内でも喚声が上がった。ほっとしたのは 私も 彼の年齢になるのに そお、遠くはない。「良し 大丈夫だ まだいける」なんて 変に自信を持った 年取ろうが、やっぱりいつでも もてていたいんだ。
私の驚きは別の面で。相手の52歳の女性が 感極まって泣き出した事。たぶん 初めからこの58歳の男性をターゲットにして参加したんだろう。男性の気持ちがふらふらする中、信じてじっと待ってる彼女を応援しながら見ていた。駄目でも仕様がないような態度を見せていたが、やっぱり真剣だった。告白を受けるときは緊張に耐えていたんだ。高齢になっても人を好きになれる。異性の為に胸が締め付けられる思いを経験できる。幸せな事だ。
ラジオのテレフォン人生相談で、60歳を過ぎて、若い男性に心が動き 惹かれて 悩ましい日々を送っている、この気持ちを どうやって鎮めたらいいか。という質問を 2回聞いた。仕事に没頭して過ごしてきたが 退職して心に隙間を感じたときに出会った 好青年の事が 好きで好きでたまらない。もう一件は、寂しい家庭環境で、過ごし年齢的に弱者になってから、勤め先で 親切にしてくれる若い同僚に恋愛感情を持ってしまった。男ならちょっと浮気心を持ったと考えていいが、女性は真剣だ。ただ 結ばれる事は無い というのは十分わかっている。回答者からは 「いずれ分かれなければならない事の覚悟が出来ているのなら 今は 心に素直に、楽しみなさい」
「いくつになっても男と女」という映画があった。ちょっとエロティックなコメディーだったけど、大好きだ。40代 50代でも 素敵な人はいっぱいいる。映画は60代後半の設定だったけど。ただ ほとんど結婚しているから、誰でも 対象にしては失礼な事になるが、綺麗な人 素敵な人に出会えば、「いいなぁ 好きだなぁ」と 思う感覚は持ち続けたほうがいいと思う。いつまでもそんな事考えるのは男だけか、よ思ってたのが女性でも 同じ感情をいつまでも持っていることがわかって、まだまだ人生楽しい と 感じる。私には関係ないかもしれないけど。

番組で一番人気の弟が 見事プロポーズ成功 大山百合香の歌






テレビでニュースステージョンを見てしばらく、チャンネルを変えたら タイガースの「青い鳥」を歌ってる太った叔父さんが出てる。カメラが正面に変わってその顔を映し出したら、沢田研二だった。先日 田中裕子とのカッコいい姿を紹介したばかりなのに、カメラが横から捕らえた姿は、ずんぐりしていた。隣でギターを弾き「青い鳥~あおいとり~」とコーラスしているのは 森本太郎、すると、一方のサイドでベースをたたいているのが、岸部修三 いまでは俳優 岸部一徳。そして大学教授になったはずの 瞳みのるがドラム。みな タイガースのメンバーだ。加橋かつみ以外が揃っている。こうして みな そろって歌ってる様子は、むかしのタイガースそのまま ずっと歌い続けていたタイガースがそこにいるんだ と思ってしまう。年を取ってる筈なんだけど、姿は変わってるはずなんだけど、おなじタイガースがそこにいる。彼等が活動を再開した事は 報道で知ってた。毎日聞くMBCラジオのパーソナリティ-えっちゃんはコンサートを見てきて 「素敵!」と、個人の感激を 何度も 番組で訴えていた。ファンにはいつまでも憧れのタイガースで、シビレル、ジュリー のようだ。
タイガース人気絶頂の時期は私は小学校から、中学に上がった頃。当時熱狂してたのはずっと上のお姉さん達だが、毎日 何度も テレビやラジオで 流れる 彼等の歌は子供でも、皆知ってたし 好きだった。よく 歌ってもいた。解散後 ソロになった沢田は 「危険な二人」「カサブランカダンディー」「勝手にしやがれ」など 再びおおくのヒットを飛ばしたが その頃が我々の高校時代。このときから私と同世代の女子 に 彼のファンが、大勢になったはずだ。最近は 「私のきゅうじょう」なんて自分の主張をきちんと歌っているのも私は気に入っている。今日は途中からの視聴だったので、2曲しか聞けなかった。新たなタイガースの、今の歌。期待している。昔の歌でも 今は、深い意味を含めて 歌ってくれるだろう。

実は この 「廃墟の鳩」がいちばん好き、リードボーカルは加橋かつみ。グループではトラブルの元だったようだが、

ラジオで言われた、昔は寒さに順応出来てた。

今日はとってもよい天気。昨日の雨はすっかり上がり 陽光が燦燦と庭に 道路に 車内に 街中に差し込んでいる。車内が温かく 運転中いい気持ち 油断すると眠くなりそう。昨日とほとんど変わらぬ服装でいて、寒いと感じる事はなかった。今は深夜。 昼間太陽が温めてくれた地上は熱を失い、すっかり冷めて、寒い。パソコンに表示された気温は3度。ここ数日同じ気温のようだ。
「メデオのコズエ日記」によると 「昨夜は23度」とある 16日のブログだから15日の夜 与論の気温は23度。姶良より20度高い。同じ鹿児島県なのに。私も与論にいたとき、ウインドブレーカーなら 着てたけど、ジャンバーとか コート類は着たことなかった。持ってなかった。名瀬に戻ったときは、与論の冬に慣れてしまったため、寒いと感じたが、それでも20度くらいはあったと思う。
一度だけラジオに葉書を投稿したことがある。37年前だ 福岡で浪人中 寮にいたが、入試を控えて、一月に奄美に戻り、入試が始まると鹿児島で過ごしていた。葉書は 鹿児島からNHKラジオ「午後のロータリー リクエストコーナー水曜日の係」あてに送った。名前は江守蔵之助。丁度 大河ドラマ「元禄太平記」で江守徹が大石蔵之助役をやってた。
葉書の文章は「暑いですね!」から始めた、2月の寒い時期に 突拍子もない言葉で、気を引けば読んでもらえるのではと考えた。アナウンサーの尾島勝利さんが「名瀬市の江守蔵之助さんから」というのを聞いた瞬間「やったと思った。
「暑いですね! わたくし一月ほど前 福岡から ふるさと奄美に帰ってきて 日本の冬とは思えない 異常天気に驚いてます・・・・・・日中の気温は20度近くまで上がり セーターなんぞを着ていると たちまち汗をかいてしまいます。それでも父は 寒いと言って ストーブをつけるのです こんなおかしな気候の中に 半世紀もいて 神経がおかしくなってるのでしょうか。今度 福岡に戻って、あの寒さに耐えられるかしら」 
尾島アナウンサーとパートナーの女性が大笑いしてくれた。「人間って 結構順応する能力高いから そう思うのかも知れませんね それにしても九州福岡に帰るのに」と東京で笑ってた。最後の「寒さに耐え切れるかしら」は、おととし亡くなった同窓生の智子さんが その年の年賀状に書いていた言葉を拝借した。
受検前 勉強もしないでこんな事ばかりやってた。その後 もっと寒い大阪で過ごしてたが、今思うと 福岡で過ごした冬が一番寒く感じたと思う。寮が壁の薄いプレハブ造りで、トイレは建物外 水道も外で、雪の降る中 冷たい水に耐えながら洗濯物を手洗いした事もあった。何より 気温20度の冬を過ごしてきたのが、1度2度の寒さに皮膚が対応できなかったのが一番の理由だろう。中学時、熊本である程度の寒さは経験してたけど 高校の3年間で奄美の冬に適応する体に戻ってしまっていた。

福岡での冬によく聞いてた歌はこれ  まだ荒井由実のユーミン

雨の日のひとり言 そして歌

終日雨。昨日から降り続いているが、しとしとという表現で、与論の友人に伝えた昨日に比べ、今日は本格的と言えるほどの強い雨。激しいと、形容するまでではないが、傘を差して歩いていても、足下は雨を防げず、スニーカーに水が染み込んでくる。配達でも いつもは玄関口で受取してるのに 今日は 玄関の中まで入れてもらって、玄関戸をしばらくでも閉めていた。いつも行く墓地には大きな水溜り。舞の墓の前の地面も足を踏み入れたら、靴底が貯まった水に浸ってしまう。墓石の台の上から降りられず、傘を手放せず、線香を入れた箱は濡らしてしまいながら、花の水をかえ 線香に火をつけ 一通りの作業をこなしたが、頭半分は雨に打たれ冷たい。難儀な雨だ。
洗車しようと思ってた 配達の車が 雨にほこりを落としてもらい 綺麗になった事だけはよかった。
この雨 農家には明らかに恵の雨だったことを、夕方のニュースで知った。そういえば かなり久しぶりの雨だ。今年初めて。一月くらいなかった。昨日は奄美や 種子屋久地方では 強い雨で 注意報が出てた。鹿児島のこれくらいの雨は ありがたい雨と 言うべきだった。北の方では大雪。比べられぬほどの難儀をこうむっているはず。
こんな日は雨の歌でも聞いて、しっとり過ごそうか。好きな歌きいたら、しっとりなんか出来なく わくわくになるかもしれない。
    1974年サンレモ
雪の歌も


駅伝が大好きな私。テレビ放送はほとんど見てる。全国大会となれば、レース中の2時間あまり席を立つのも惜しくてずっと見続けてる。今日の都道府県対抗女子駅伝も毎年 楽しみにしていて 欠かさずレース中ずっと見ている。ただ 近年はそれほど興奮もせず、感激をブログに記す事もなくなってる。5年前の大会で 最終区の同年齢3人によるデッドヒートの優勝争いを観戦した興奮を ブログに書いたのが最後だろう。
京都が強すぎるのだ、京都ばかり優勝している、今まで何回優勝だったか。ここ7年で6回優勝、2005年から09年まで5連覇。過去にも1988年から92年まで5連覇があった。解説の有森裕子が「京都のための大会じゃないか」と、言ってた。今回も アンカーに襷が渡った時点で、また京都の優勝だろうと思った。ところが、明らかに力の差が違って、トップを抜き去ってしまうだろうと思ってた京都の西原が不調。結局 大阪の優勝。3区で、トップに出た中学生の快走が勢いをつけ、あとの高校生達もその波に乗っかって 快走した。
鹿児島は18位。中盤までは9位と 健闘したが、一般実業団選手不在のチーム。最後はアンカーで有力選手達に抜かれて順位を落とした。実業団のトップチーム京セラが国分にあった頃は強かった。チームが出来たすぐの第3回大会で3位 翌4回大会では、ソウルオリンピックに出た荒木や、田崎 日高といった京セラ勢に、鹿児島のアイドルランナー田中光子、後に京セラ勢のライバルになる 鹿児島南高の里山らで、優勝を果たした。その後も2位、3位と上位の成績を続けていた。荒木らが引退しても、次の 永山郁美や小林 山下佐知子現第一生命監督も鹿児島チームで快走を見せていた。京セラが京都に移ってからは入賞は果たせなくなってるが、高校生中心のチームで10位11位の好成績を残している。前回ブログに書いた大会では 、ベテランになった永山郁美が最終区で、区間3位になった事にも感動している。個人ででも、ふるさとの選手が活躍すれば、そちらにシフトした興味で、おおいに楽しめる。今日のレースに2人奄美の人がいた。彼女等の出走中は、テレビ画面に出てこなくても、どういう様子か気になり、わくわくしながら見ることが出来た。結果が見えてた優勝争いより、ずっと楽しめた。

神様お願い

国分へ配達。ついでに霧島神宮まで足を伸ばした。
正月から「行ってみようか」と 思ってたのだが、「少し遠いかな」と感じて、行きだせないでいた。、もっと近い距離の「鹿児島神宮で済ませようか」とも考え、決断出来ぬまま1月も半ばになってしまった。是非行くべきと言うものでもないが、不幸 不運続きのわが身を何とか、良き方へ転じさせたく、神頼みでもすれば 少しは晴れやかな心境に落ち着けるのではなどと、甚だおかしさを意識しながらも、情けなくても深刻に、すがってしまいたい。家で退屈にしてた娘が 一緒に国分に連れて行って欲しいらしい。それなら一緒にと決断。
昨年も 神頼みはした。鹿児島神宮で。でも 残念な一年に終わってしまった。H氏が 「毎年 1月2日の早朝は霧島神宮に参拝している」というのを聞いた。彼が言うには 鹿児島神宮より 上位の神社だと言う。何が根拠かは聞いてないが、初詣にくる人の数では県内随一のようだから、一般にそう 位置づけられてるんだろう。
調べたところ、霧島神宮に祭られているのは、天照大神の孫に当たる瓊瓊杵尊で、鹿児島神宮はその子供の彦火火出見尊を祭っているとの事。
霧島の街を先へ 進むと、道路両側に、並木が続くようになり、木々の外側に古いまま変わらぬ様子と思われる道が並び、それが参道である事が明らかになってきた。
さらに木々の緑の深い場所へ上っていき おおきな赤い鳥居をくぐってさらに進んだところに 車を駐車。そこから歩いて 赤い欄干の橋を渡ると、そこから急な階段、意気を切らせて上りきったところで 再び 巨大な 赤い鳥居。やっと 境内か。本殿はさらに上。ここで 電話あり。2件 得意先からの注文。いつもより多め。もう御利益が現れたか。そう思ったら急に 神聖な場所に来ている実感が湧いてきた。単純なものだ。娘と並んで拝んだ、娘は一言 私は三言願い事を。娘が「何かこれで 私 よくなるような気がする」 わが子も 思考は単純なようだ。しかし これは大きな進展だ。こころの弱さで悩んでいる娘の言葉に熱くうなずいた。
ここに来たから よくなるのではなく、ご利益があるはずだから頑張ろう、という気持ちになれることに来た価値がある。私達頑張りますから 神様お願いします。帰り道は日暮れま近、見下ろす黄昏の風景はすばらしく、清々とした空気も心地よかった。帰りの車内では娘と会話が弾んだ。来た甲斐があった。
DSC00577_convert_20120115024443.jpg橋の向の急な階段が入口 zinnguukaidan.jpg
DSC00581_convert_20120115024211.jpg娘身長157cm zinnguu.jpg

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中島みゆきのオールナイトニッポン

久しぶりに「中島みゆきのオールナイトニッポン」を聞いた。ラジオからではない 今 放送はされてない。youtubeだ。今は ニュース23での 筑紫哲也との対談を こちらは見ている、隣のパソコンのディスプレイで。この場面ははっきり憶えている。この番組のクロージングの歌を歌っていたときだ。93年頃らしい。有村かおりがまだ出てたときだ。98年の対談もあるが こちらはたぶん見るのは初めてだと思う。46歳のはずだが 若い。
さて オールナイトニッポンの方だが、2006年の復活DJと 85年の最終回の音源がある。ラジオだから映像は一枚のみで、事務作業をしながら ほんとにラジオの感覚で聞いてた。やっぱり懐かしい あの時々素っ頓狂な声を出し、ずっとふざけたような喋り方。youtubehへのコメントで、「みゆきさん絶対お酒が入ってるでしょう」と言う人がいる。初めて彼女のDJを聞いた人は 歌から想像できる人物像とあまりにかけ離れてることに相当驚く事だろう。面白い。これは コンサートのときでも同じだった。
学生時代 中島みゆきがDJをしてた、このオールナイトニッポンは欠かさず聴いていた試験中でもこれを聞かずにはいられない と言うくらいに彼女の語りに心底酔っていた。もうひとつ中島みゆきがDJをしてたNHKFMのミュージックスクェアの最終回は聞いた。憶えている。、今日聞いたオールナイトニッポンの最終回は聞いてなかった。87年3月だと私は与論にいた。ステレオチューナーは備えていたが、AMのアンテナはつないでなかったはず。社会人だから そんな遅くまでは起きていられもしないが。ミュージックスクェアの方は90年代で、喫茶の店を早めに閉店して片付けをしながらきいてた。どちらもみゆきワールド満載。久しぶりに聞いた今日も笑ったし 大いに楽しめた。2006年の方は あの つま恋で、拓郎と「永遠の嘘」を歌った後で、その時の舞台裏でのどたばたを面白おかしく 話してくれた。
オールナイトニッポンを聞き始めたのは高校3年の時から。あのねのね 泉谷しげるがパーソナリティーだった。
一年間福岡で浪人してた、その時は毎晩 勉強なんかほったらかしでオールナイトニッポンを聞いた、友人たちも聞いてて、共通の話題だった。友人の下宿に泊まりに行っても夜は一緒にオールナイトニッポンを聞いた。海援隊の武田鉄也 イルカ 笑福亭鶴光 それに 吉田拓郎。拓郎のオールナイトニッポンは、再会された80年代も聞いてた。番組は今でも続いているのかな、時々 あの懐かしい 「ビタースイートサンバ」が聞こえるときがある。ただ いまのオールナイトニッポンは今の若者達のもの。われわれの青春の証として記憶に残っているオールナイトニッポンは、あの時代、あの年代の時だけのもの、 でも 進んだ文明のおかげで、いつでも聞けて、あのときに戻れる。
うんと若い中島みゆき
中島みゆき / アザミ嬢のララバイ 投稿者 jrapaka2


小学生の頃 私が居た奄美で、週刊の漫画雑誌を買うと 定価より10円多く払わされていた。運賃の上乗せだ。鹿児島から船で運ばれてくる、船の場合 単純に船賃だけでなく 荷揚げ料が掛かっていた。従って奄美の商業者にとって運賃はかなりの負担になっていて、商品に上乗せして、客にも負担してもらわざるえなかった。客もそれを承知して買っていた。家電品など他にも運賃上乗せの品は多かった。今は効率よく仕入れることを心がけて 客に定価以上を請求する事はなくなったが 「まけろ」と言う客に 「仕入れ運賃が高くて 出来ない」といい口実になっていたりもする。
沖縄の出版界が勢いづいてるらしい。電子書籍に期待を持ってるようだ。本土から見れば特異な文化を持ち、豊かな自然と、観光業の発展で、興味を持つ人は全国に多いが、それに関する書物を作成して 東京の取次店に送るのに、本土業者より2倍の運賃を負担しなければならなかった。電子書籍なら輸送費が掛からない。53年前に創刊された 沖縄の写真誌「オキナワグラフ」を1冊500円で売り出したところ 好調な売り上げで数年後には 10億円規模の市場になると予想している。本の他 映像 美術品などの文化産業が沖縄の経済を引っ張っていけると おおいに期待している。
先週から全国で公開されてる「琉神マブヤー」と言う映画がある。沖縄ではテレビ放送で有名になった ご当地ヒーローだが これに関連した 商品が発売され、全国にも広まったという。この「琉神マブヤー」のショーを楽しみに沖縄に来る観光客が増え、その 関連商品も売れて、大きな経済効果をもたらしている事が、文化産業を強気に見直すきっかけになっている。
その「琉神マブヤー」を自社商品のキャラクターとして作ったのが、土産品の卸業 「南西産業」その社長が私の中学の後輩H.若い頃は適当なことやってるように見えたが、今は立派に沖縄経済を刺激するほどの功績を挙げているようだ。彼の 祖父が起こした、企業グループは 確かに大きかった。本業は木の製材、他 自動車 ギフトショップ 土産品など 奄美 沖縄 鹿児島でも営業活動していた。数年前 お兄さんが死去したあと、「自分がこのグループを引っ張っていかなければ」と 自覚し、心機一転 覚悟を決めたのだろう。実は同じ大学に通っていた。ほとんど大学にはいってなかったようだ、試験前に同じ講堂で会ったことがあるが、講義を聞いてる様子ではなかった。そんな彼が今 注目される存在になってる。やる気を出せば できる。という模範かも知れない。今は 彼を見習おうかと 私は 考えている。

昔よく歌ってた 「バイバイ沖縄」30数年前 大阪中之島公会堂で見た知名定男のコンサートでは バックで りんけんバンドの照屋林賢がギターを弾いてた。


娘と友と 高校時代は

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日曜日に次いで 今日も二人 舞の仲良しが訪ねてきてくれた。八幡から帰省中の、日曜日も来た一人と、昨年夏の入院中、毎日 出勤前に病室に来てくれてた、5人組の一人。名前はマナとハル、日曜来たのが マナとカナ。4人とも長身の美人。娘よ よくぞこの人たちと仲良しでいてくれた。
墓で手を合わせ、仏壇に線香をあげ、暫し 思い出話を。暫しはいつの間にか長い時間になった。思い出はいくら語っても尽きない。私も経験した。高校時代はバカな事やって はしゃいでた。舞のことだ、いくらでもバカな事はやってただろう、あのけたたましい笑い声を響かせていただろう。二人の語る思い出の中に、ずっと舞の姿があった。目の前に浮んだ。思い出をずっと語ってくれる 共有し続ける友に出会えた高校時代。悩んだ事もあったろうが、一番華やかなときでもあったであろう。この友人達に出会えた事が何よりだ。
卒業記念のDVDを見ながら、さらに話は続く、広がり 盛り上がり 楽しく進む。私と30近い年齢差だが、高校生はいつの時代も同じかな。遊びに 恋に 少しは勉強も。誰もが後々振り返って濃密な3年間だったと振り返り 懐かしむ。二人とも結婚している。ご主人の次位に舞のことを思ってくれてる。まだ式が3月に予定で、済んでないマさんは 舞の席も用意してくれるそうだ。よかったな舞 大事な友達の結婚式 みんなとお祝いしたいだろう。行っておいで。

卒業記念のDVD 冒頭に流れる音楽は一青幼「ハナミズキ」 城南海の歌で聞いてみよう。


配達で 鹿児島新港前を通ったとき、大島航路の待合室に、だれか 知った人はいないだろうか と考え 立ち寄ってみた、火曜日 週末ではないので、乗客は少ないようだ。年末、通ったときには、かなりの人だかりが見え、駐車場も満杯だった。広い待合室を見渡したが、知った顔は 見えなかった。ここは去年私が利用してた場所ではなく、それよりずっと前 30年位前まで 大島航路の待合室として使用されてた建物。建物内は改装されて、変わっている。ただ 島へ通じる場所として、懐かしい 島の雰囲気が味わえる。そこにいる人たちがみな島に関係ある人たちだからか。東京上野駅が東北の人たちにとってふるさとを感じる特別な場所と 言われているが、ここは まさに奄美の人たちにとっての上野駅になるのかな、ただ 今は みんな頻繁に島と鹿児島を行き来してるから、そんな感慨をもつのは、寂しがりやの私だけかも。
掲示板に広告がある、与論のお店と旅館に目をやると、取引先でもある 居酒屋ひょうきん、お世話になった 民宿南海荘 与州旅館の名 を見つけた。
乗船が始まって 人々が船に向かい、待合室のひとがまばらになり、わたしも 立ち去ろうとしたとき、与論の民族村村長が、船に向かって足早に歩いているのが見えた、残念 早く気づいていれば話しかけられたのに。それから今 港についたらしい、同窓生のご主人がいて、建物を出て 窓越しに中を見た時に気づいたのは、私のすぐ側で孫をあやしていたのは、勤めていた頃のお客さんだった。やはり懐かしい人に会えるんだ。近いうちにこの船に乗って私も 帰ってみよう。そう考えるように至らせた、感傷時間でした。

2011122817190000.jpg 2012011017180000.jpg今日の船はフェリーあけぼの
島唄も聞いてみよ

ありがたき娘の同窓生

昨日は 舞の同窓生 二人が来てくれた。仲のよかった東高校での5人組の内の二人。一人は結婚して 北九州八幡に住んでいるが、帰省しているところ、彼女 舞の葬儀のときは、入院中だった。手術をして2日目 病院から駆けつけた。歩くのもままならないのに。もう一人も 仕事が変わったばかりで忙しい中、なくなった日 仮通夜 通夜 葬儀 ずっと舞の元に来てくれてた。舞とは よく 福岡へ出かけてたり、出水に泊まりに来てくれてた。二人の訪問は何より舞を喜ばせただろう。5人組、舞を除いて4人の後二人も含めて、彼女達、入院中の舞のところへ 何度も来てくれてた。毎日出勤前に寄ってくれる人もいた。励ましの寄せ書きも 数回届けてくれた。昨日は 思い出のスナップ写真 10枚ほどを 一枚のA4ほどの印画紙に焼いて、もって来てくれた。あさっては もう一人と今日来た一人が来てくれる。指宿のホテルに勤務している一人も、一緒に来る予定だったのだが、仕事の都合で、今回は来れない。でも 舞のことを思い出しては メールを送ってくれている。舞と今でも一緒だと これからもずっとなかよし5人組だと言ってくれる。舞にはとっても嬉しい言葉だろう。
出水から 来てくれる人 川内からも 熊本からも 水俣の人も寄ってくれると言ってる。みんな舞と過ごした日々が楽しかったって言ってくれてるよ。
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その時だけサユリスト

昨日読んだ 文芸春秋の小悪魔女優特集に、吉永小百合さんは 名前が挙がらなかった、トップの清純派と言われてる彼女に 小悪魔という形容はだれも浮かべないようだ。タモリはじめ 日本中のたくさんのひとが彼女を見て胸をときめかしたはずなのだが。今日BSで 映画「いつでも夢を」を見て、この 吉永小百合や 松原智恵子を見たら みんな 虜になるだろう と確信した。日活 青春映画の 代表みたいな内容。街工場で働き定時制高校で学ぶ若者、挫折をあじわいながも励ましあって、夢に向かい、一人のアイドル的な明朗な少女と 少女に恋焦がれる若者達。昭和38年の作品。小津映画が、比較的 裕福な家庭を背景にしているのとは 対照的。小津作品は 10年ほど はやい時期に作られているが、どちらも高度成長期だったと思う。昭和38年は 翌年 東京オリンピックを控え 国際化を目指し より大幅に経済が成長していた時期だった。下済みで苦しい時期を、頑張って乗り越えれば明るい未来はやってくる。確かにそれが叶った時代だ。
そういう 若者を 励ます純真無垢な風に演じる 吉永小百合を見て「素敵だ」と 頬が緩み、嬉しくて元気が出る そういう女優だったのだろう。今は その美しさを 保ちながら 役には大いに幅を持たせ、大女優としての地位を 誰もが認める存在。映画の中の吉永小百合をみてたら やっぱりサユリストになっていた。



梓英子さんにときめいた。

古本屋で手に入れた、2010年の文芸春秋11月号に 「永遠の小悪魔女優ベスト10」という特集があり、その中で 泉麻人が 梓英子の名前を挙げていた。懐かしい名前だし、私も小学生の時、テレビで見て 憧れのお姉さん的存在になっていた女優だ。もしかしたら こころをときめかせた、あるいは切ない という感情を初めて持ったのは この人に対してだったかもしれない。泉麻人は69年やはり小学校高学年で「水蜜桃は青かった」というテレビドラマで見て小悪魔性を感じた と 述回してるが、私には小悪魔というイメージではない。泉も素敵なお姉さんに キュンとなったんだろう。私の印象に残っているのは、NHKの「太陽の丘」という 森茂久弥主演のドラマで息子役 松山英太郎の恋人の大学生役で、山で遭難して 死亡するという役。英文科の女子大生は、いいとこのお嬢様ばかりの時代だから、梓英子の印象も、清楚なイメージになっていた。遺体が山で 火葬されるシーンは ドラマの中に入り込んで 一緒に泣きたい気持ちになっていたはずだ。
一般に知られているのは、「どてらい奴」での 西郷輝彦演じる 主人公 山下猛造の妻役で まさしく 良妻賢母を演じていた。NHKの朝ドラ「風見鶏」に出演した後 結婚 引退したらしい。「風見鶏」見ていたんだが梓が出ていた という記憶がない。映画も テレビドラマも相当出演している。「竜馬が行く」「樅の木は残った」「楡家の人々」など 見ていたはずなのに 記憶にない。最初に見た「太陽の丘」の印象だけが 強烈に残っている。 もう一回見れないかな。
文芸春秋の記事で、小悪魔女優として、最も名前が挙げられているのが 加賀まりこ 次が 大原麗子のようだ。あと ブリジッド バルドー、 マリリンモンロー、秋吉久美子、緑魔子、若尾文子中には吉高由里子 志田未来 AKB48のメンバーのひとり など 相当な年齢幅の女優の名が挙がっているが、選者のほうは大体 高年齢の男性達。男は瑞々しさを求める。古い女優も 若い頃の姿が 今も焼き付いているんだろう。元 文部省の高官寺脇研が、秋吉久美子 と 美保純を択んでいる、私も 同感。

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周囲の人と一人だけ 違う服装をしていたら 恥ずかしく感じる。普通なら何にも問題なくても、ある場所では おかしくて 恥ずかしいかも。という話。
与論にいたとき 夏の間は毎日海に行っていた。ただし 仕事で。金融機関に勤めていて、浜辺に臨時に事務所を構えた観光業者の所へ、必ず顔を出していた。事務所といっても 簡単な造りの小屋と テント一張り。業者は客の応対で ほとんどテントの中にいる。客は海水浴を楽しんでいるのだから 皆 水着。業者の職員はみな短パン姿。私だけ ネクタイ締めて 革靴はいて。ある日 突然 激しい通り雨で、浜にいた全員が テントに批難してきた。肌を露出した水着の人たちの密集に 一人 ネクタイ姿でいることが恥ずかしかった。狭いテントの中、濡れた体の目の前の女の子が 私の格好を見て 濡らしたらいけないと、腕を前へひねって、体をしぼめていたのを憶えている。私が余計だったんだろう。
夏の思い出を 何で 今頃思い出したかというと ラジオで「銭湯の中では 服を着ている方が恥ずかしい」という意見を言ってたのを聞いて 思い出した。「そんな事ないだろう」と思う人も多いだろうけど私は「そうかも」とおもった。ラジオへ投稿してきた女性の話で、久しぶりに温泉に行ったけど、他の人の裸を見るのが恥ずかしく、自分の裸も恥ずかしくて 困った タオルで隠すべきだったでしょうか。 という 話に対してDJが 先の服を着てると恥ずかしい と言う意見を述べた。温泉は裸になるのが当然。普段し慣れない行為に戸惑ったようだ。まさか着衣のまま 湯につかる人はいないだろうが、裸にならないで、うろうろしてたら 見たいだけの変態と思われはしないか そう思うと恥ずかしい。
銭湯や温泉は特殊な例。場所に不適当な格好がいけない。周囲に嫌悪感をもたらす場合もある。ただ そういう場合、嫌悪するほうは「恥ずかしくないんだろうか」と相手を蔑むが、その格好をしてる方は 全く そんな風には思ってない。何も気にしてないから そんな格好が出来る。
昔 与論に押し世出てくる若者達は 島内どこでも同じと思っていて 町でも 海の格好でいたりしてた。島の人たちは 別に咎めはしてなかったが、あれで よかったんだろうか。眩いビキニ姿が レストランにいたり 金融機関窓口にシースルーの服で来たり。そういうのが大勢いたから よかったんだろう。

  

フェアリージャパンと言う名前を初めて聞いた。三日の日にあった、女子アスリート達の対談番組だ。彼女達が画面に登場したとき ナレーションは「彼女達はアイドルグループではありません」と言ってた。つまり一見そういう風にしか見えない美少女たちなのだ。既にロンドンオリンピック出場を決めた 新体操の選手達だ。テレビでは綺麗に着飾り 化粧しているからだろうが、毎日厳しい練習に明け暮れているようには見えなかった。17歳から20歳。17歳の子もメイクで大人っぽく見えた。
番組前半に出てた、ビーチバレーや サッカーなでしこジャパンのメンバーも 試合のときとはガラット雰囲気が違い、はじめは誰なのかわからなかった。こうして、スポーツから離れた時間は 普通の子で過ごしてるんだ。当たり前なんだけど、いつもすごいパフォーマンスを見ているから、すごい人と言うイメージを持たされていたのだ。フェアリージャパンの少女達も 化粧品会社がスポンサーについているそうで、そのせいと言うわけではないが凛とした美しさを持ち、知的な感じすらした。半分くらいは 高校生なんだが、これは普通の高校生に比べたら、明らかに大人びている。何しろ 日本代表なんだから。今日見た録画では 見せなかったが、普段は激しく 厳しく 辛い練習に耐えているんだろう。目標に向かってこの全員一体となって 励んでいるんだ。
新体操は興味なかった。オリンピックでも見なかったかもしれない。でも 彼女達は応援したくなった。絶対応援しよう。

娘が咲いてる

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実家の庭にある椿。今年はいつになくたくさん咲いた ようだ。実は今までこの木があることに気づかなかった。花が咲いたの見たことなかった。
舞が小学校の卒業記念に貰って 植えたものだ。舞の命の続き。鮮やかに 美しく ほほえましく。
元気よく ここにありと主張して、やっぱり舞だ。



箱根駅伝 東洋大が強すぎた。往路も復路も大会新 総合で8分以上の記録更。2位に9分差。あまりにも東洋だけが突出している。昨日の時点で優勝は決まったようなものなので、あとは 復路優勝はどこか、区間賞を取るのは?と思ってたら なんと復路も東洋が区間賞4つ。なんかからくりでもあるんじゃないか と思ってしまった。駅伝はチームが一旦波に乗ると 後 まさかと思う人が区間賞をとったりするのはよくあるのだ。それでも 2位3位争い 10位以内のシード権争いと はらはらする見どころはあり ずっと テレビに見入っていた。それに アナウンサーの選手紹介の「鹿児島県出身」とい声を何度も聞いた。明治の有村はよかった。最後は駒沢を振り切った。他にも 城西 吉本 山梨 松枝 日体大 谷永 上武大 銀山 皆力走だったし 往路の 明治 大六野 学連選抜の吉村も 好成績だった。早稲田の4区 前田も 小林高校だが 鹿屋市出身というアナウンスだった。もう一つ、スポーツ推薦でなく 一般入試で難関大学に合格して その後も スポーツと学業を両立させている選手も何人か出走。感服する次第。いろんな興味を持たせる対象があり 毎年 この駅伝は楽しみにしている。
あえて 一つ 引っかかってるのは 東洋の前監督 川嶋伸次のこと。3年前の東洋大初優勝の直前 陸上部員の不祥事で 責任を取って 辞任したが、彼の功績についてほとんど言及されないのが不思議だ。どの程度の責任が彼にあったのか たいした功績は残してないのか。今年の優勝は現指導者の功績に間違いないが、エースをはじめ4年生 既に入学を決めていたはずの3年生は何故東洋に入ったのか。東洋は名門ではあるが、川嶋が就任する前は低迷していて、それで 川嶋が請われて監督になったはず。就任後確実に 成績は上昇した。
彼の指導を一度テレビで紹介してたのを見たことがあった。学業をおろそかにさせない事など 生活面での怠惰を許さず、それは いずれ 競技を離れるであろう学生達の将来の為にとの ことだったのだろう。今回の放送でも東洋の主力選手達は普段の生活態度が立派で後輩たちに尊敬されてると、紹介されていた。川島の教えをを実行して 自分を律しているようだ。 川嶋は本を出していて その中に詳細と 本人が認める責任が書いてあるようだ。まだ読んでもなく、安易にこういうことを書いてしまったが 私は 川嶋伸次は立派な指導をしたと確信しているので、彼をもっと評価して欲しい。
さて 駅伝シーズンはまだ続く 都道府県対抗の女子 男子の駅伝がもうすぐ。都大路を走らなくても 箱根に出なくても すぐれた学生ランナーはたくさんいる。そんな選手が活躍する。
鹿児島では 地区対抗の女子駅伝。来月は 県下一周駅伝。選手達の健闘を祈る 私は寝っ転がって テレビでみるだけ だけど。



みんなそろそろおじいちゃん?

熊本から奥さんの実家に里帰りしている同窓生Kと、鹿児島で歓談。お盆のときに我が家に線香を上げに来てくれて以来の対面。電話では時々話しているが、ゆっくりと長い時間会話できるのは久しぶり。そういえば去年も正月、同じ店で会った。去年も 今年も 私の家族のことを気に掛けてくれていた。約2時間あまり、お互いの子供の事、同窓生の消息などを話して、夕刻店が込み始めてのをきっかけに店を出た。明日 熊本に帰るが、時間は娘さんの事情によって、昼頃と決まったらしい。彼の場合、社会的にはすごく尊敬されるべき地位なのだが家庭では、父親として 子供のサポートにも一生懸命のよう。昔はあきれるようなバカ話ばかりに終始していたが、今家庭を持ち 子供を持ってる身になっては 子供の為に という思いが先ず一番になる。会話も子供の事が多くる。
Kと別れて 鹿児島市内の姉の所へ寄ろうと 電話したところ 今来客中とのこと。たまたま車で走ってたところに近い やはり同窓生のMの家の前を通ると、普段は遠い勤務地に居を構えてて 留守なのに 今日は車がある。寄ってみようと、車を止めたが、驚かそうと まず 電話を架けたところ、「子供達が来ている」との事、子供達って 彼には娘さんが一人のはず、他にもいたんだろうかと 思ったら 孫も3人 と言う。孫がいたのは知らなかった。長い付き合いだし会うのはたまにだが 電話で話す事も多い。まごのことは聞いた事なかった。しかし考えてみたら、途中15年くらい音信がなかった時期がある、その間に 彼はおじいさんになってたんだ。同世代の友人や同窓生で そろそろ 子供が社会人になって、子育てが終わった人も多く、こどもの結婚式の話も耳に入る。まだ 孫がいる人はまだ少数。これから 皆次々おじいちゃんおばあちゃんになっていくんだろう。今日会ったKも 子供の結婚の話が出た。孫が出来そうな友人は結構いる。そういう年代になってきているんだ、としみじみ思った。ただし うきうきした気分で思った。

Kの著書 よろしく
「薔薇物語」(断片A)の脚韻構造 出版社:開文社出版 (株)
翻訳
イタリアのおもかげ 岩波文庫
アメリカ紀行 上 岩波文庫
アメリカ紀行 下 岩波文庫
20世紀クロノペディア―新英単語で読む100年  出版社:(株) ゆまに書房

「歌の旅人 ベートーベン第9 歓喜の歌」。録画していたのを見た。いつ録画したのか、はっきりわからない。それほど古くはないはずだ。期待して見たのではない。だから 見ないでほおって置いたのだが、番組終盤の 二つのポイントに興味が湧き 取り上げてみた。
日本で最初に第九が演奏されたのは 第一次世界大戦中、徳島の坂東俘虜収容所のドイツ人捕虜たちによる演奏が初めてだった とか CDの収録できる時間は カラヤン指揮の第九が 一枚に納まるように設定された というエピソードは有名だ。そして 今 全国で 年末に 市民等による 歓喜の歌の合唱 コンサートが盛んに行われている話題。
昭和45年に 川崎市の工場勤労者たちのコーラスグループが、この歓喜の歌の合唱をやった。翌日の新聞はみなそれを絶賛した。参加した工員達は、職場で「よっ ベートーベン」と言うような歓待を受けた とあった。これが日本で最初の市民合唱による演奏会 かどうかは 番組でははっきりさせてない。でも 昔からあったセレモニーではなく ここ20年くらいの間に盛んになったはずだ。当時の指揮者が話していたが、みな素人ゆえ 詩の内容やベートーベンについての詳細はほとんど知らない その学習からまず始め、工員たちは理解するに従い ベートーベンの苦労と自分達を重ね、共感し理解していったという。そこまで深くやったのが成功の要因のようだ。
なぜ 年末恒例なのか、歌う市民達もどうして年末を目指すのか。登場したドイツ文学者が自説を言っている。
この歓喜の歌も ベートーベンの作った曲も 喜びを表現して それは一瞬であっても 全てを忘れさせてくれる。日本人が 年末に忘年会をする感覚に共通する と言うのだ。「これを済ませないと正月が来ない」という慣習はいろいろある 何があっても それのために意識を集中させれば その間 苦悩や悔恨は忘れる事が出来、苦労をしてまで 事を済ませば、過去の事に心が執着しなくなり、次の一歩を新鮮な心地で迎えられる。そんな日本人気質にかなっている物のようだ。

中学生?文化祭での合唱 生徒たち見事 立派
先生たち だらしなく見えるけど、しっかり聞いてる?