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奄美ジャズの会の思い出を書いたら メンバーで中学の先輩でもあるSさんから電話が来た。ジャズで検索したら私の記事が出てきたそうだ。「川元君 誰かわかる?」とまず聞かれたが、もう何年も会ってない人 わからない。名前を聞いたらすぐわかった。あの人の声だ。私が島を出て すでに16年、5年ほど前に 帰省したとき、車中から 横断歩道を行くSさんと対面、言葉は掛けれず、お辞儀だけしたことはあった。今も 名瀬にいて、元気そうだ。「川元君が出てきてびっくりした」と話して、子供さんが二人 鹿児島に住んでること、今年8月 福岡で同窓会があることなど、しばし 久しぶりの会話を楽しんだ。ジャズの記事を読む楽しみをまだ続けていて、ジャズを愛し続けていることに感服。実は 先輩 私の勤めていた信用金庫の先輩にもなるはずだったのだが、あの 常務の言葉に反発して すぐ辞めたという 私が羨ましく、尊敬もしてる人でもある。
奄美ジャズの会だが、メンバーだった9人のうち 4人が故人になってしまった。行方不明者もいるようだ。中心だった人たちは、やがて70歳になろうとしている。私のように奄美を離れてしまった人も。会は立て関係がなく 和気藹々の飲酒しながらの会合ばかり。役と言えば 会長と会計だけ。年長でリーダー的な人もいたが、堅苦しさなどなかった。
昭和49年結成 菅野邦彦トリオを招聘したのが始まり。昭和62年にその菅野邦彦トリオを、東京から直で呼んでコンサートを開き、それを最後に 活動休止。そのまま 解散。私は与論にいた。会長が体調を崩すなど 各自事情があり、活動が困難になっていた。プレイヤーを呼ぶには、ツアーで九州に来る人たちに 奄美まで来てもらう と言うのが一般的。最後のコンサートは 直接来てもらうため、ギャラは2倍払った。そうしてでもけじめをつけたかったようだ。もちろん私も、与論から駆けつけた。
その後 島では ジャズ喫茶のグループや、楽器店が、コンサートを主催してくれて 生のジャズは聴くことができた。私は チケット販売を手伝うだけ。後のコンサートはあまり憶えていない。
今も 鮮明に憶えているのは、田村翼のライブレコードになったスイート奄美コンサート フォースの2回のコンサート、与論に行く直前の 辛島文雄トリオ。辛島さんがアフターで気さくに 何でも質問に答えてくれた。与論に発つ私に励ましの言葉と サインをくださった。Sさんとの思いでも。やはりそのころ、鹿児島から帰る船で偶然一緒になった。私は北村英二グループのスイングジャズコンサートをみた帰りだった。喫茶コーナーで、ビールを飲みながら ずっと話した。ジャズの話 商売の話。与論へ行くとき フォースの徳之島でのコンサートのテープをいただいた。今も大切に持っている。
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アメリカ大統領候補のロムニーは、宗教で 不利に立たされているそうだ。自由の国と言われ アメリカンドリームと羨ましがられているあの国で・と意外に思うのだが、彼のモルモン教は国内では少数派で、モルモン教の候補者には投票しないというひとが20%いるという。これまでの大統領も カトリックだったJFK以外はみなプロテスタント系だ。福音派とかキリスト教原理主義といわれたブッシュも、カトリックではなく プロテスタントだったのか。宗教はその人そのもの いかなる理由でも そう簡単に変えるわけにはいかぬ。カシアス・クレイから モハメド・アリになったのは極例外なんだろう。
日本人は宗教に関してはおおらかなんだろう。熱心に特定宗教を信仰している人たちもいるが、多くの人はこだわりが薄い。仏教もキリスト教もどちらでもその儀式やセレモニーが社会に浸透しているし、気軽に参加できる。私が通った中学はカトリック団体が運営していた、信者ではない私も入学できて、毎朝 祈祷文を唱えていた。私立の幼稚園でも、子供がそこに入りたいと言えば、親は仏教団体にかかわっていても、子供がそこで他の宗教行為をすることには目をつぶっているらしい。参加も否定も自分の意思でできる。どちらかと言えば 無宗教というひとが多いのかも、決して信仰心がないのではなく、特定宗教に偏らず、一般的な司祭方を、行っているのだ。その無宗教の人たちへの勧誘で、強引な人たちに不愉快な思いをさせられることが多くの人にあり それ故さらに特定宗教を敬遠する。一方アメリカではみな宗教を持っているので、他宗教からの強引な勧誘はなさそうだ。勧誘を拒否するにはほかの宗教を名乗ればいい。ジャズ教でも珈琲教でも名乗っておこうか。
さて 日本で唱えられている政教分離は、アメリカではどうなのか、大統領の宣誓式には聖書が不可欠。宗教団体が選挙に大きく影響しているようだが。日本でも 選挙のときだけ 急に親しそうに近づいてくる宗教団体の人たちがいるが、それで投票行為が決定することはまずない。寛容ということも宗教では、大切なはずなのだが、自分の信じる宗教こそが全てと思えば 他宗教者を支持できないのだろう。宗教が違うからと言って、不利益を与える政治をすることなどないはずなのに、自分の人格全ての宗教感を超えられず、候補者の人格にかかわらず、投票できない と結論する人が多いんだろう。

ジャンゴの思い出

ジャズのもうひとつのレクイエムと言えば「ジャンゴ」。1953年 突然死したギタリスト ジャンゴ・ラインハルトを悼み、MJQのリーダージョン・ルイスが作った曲。MJQの演奏は ミルト・ジャクソンのビブラホンを、中心に 静かに始まり、中間は力強く、ベースでリズミカルに そして 静かに終わりに向かうが、最後の一音 ミルトの力を込めてたたく姿が 悔しさをものがったっているかのよう。
私が 奄美ジャズの会に入って 最初に開いたコンサートは 猪俣猛率いるフォースだった。バイブの浜田均のエネルギッシュな演奏に驚き 感激した。当日 リハーサルが終わって、本番まで あと少しというとき、浜田均に緊急の電話が入り、メンバーが驚きの様子を見せ、あわただしくまた電話をかけなおしていた。ジャズ仲間で、浜田の親友が 交通事故死したという知らせだった。
フォースは MJQとまったく同じ編成のカルテット。観衆は当然MJQの代表作ジャンゴを期待している。出だしの演奏が、ミルト・ジャクソンのあだ名をタイトルにしたバグス グループだったから、ジャンゴは必ず聞けると思っている、バイブの生演奏をはじめて聞くファンのきたいは大きかった。猪俣猛は 演奏する前に 必ずその曲についての説明をする。そのときは、悲しい知らせががあったことだけ話して、ジャンゴの演奏をはじめた、観衆はジャンゴで何があったかを悟った。終演後 「誰が亡くなったんですか」と尋ねる観客が数人いた。浜田均はどんな気持ちで、演奏していたのだろうか。悲しみは胸にしまったまま アフターでも愉快に振舞っていた。私は初めて自分が関わったコンサートが大成功だったことと、彼らの洗練され演奏に酔いしれ感激し、上機嫌 爽快感いっぱいだった。
その 2年後 再び フォースは奄美にやってきた ツアーの途中だった、その前日 猪俣猛の父親が亡くなっていた、すぐ駆けつけたかっただろうに、猪俣は 奄美のファンのために悲しみを超えてやってきてくれた。フォースは解散したが そのときのメンバー 猪俣猛 西直樹 内山健一 浜田均太 みな大好きなプレーヤーだ。



レフト アローンを聴きながら

「レフト アローン」を聞いている。youtubeの画面には ビリー ホリディの写真。ジャズではあまりにも有名なこの曲 でも スタンダードというのとは 違うような気がする。ジャズファンならみな知っている 特別な意味を持つこの曲。誰かをしのぶとき 聞きたくなり、聞くと 誰かを思い 偲ぶ。
夕方 といっても かなり薄暗くなって、夜の入り口とでも言える時間。舞の墓参りで、久しぶり、先生のKが見えた。墓石の後ろで、見下ろしているような位置に見える 北極星を、昨年 事故死した星の王子様Kだと思って、舞を見守ってくれているそのKに感謝している。
「レフト アローン」を聞いて彼を思い出したのだが、意識の何処かに彼に会ったから この曲を選んだのだとも考えられる。
ビリーホリディの伴奏をずっとやってた マル ウォンドロンが、ビリーの死後、「彼女が去って、一人残された」寂しさを 見事な旋律に乗せて表現した。ジャッキー マクリーンの奏でる アルトサックスが ビリーの声の代わりだそうだ。途中 淡々とマルの静かなピアノが流れているのを さえぎるように 突然アルトサックスが大きく強く、そして若干明るく 響かせる。「もう いいじゃないの 元気を出しなさい」と言う ビリーの声がきっと響いているんだと思う。
空のかなたの かの地に、先に行っている彼らから この世のわれらは、いつも励まされて、今を生きている。



NHKのドラクロア(ドラマチック苦労話の略らしい)の 「同窓会ラブストーリー」というのに興味がひかれた。11月に全国同窓会を控えて、ちょっと期待することもあり、色めくような他所の話が気になる。今度の同窓会の幹事 山元にも 視聴を進めたが、「わかい時なら そういうこともあろうが。この年になってからでは ないだろう」よ興味なさそう。そんなことより より多くの人に参加してもらって、成功させる。それしか頭にないのかも。
登場したのは 57歳のカップル。54歳のとき高校の同窓会で、36年ぶりに再会し、その2年後から交際、その後結婚にいたった2人。ためらう彼女に あきらめず 勇気を持ってプロポーズし続けた夫の行動に 出演していた女性タレントたち 感激する事しきり。今 幸せこの上ない表情の奥様の喜びを 共有したように、うれしそうに言葉を発している。
こういう例が ごく稀なことであるのはわかる、だから テレビで取り上げるほどのインパクトに感じるのだ。しかし もしかして、素敵な誰かと親密になれたら との 期待と、あこがれていた人との再会、話せる機会を持てたらと、望む気持ちは多くの人が持っているだろう。私はそれが強いかもしれない。それは 3年前の同窓会が楽しく 素敵な再会がたくさんあったから。高校時代は照れくさくて話もできなかった人たちと 話ができた。それも高校時代と同じ感覚で。あれから3つ歳はとったが、同じ感覚はよみがえるはず。青春に戻れるはず。独身でいる人 事情があって独身になった人 同窓生のなかのそんな人で、テレビの人たちのように幸せをつかめる人が出てきたら これは最高の同窓会になるのだが。勇気を持ってがんばってくれ。私もまた素敵な人たちとのふれあいを楽しみたい。みんなつま恋に来てください。

昨日は終日雨。午前中はかなり強く降った。配達に行ったお客さんの庭に大きな水溜りができている。そういえば前回来た時 子供たちが自分がすっぽり入るくらいの深い穴を掘っていたところだ。水は濁って表面しか見えない、どれだけ深いのかはわからない。「危ないな」と、思っていたら、家人から「もう埋めてあります」ときいて安心。もしそのままだったら あの深さを満杯にするくらいの雨量だったということだが、そこまでは降っていないだろう。
この濁った水をためた穴を想像して思い出したのが1960年のチリ地震による津波。朝 目をさま覚ましたら、大騒ぎになってる 子供の私は何がなんだかわからないまま、母の背中におぶられて 家を飛び出した。家の外一面水が押し寄せていて 私たちは裏の路地から大通りに出た その道路も完水。多分濁っていたのだろう、大通りに曲がったとき 母が側溝に落ちてしまった。背中の私の腰まで水に浸かった。
当時私が住んでいたのは 新川町5班 いまの伊津部町1番。港からは1キロくらいだったろうか。道路の水は、小学生の姉 兄は自分で歩いていたから 数十センチだったと思う。母が側溝に落ちたとき 後ろで 姉の笑い声がし、続いて母も笑った。そう慌てることもなく、とりあえず避難、という程度だったのだろう。水は永田橋交差点まで達していた。父は大変だった。木工所なので 庭にたくさんの木材を天日干し していた。その木材が水にさらわれ流される。それを食い止めるため必死だったようだ。水が引くときの力は 予想外に強かったようで、一部の材木が流出してしまった。幅60cm 長さ1800cm 厚さも4cmくらいの木材 ぶつかると大変なことになる。近くに永田川が流れていて、その川の流れに乗って川下にどんどん流れる。このまま海に行ってくれたらいいか と思っていたら 川下に住んでる 高校生がその木材をせき止めて 流れないようにしていてくれていたそうだ。翌日その高校生が うちにやってきて 父と話をしていた。父が礼を言っていたのだと思う。幼い私からその高校生は 大きくて立派で かっこよく見えた。

ラジオをよく聴いていた思いでは、19歳の福岡での浪人中だったと思う。予備校の寮で、娯楽といえる時間は、ラジオを聴いてるときだけ。ただ この娯楽の時間がやたらと長かった。特に深夜放送が面白かった年だ。オールナイトニッポンのDJは、拓郎 泉谷 武田鉄也 イルカ あのねのね 鶴光 セイヤングで 山本コウタロー さだまさし パックインの野沢那智 白石冬美のコンビもよかった。夜1時まで寝て それからテキストを広げるが、目を通すのは CMの時だけ、ラジオの面白さに 神経はそっちにひっぱられぱなし。 
その後も拓郎のオールナイトニッポンと その後始まった中島みゆきのオールナイトニッポンは 最終回まで聞いてた。中島みゆきは、NHKFMのミュージックスクェアを、社会人になってからもずっと何年も聞いていた。
ミュージックシーンではポプコンが注目されていた時代、その入賞曲、受賞者の曲を 流してくれる コッキーポップも よく聞いた懐かしい番組。
大学時代はFM放送が生活の中心。好きなミュージッシャンの特集があると 講義などサボって さっさとそれを聴くために帰宅した。
そのFM放送、最初に試験放送したのは東海大学だったそうだ。fmの電波の実験だ。専用ラジオは工学部の学生たちが製作して、床屋などに置かせて貰ってた。1970年ころで、そのとき電派に乗せて届けていたのが、いまも続く「ジェットストリーム」だ。FMの音質のよさを生かすためにできた番組。なるほど ストリングスの曲をゆったりながす。ほんとにきれいな音だ。
今もラジオはよく聞く。作業中も 運転中も ラジオを楽しんでいる。音楽を聴く楽しみもまだあるが、おしゃべりを楽しんでるほうが多いかな。

「ビッグダディ」と言う番組。もう奄美から舞台が離れたので、見なくてもいいか と思うが、これまでずっと見てきた習慣か、やっぱり見てしまう。先日の放送を子供が録画していたので、見てしまった。年に数回放送されるが、毎回長い。以前は6時間ということもあった。最近は長くて2時間半くらいか。納められた映像も 放送前1ヶ月位で収録したもの。一年中この家族に張り付いているわけではないようだ。毎回 どたばた いろんなことが起きていて、年中こんな状態かと 想像してしまうが、これが日常ではなく 何か起きて 面白いから 放送するんだろう。奄美では 実際は、放送されているのとは違う と うわさされていて、冷めた目で見る向きもあるようだ。私も見ていて これは違うだろう とおもうこともいくつかある。あんなに家庭内の揉め事を晒すのだ それ相応の見返りはあるんだろうと 普通考えるし、そうであってくれたほうが安心して見れる。
今回は 夫婦喧嘩の場面ばかりのようだった。気の強い若奥さんと 自信家の夫 激しい口論が続く。最後は妻が捨て台詞で立ち去る こんな場面が何回あっただろうか。しかし あれだけ激しく感情をぶつかあえば、スカッともするんじゃないか。だから 翌日二人で 一日家業に精を出し 畑で協力しあっていられるんだろう。
うらやましいのは 子供たちが、この親の大変さを見て しっかりものに育っていること。親に対し畏敬の念を持っていること。あまりに冷静な子供たちが 優秀な子役ではないかと思ってしまう。このほかとは違う家の様子が皆に知られ、学校で平静でいるのは難しいだろうに。
我が家の状況を考えれば 人の家庭を心配している場会か とお叱りの声が聞こえそうだが、テレビはあくまで娯楽。

「保守と革新なら革新」「具体と抽象なら抽象」「自分にない異性のものを欲しいと思うか」というのもあった 答えはもちろん「はい!」 就職試験の 適性検査にあった設問だ。金融機関で、こう答えたら 不適格とされるだろう。そのときはそんなことも考えず 正直に回答した。作文も、当時、ニュースとして、頻繁に取り上げられていた、ベトナム難民について、保護に消極的な、日本政府を批判した。「外国から あまりに保守的 と批判されている」とも書いた。案の定 面接で、指摘され、質問が重なった。「保守的とはどういうことか」「危険を犯さないこと」可能性があってもわずかにでも否定的な要素があると、進もうとしない。ということを言ったつもりだが、それまでに受けた採用試験よりも、厳しく質問されたことで 緊張が強く、言葉は足りず うまく伝わらなかったと思う。のどが渇いたのを憶えている。小さな離島の信用金庫の就職試験は以外にも私に厳しかった。自分のせいでそうなったのだけど。ほかの人の面接は 私と比べたらずっと 短時間で終わっていた。「この島の状況をどう思いますか」という質問に「今は 特別法によって、好調に見えますが、自立する必要があり、皆が その意識を持てば、その力は出てくると思います」この答えは生意気だったようだ。奄美振興特別法で、国から資金が投入されて公共事業で、経済が回っている事実があったが、脱奄振の意見は一方で 出ていたはずだ。だが 島の企業と金融機関は総じてその法の延長を訴えていた。
採用する側の意思は関知せずと、正直に持論を言ったのは、この企業に就職しようと意志がそれほどなかったから。帰って来いという親の意見で 受けてみた。ただ 「落ちる」ということは不愉快なので、ほかの 試験はまじめにやった。ほとんどできたはずだ。間違ったのは 循環のかんの字を王片を之にしてしまった。CDの意味について、キャシュ ディスペンサーでは普通すぎるので、当時新聞によく出ていた 額面5億円の 譲渡可能指図証券のことだろうと思ったが、どうも前者でよかったようだ。
で、採用内定となってしまった。岡山の会社に行くつもりでいたので 辞退する旨 父に話すと 激怒された。父は当然入るものと思っていたようだ。なぜ 採用されたのか不思議と思うだろうが 当時信用金庫に2人いた常務、どちらも親戚関係だった。父はずっと否定したが、「よろしく」とか 言葉をかけていたか、採用されたことで おおいに感謝してることを 伝えたか。面接での奄振法の話はなぜか知っているはずのいない父から叱咤された。私自身どこに就職しようと 長く勤めるつもりは、はなっからない。起業するための資金確保の手段としてしばらく勤めるつもりだから、どこでもいいのだ。ただ 堅苦しそうな金融機関は好まなかったが、大学で 商法の教授が 「銀行は法律のプロです」と言ってたし、実際は法律に関係なく仕事は遂行され 「法律では こうだけど実務はこっちがいい」と言うことばかり。「同窓生が市役所にたくさん入った みんな島に帰ってくる」と聞いて、楽しそうなかんきょうを選んだ。就職後 常務からは 事ある毎 「君の考えは硬すぎるそれじゃぁやっていけない」といわれ、こっちも「いつだってやめてやる」と内心思っていたが、やめさせられた と言われるのも癪で、聞き流すことにしていた。それで 9年半も勤めた。ちょっと長すぎた。
実は 結構面白い仕事だったからだ。ほとんど外回りの「渉外」と言う仕事だった。たくさんの人と知り合えたことは 今でも 財産だと思う。社会の諸々のことを このとき知った。会社組織には不満でも 個々の同僚職員は良き仲間として、楽しくすごせた。決して無駄ではない9年半だった。
退職するとき 父は何も言わなかった。コーヒー店開業に大いに協力してくれた。私の性格は30年たってもなんら変わりようがない。

YOUTUBEはありがたい。見れることがうれしい。見たいと思っていた映像が見れる。感動することも多い。若い時、聞いていた歌の多くは、ラジオで聞いていた、大切にしたい歌は レコードを購入して 何度も聞いた。雑誌でそのミュージッシャンの顔は見て知ることができる。その演奏する姿を見るには、コンサートに行かねばならなかった。それが 今 あの憧れのシンガーの演奏の様子が 簡単に見れるのだ。
つくづくそう思ったのは、高木麻早の歌ってる姿が見れたから、彼女の動画自体初めて見た。その歌声は毎日のように聞いていのに 歌ってる 姿は見たことなかった。大阪でのリサイタルは行きそびれた。迷っている間に売り切れ。そのリサイタルは評判になり、ライブ版のレコードになった。そのレコードを購入して、聞こえてくる歓声で、様子を想像した。動画は 多分 テレビ版の」コッキーポップだろう。ここで中島みゆきは何度か見ているが 高木麻早は見ていない。以前感激した柴田まゆみも この番組だった。きっと たくさんのポプコン入賞者が 出ていたんだろう。もっともっとアップしてくれないかな。もう一人 「目をそらさないで」の田島裕子の動画も見れた。柴田容子さん 中沢京子 高田真樹子 NSPも見れるかも。さて 高木麻早、確かに美人ではない(失礼ながら)でも この声と 歌で 人々を魅了した。すばらしいシンガーだ。
海外ミュージッシャンもすごい。青春の一ページに記録されてる、たくさんの人のライブ映像が、見れる。ビルボードで1位になった曲を集めた動画に出てきたのは、ニールダイアモンド ジャニス ジョプリン、ジェームズテイラー、ニールヤング ヘレン レディー、ドン マクリーン、ジョン スティーブンソン、ギルバード オサリバン、カーペンターズはテレビで何度も見たけど、レイダース、グランドファンク ミラクルズ、ビージーズ、まだまだ、「モーニング アフター」のモーリン マクガバン、ネルソン、マービンゲイ エルトン ジョン、書いてい きりがない。とにかくたくさん 楽しめる。





2004年 平成16年の同窓会の写真を眺めていた。高校卒業30年目の全国同窓会だった。もう8年になるんだ。みんな 笑っている。楽しそう。確かに楽しかった、鹿児島から帰省して参加してよかった。久しぶりの再会でも すぐ30年前に戻って 馬鹿話を思い出話として語り合い おおいに笑った。
しかし この写真の中の 8人が その後故人になっている。もう一人 この日出席するはずだったNが息子さんの事故死で、欠席。一人が事故死 ほとんど病死だが 急死も二人、威勢のよかったHとT二人と 交通事故で死亡した私の知恵袋だったKは突然逝ってしまった。いなくなった。他の人たちも 写真では元気そう Sだけが既大病で手術をしたあと かなり痩せてしまっているが、IとTS、一番賑やかだった、華やかだた。いつものようにトロンと酔い顔のO いつまでも柔道青年Y その5年後姶良球場でばったりあったときは 元気だったM。みんなより少し早く 人生を終えた。その分 あちらでの生活が 早く始められたのかな。
今年の同窓会 彼らには会えないが、みんなで語り合う中で 彼らの思い出は きっと出てくる 彼らも参加できる。

テレホン人生相談で、娘さんを 病気でなくされた お母さんが 「これから どういう風に 生きていったらよいか わからない」と相談していた。マダモアゼル アイ先生の答えは「遺品の整理を やるように 特に写真をもう一度じっくり いとおしむように 見直して、これまでとは違った 娘さんの一面がわかるかもしれません、そうすることで 区切りをつけましょう。」
母と 娘は 仲良し いつでも一緒だった。深く繋がっていたものが 突然切れてしまった。発病から3ヶ月足らずでの死別。なんら覚悟さえもできぬままあまりのきゅうな出来事。「こんなとき 一番辛いのは母親です」と 先生も言っている。これ以上自分が生きていく気力も自信もなくしてしまうのは当然かもしれない。しかし 生きていかなければ 娘さんが浮かばれない。自分の死で 大好きな母親がいつまでも悲しみを乗り越えられないでいることを娘も無念に思うだろう。
当然この話は 私たちにも 当てはまるし、その立場で聞いていた。毎日、お墓に行き 舞に 語りかけているが、謝ることばかり。今の私たちの状況を、舞はきっと嘆いていることだろう。生前も 中の悪い両親に気を使っていたようで、私との会話と 母親が言う舞の言葉のニュアンススの違いで、舞の苦心がわかる。心を痛めていたことだろうと、ほんとに 申し訳なく思う。母親の悲しみの深さを、普段の様子から正確にはわかっていなかったかもしれない、私の態度に 尽く反発するのも仕方ない。しかし 私にも絶対、妥協できない部分はある。彼女の要求がそこに触れるので、話会いは成り立たず、会話もなくなり、今 完全に鬱状態の相手に、語りかけるすべもない。
母親は 舞のことを 自分だけのものにしたいようだ。彼女は彼女の宗教感で、行動する、毎日二度 仏壇に向かっている。遺品はほかの人に晒したくないと、私が 舞の友人たちに 舞の部屋を 見せたことに激怒。今は私も入室を拒否され、舞のものに手を触れるなと 触れ書きを張られた。
けじめをつける、ということは簡単なことではない。舞がどう思っているかを考えれば、変われるんじゃないか。二人とも舞が大切な娘だったという思いは同じなのだが、それを心に留めて、どう先に進もうかという考え方が違う。母親が宗教に救いを求めているのは、彼女にとってはいいことなんだろう。端から見ていると そうは思わないけど。どうけじめをつけるかは 二人ともまだ その手がかりもつかめていない。
付け加えると 彼女の私への不満はたくさんある。すべて不満かもしれない。私は 子供を幸せにしたかった。結局 舞は私に幸せにしてはもらえなかった、たくさんの友人が 幸せにしてくれていた。母親は 子供のために一緒に苦労する存在になっていた。今 自分は不幸 この考えが 私への不満のすべてだろう。

N郎さんのブログで また新しい 恐ろしい事実を知った。1980年フランスシェルブールで起こった事故である。ラ・アーグ再処理工場で、電源完全喪失の事故があり、もし 処理が遅れていたら、人類が滅亡するかもしれないほどの危険な状況になっていたというもの。
そこで 調べてみた。「birth of blue]」「toshizou 情報メモ」「阿修羅」への投稿などの ブログに 詳細が書かれている。元の情報は 広瀬隆著「東京に原発を!」という本からのようだ。
送電線の事故で 核燃料の再処理工場で停電が起こった。すぐ 予備の自家発電に切り替え、とりあえず危機を脱した。しかし 送電が復旧し通常の電流が流れ出しても、自家発電を停止するのを怠り、過剰な高圧電気が係り、電圧機がパンク。二つの電源とも使えなくなった。このままでは 冷却水が送れず、高レベルの廃液が沸騰爆発してしまう。でんきがこないとコンピューターも動かず、工場全体が 制御不可能になる。
幸い 20キロ離れたところ、軍の発電装置が置いてあり 急遽それを運んだ。ただこれも もし冬だったら、道路は雪に埋もれ運べなかったか 運んでも間に合わなかった。もし10分 事故が遅ければ。工場のプルトニウム処理が始まっていて、爆発の可能性は格段に大きかった。
ここには 世界中の使用済み核燃料が運ばれてくる。日本の使用済み核燃料をフランスで再処理して それを運ぶ海上ルートについて、危険なものが通るということで、議論が毎日のように行われていたことがあったが。それもこの工場だったかどうかはわからないが、日本もかかわりのあることだと思う。
その日 30キロのプルトニウムが処理される予定だった。原爆が4キロのプルトニウムでできる 30キロというりょうが以下に大きいか。その9年前にもし 事故が起こったら、東西南北1万キロまで 汚染された灰が飛んでいくと 報告されていた。もし 爆発していたら ほんとに人類滅亡となりかねないところだったのだ。
しかし この事故のことは、ほとんど知られていない。フランス政府が報道を規制したようだ。日本で新聞に載ったのは、その4ヵ月後で、本来ならトップ記事のはずがそうではなかった。フランスは原発大国 原子力産業大国と言っていいヵも知れない。人類滅亡の危機より 国の利益が大事だったようだ。

新聞がなかなか捨てられない。隅々まで読まないと、気がすまない。とりあえず 大きな記事 興味のある記事をまず読み ほかは 後から と 置いておく。その後からが できない。次から次と 新しい情報が入ってくるので、そちらへの興味の方が大きく、後の分は さらに後回しになる。今 とってある新聞は、昨年3月から。さすがに1年以上前の新聞になると、斜め読みにして 処分するけど、それでも、ニュース性のない、文化面や、社会面に興味のある記事を見つけると、やはり読まないといられない。
これは 大学4年の夏、あと数ヶ月で、就職試験が始まるというとき、頭脳に自信がないので、知識量でカバーせねばと、知識を得る手段として、新聞を取り始め、読むと、試験に必要な記事とそうでない記事が、区別できず、読んでおかなければ と、思う記事ばかり。一部の新聞に 2時間以上かけてしまうようになり、その習慣がその後抜けずにいる。学生時代は時間はたくさんあったが、今はその余裕はない。したがって 後回しの分だけが貯まっていく。これから 就職試験や、一般教養の科目のある資格試験を受ける予定もない。ただ 読んだほうがいいだろう、読まないといけない記事かも、ということで、まだ半分しか読んでない昨日の新聞も、積み重なった新聞の 一番上におかれている。
さて 就職試験に その新聞記事は役立ったか? 役立ったと思う。でも 新聞でなくても テレビ など放送メディアでもよかった。私が受けた企業は3社 2社は 国語と数学 実際に就いた1社は国語と経済。経済だって、なんら難しい理論は出ず、誰でも知っているだろうことばかり。就職試験で大事なのは 面接での評価なのだ。成績証明書で学業の評価はできる。ただ 知識習得がある程度できていると 思えることが自信にはなって、面接での評価に繋がった可能性はある。結局 勉強してたら大丈夫ということだ。

先日 東京の山元から 「ザードの坂井泉水の本名は何だったっけ」と尋ねられた。どうして急に知りたがっているのかわからなかったが、私もぼんやり憶えていて「幸子」という名はすぐ思い出せた。山元が「かまち とかじゃなかったかな」と言ったので、「それだ 蒲池」とはっきりできた。そんなことを なぜか昨日思い出していた。今朝 朝日新聞 うたの旅人は そのZARD「負けないで」だ。1993年の発表というから、19年前だ。今でも応援歌として 多くの場面で多くの人たちに歌われているが、「事情があって 遠く離れてしまった女性の失恋の歌」とディレクターが説明している。作詞の坂井泉水本人から そう聞かされたのだろうか。彼女がレースクイーンや女優をやっていたことはよく知られている。ネットではそのころの映像やセミヌードの写真 女優として濡れ場もこなしている、そんな彼女を見ることができる。スキャンダラスのような表現をしているものもあるが いずれにせよ 彼女の美貌と感性だからこその表現。07年の死去は転落による脳挫傷だが、子宮頸がんを患い それが肺に転移までしていたそうだ。それでもレコーディングを執念で行う。曲つくりに関して決して妥協しない人だったという。テレビにでたのは7回 ライブもあまりやらない。とにかく曲つくりにこだわったようだ。

その数すくないテレビ出演の映像。

ZARDという名前は坂井泉水の別称と思っていたが、バックバンドを含めたグループ名だった。入れ替わりが多いため坂井泉水だけ常にZARDだったということだ。
彼女の急死のニュースが流れた日は 政治の大きなニュースもあったはずだが そんなの忘れた、議員の死だったと思うが、そんなことより世間は坂井泉水の死に 大きなショックを受けていた。



「世ぴ亜」再開の連絡あり。17日、来週火曜日にオープン。新しい店は なんと2日前に、その人のエピソードを書いたN君のドーナッツ屋の後。休業に入ったのがちょうど一年前。「しばらくゆっくりしたい」なんて言ってたけど、割と早い再開になったのでは。商店街を分断して 大きな道路を作る為、前の店舗は取り壊され、移転しなければならなかった。道路計画の両サイドのほとんどの店舗が取り壊され、これを機に引退と、閉店したり、転業する経営者も多い中、よく 再開してくれた。してくれたというのは 私のお客様に戻ってくれたから。私がこの店をまだやっていたら、多分 転業していただろう。
生活採館マツオも、同じ計画で移転を余儀なくされ、5月からは、向かい側のビルに新店舗を構える、現店舗より手狭になるため展示商品が限られてしまいそうだが、なるべくアイテム数を減らさないように工夫し、コーヒーも引き続き扱ってくれるというから ありがたい。
道路計画には 反対も多かったが ついに工事間近のところまで来てしまった。多くの商店主は当所反対だったようだ。3通りの商店街がつながっていて、ひとつのモールになっていたのが 大きな道路で分断されてしまう。買い物にはきわめて不便になる。何より今成り立っている商売の状況を変えたくないし、途中休業で客足が遠ざかるのは避けたい。賛成した商店主たちのなかには、不動産を市に売却して廃業した例も多かったようだ。
新しい町つくりのため 慢性的道路渋滞解消のため必要と、計画された道路だが、この商店主たちに苦渋の決断をさせてまで断行しただけの効果は是非もたらせてほしい。新しい町がより活気を増して 彼らにも今よりいっそうの利益が出るようになればいいのだが。

「元気があれば何でも出来る」というフレーズをプロレス界の大御所がよく叫んでいる。そんなことはないと思いながら 威勢のいい言葉を楽しんで聞いている。同じ事を テレホン人生相談の大原恵子氏がいいうと そうだよな と納得する。相談者の話を聞いたあとだからだろけど。母親によって 家庭を壊され、父親とも 早くで死別し 住居も安定できず、精神的に追い詰められて来ていた若い女性からの相談。旅行先で知り合った素敵な家族と、長くお付き合いしたいが 自分の育った環境とは違う生活をしている人たちとの付き合い方が わからないという。大原先生 まず 「あなたはこれまでちゃんと生ききてきた 旅行にも一人で行けた。あなたは 立派で強いんです」普段 辛口で評判の氏のエールには 彼女も感激したようだ。そして 「生きていたらなんでも出来るんです しっかり食べて 元気でいたら 大丈夫」聞いていた 私も そうだ と彼女を応援しながら 自分にも言い聞かせていた。
最後に 今井通子氏から アドバイス「初めて会った人との距離感なんて みんなわからないもの 付き合いながら分かってくるもの 知恵を出して」
初めて会って意気投合 なんて話もあるけど その後づっとその関係でいられたかどうか、じっくり少しづつ分かりあえてながーい友達になれるんだ。うん 放送聞いてよかった。





ラジオで 森山直太郎の桜 を女性の声で歌っている。さて この歌っている人は誰でしょう というクイズだった。きれいな澄んだ声だった。夏川りみではないかと思い、CDがないか調べてみた。あった 夏川りみが 桜を歌ったCDがある。Youtube で 声まで確認してみようと思って 検索したが 削除されていた。残念ながら聞けなかった。関連記事に シモンズの「若草の雨」がある。BGMにと聞いた。終わって 「ふるさとを見せてあげたい」が見つかり 聞いてみた。シモンズの歌の中で一番好きな歌だ。作曲はメンバーの玉井妙子。今 どうしているのやら。もう一人の 田中由美子は今も 活動中。
若い若いおばあちゃんなのだが、嫁と組んだり、五つの赤い風船の 吉田まりと組んで、シモンズを続けている。
玉井妙子は、嘗て 芸能ニュースを賑わせることになってしまったが 音楽活動からは完全に離れてしまったのだろうか。あの もてもてミュージッシャンと別れた後 アメリカへ渡ったらしいが、その後は一般には知らされてないようだ。シモンズとしての活動がなければ、もう ライブでこの歌を聴くことは出来ないのだ。

もう一曲シモンズの歌で好きなのが「おくれてきた少女」その後 高木麻早の「思いでが多すぎて」も聞けます




私の顔は どちらかといえば いわゆる童顔だ。ただ 髪は半分以上白髪。体型も腹が出っ張って まさしく中年の体型。中身は高年のはず。今では 年相応に見られるようになった。
若い頃 この童顔のため 結構損をした。高校生の頃は 明らかに学年では下の他校生に 絡まれた。勤めているときにも 知っているある年下の人の名前を敬称をつけずに出したら、「年上を呼び捨てにするな」と叱られた。内緒話にしておきたいとこが、大学時代 成人映画を見に行くと「高校生は駄目」と言われ、その度学生証を しっかり確認してもらってた。さらに その頃は フォークシンガー並みに長髪だったので、「お嬢さん」と声かけられたこともしばしば。よかった事といえば 河島英伍のコンサートへ行ったとき 観客がほとんど 中高生 それも中学生女子が断然多い中、二十歳を過ぎた自分が違和感なくおれた事ぐらいか。子供っぽい印象なのか、同年齢の女性に相手にもされず、何とか大人に見られたくて 髭をはやしていた。
これが 30代後半くらいからは 若く見られるのが 嬉しくなる。駅前で 若い女性に「アンケートに答えていただけませんか」と呼び止められ、「何?」ときくと 「若い人の意見を聞いてます」「若い人?45だけど」「失礼しました 若く見えたので」私の返事は 少し 鷹揚に大人っぽく 実年齢より3歳くらい多めに答えた。嬉しかったから。
今は そんなことない。背中が丸まった体系を見れば お年寄り と思われそうだ。

3年前に亡くなった 同窓生のN君は、お父さんとそっくりだった。年はまだ30代のときで 70代後半のかれのお父さんとそっくり。彼が 自分の子供を 病院に連れて行ったとき 看護婦が子供に「いいわねぇ おじいさんと一緒で」と言ったことに 頗る腹を立てていた。80歳の父親の通院に付き添った 40代の娘が 「奥さん」と呼ばれて憤慨していた話もある。
舞が妹と二人で 別府に旅行に行ったとき、旅館で何度もお母さんとよばれた。まだ18歳のときだ。舞は笑っていた。母親のようにいもうとの世話をする様子が褒められたようで、うれしかったようだ。子供が少々年上に見られることは ほめられている事だ。年配者が年上に見られることは、失礼な事と 憤慨する。特に女性に対しては、失礼極まりない。
私の失敗は 従兄弟のお嫁さんの お姉さんに「お母さんですか」といったことがある。従兄弟が久しぶりに鹿児島勤務になり 引越して来たので家を探して会いに行った、その探しているとき。越したばかりで表札が出ておらず、「ここでは?」と思った家に入っていこうとしている、年配のように思える、女性に 尋ねてみたところ、その家だった。その初対面の女性が、嫁さんのM姉さんの家族だろうとおもったので、 鹿児島に住んでいると聞いていた M姉さんのお母さんだ てっきり思ってしまった。返事は「いえ 姉です」実際M姉さんと対面して 母親にしては若い と わかった。実はM姉さんと会うのは 10数年ぶり。私の記憶の中には 10数年前にM姉さんの姿しかなかった、あのときの姿から 母親と思ってしまったのだ。
その後 その方とは 一度も会ってない。怒っているに違いない。

激しい雨の朝になった。起床した7時頃はまだ 優しい雨だったのだが、8時過ぎると、雨脚が強くなったようで、工房と住居の間のコンクリートの上に雨がたたきつけられるような強い音が 聞こえてきた。窓から庭を眺めると、さっきはまだ明るくくっきりしていたのが、薄暗く、白っぽく見えるだけ。
これだけ強いと、目覚めたときの雨音に気分を鬱陶しくさせられたのと違い、神経が、刺激されたのか、すっかり目覚めよく元気な一日を迎えられたような気分になっている。
そんな中 出荷の作業を終え 午前の配達を、濡れながらも 済ませて、中食取ろうという頃に、雨は上がってしまった。まだ 薄暗さは残っているから、また 降るかもしれないが、そう忙しかったわけでも無いのに、体がだらんとしてしまっている。目がトロンとし始めた。いかんいかんと思いながらも、体調に逆らうのも後々よいことはないと、暫し 昼寝でもしようか。寝すぎにならぬよう注意して。といっても寝てるんだから ままならぬが。

別に意味はないけど、この歌が懐かしくて 今昼1時



朝ドラ「カーネーション」と映画「ジョゼと虎と魚たち」の脚本は同じ人が書いたそうだ。脚本家の渡辺あや のデビューが「ジョゼ虎」。大好きな映画で2度見た。と思ったが 考えたら1度しか見てない。でも 場面場面はっきり憶えている。この映画 興味を持ったのは、「男女で 見た後の 感じ方が 全く違う」ということをある評論家が書いてあったのを見てから。もちろん 池脇千鶴は好きな女優なので 見てみたいとは思っていた。
最後のシーン 下肢が不自由な池脇演じるジョゼと 別れた 妻夫木聡演じる恒夫が、またよりを戻した 大学の同級生香苗と デートの途中、ジョゼを思い出し、路上で号泣する。対しジョゼは 電動車椅子に乗って、結構なスピードで どこかえ、向かっている ただ しっかり前だけを見据えて。
世話をしていた祖母が死に 心配でジョゼの元へ駆けつけた恒夫だが 気の強いジョゼの中にあるナイーブな面に魅かれて 一緒に暮らし始めたが、その先へ進むことが無理だと判断して別れてしまった。一人で大丈夫だろうか と 心配することも7あるが 裏切ってしまった という負い目も抱えているのだろう。一方ジョゼはもう ひとりで 何にも頼らず 生きていく決心をしたように、走っていく。恒夫は後海しているのかも 未練が残っているのかも。どちらの立場で 考えるかで ラストの場面の感想が違ってくるのだ。
恋仲の二人で、男が別れ話を持ち出すと、女の方は感情を乱して懇願するが、分かれた後 しばらくして、男は 未練がましく また 付き合いたいなんていいだす。女は すっかり冷め切って「あんなのもう 別れちゃった」よあっけらかんと口に出せる。 そんなことを テレビで、再現ドラマなどを使って 説明していたのを見たことがある。「女々しい」という言葉 女がそうなんじゃなくて、おんなに対する男の事だったのかな。女々しいのは男だと。

満月だ。大きなまん丸月が出ている。今日は旧歴 17日 ほんとは満月は2日前だった。しかし 雲ひとつ無い空に 大きく赤々と輝いている今夜の月は綺麗だ。魅力的だ。
こんなおおきな月は 小学6年のとき、ひと夏を過ごした、沖永良部で見たのが 最初だったか。その時のことをよく憶えている。その後 与論でも見れた、姶良に来てからも時々見る。こんな素敵な月でも これを見て思い出す苦い経験もある。知り合いで 客でもあった 女性がブログでそんな大きな月のことを書いていたので、同じ月を見ていた 私が 「○さんと 同じ月を見ていたなんて ロマンチックだなぁ」と コメントしたら「勝手にロマンチックにならないで 迷惑です」と 返事がかかれ 翌日にはわたしのコメントも 削除されてた。
怒っているのが 以外だったが、メールして謝罪した。彼女も私のこのブログを見てくれていたが、それ以来 見ていない様子。注文も来なくなった。
普段から 素敵な○さん 綺麗○さん と コメントにはよく 使っていて 同じような感じで 軽く書いたつもりなのだが、どうも 機嫌を損ねてしまった。その日 たまたま機嫌が悪い日だったのか。それを言われたくない不愉快な体験をしていたのか。本人から聞かないとわからない。
喜ぶかな と思った事で 女性を怒らせたことは他にもあった。それが何で怒ってるのか判らないというのが常で 私は女性の心理なんて 全く理解していない という事を肝に銘じておかなければ。
いま 彼女とはすっかり疎遠になってるかといえば そんなことはなく、以前からの知り合いという関係は 続いている。

私が唯一歌える ジャズ スタンダード


久しぶりの 霧島高千穂への配達。天候もよくて 霧島連山の峰々もくっきり。天に向かって昇っていく感じで車を走らせ、おとなしくなった新燃岳の緑が抜けて茶色くなった山頂も間近にみれた。
かえりは いつものように 嘉例川駅へ、ひとが 沢山いる。時間は午前11時半。電車がホームに止まっているが、あの 有名、駅弁「嘉例川 百年の旅」を目当てに来た人たちのようだ。それぞれ 袋に 2個ほどだろうか、弁当の入ったのを 手に提げて 駅舎から出てくる。
やがて 「隼人の風」号も 到着 ますます賑やかに。駐車場が一杯に。展示室を覗くと、先月 放送された「鶴瓶の家族に乾杯」のスチール写真が展示してある。この嘉例川駅でアマチュア写真家と鶴瓶が対面したのは放送されていた。その人が撮ったのだろうか 放送されなかったたくさんお人とのスナップが展示されている。放送された 降車したばかりの おばあちゃん と会話している場面もある。
「隼人の風」号が去っても まだ たくさんの人がいる。いつもの風景とは違う賑わい。記念の書き込みをする ノートが備えられている。それを読んでた人が、「テレビで見て 名古屋から来たんだって」そう ノートに書いた旅行者がいるんだ。駅舎入り口で 「隼人の風 は何時頃 着ますか」よ弁当屋に尋ねている 夫婦らしき旅行者がいる。外に出て駐車している車のナンバーを見ると、佐賀 福岡 宮崎 県外からの車が 結構ある。前回来た2月初めとは 明らかに違う。テレビで紹介されたことで、見た人が興味をそそられ はるばる 足を延ばしたようだ。テレビの効果 あらためて大きい事を 認識。

嘗て 東京の路上で 一億円を拾い、持ち主が現れなかったために、拾得金が転がり込んできた 幸運な人がいた。残念ながら、その後は不幸な目に 毎日のようにあって、大変だったそうだ。大阪でタレントになっているその人のお孫さんが言ってた。ほとんど嫉みだろう。嫌がらせ 脅迫の電話。家の壁に悪言の落書き。得たいの知れない人から出資話 借金の申し出、不思議な団体からの寄付要請。テレビニュースでかおも名前も公表されたため、プライバシーは全く守られず 外出もままならない状態だったという。結局 不動産などを購入して 「もう金は無い」とアピールしたそうだ。さっさと使ってしまって よかったのだろう。
永六輔 が誰からか 教えられたことばとして、 ラジオで離していたのを思い出した。
「自分が 稼いだお金は 大切にしなさい。貰ったお金は さっさと使いましょう。稼いだのだか 貰ったのか判らないお金 そのようなお金は 貰ったらいけません」
偶然懐に入ってきたお金は 流通するために回ってきたもの。使わなければ意味が無い。宝くじの当選金などいつまでも持っていると ろくな事無い。そう思っているけど そんなお金入ってくるはず無いし、宝くじも1万円以上当たったこと無い。当たったとき何に使うかは しっかり決めてあるんだけど。
今日のテレビ で アメリカで180億の宝くじ当選金をめぐっての争いが紹介された 職場の仲間で購入した宝くじのはずが 購入役を担った人が 「当たったのは グループでかったのとは別で、個人で買ったもの」と主張しているそうだ。180億を10人で分けたって18億。この人 180億もって何に使うつまりか。20年 30年で 使いきれないだろう。後 200年くらい 生きてるつもりだろうか。

先のブログを書いてから、テレビを見たら 全国 日本中 強風が吹き荒れているようだ。気圧が986PHというと まさに暴風。これは悠長に気合を入れる風とか、花見の心配とか、言ってる場合ではない。被害が出そうだし、お見舞いkの言葉を準備しないといけないかも。と 反省。訂正しようかと 思いつつも、出来ずにおいてた為に 読まれてしまった。不謹慎と 憤慨された方もいそうで、恐々。仕方無しに お詫びを記したくて また書いている。
夜になって ニュースを見ると 案の定 被害が出ているし、交通も混乱に陥っている。この時期に 台風波の嵐になろうとは みな 思い及ばず、準備もなせぬまま、大きく影響を被ってしまった。
南米では ラニーニャから エルニ^ニョに転じてるとか、気象予報士が言っている。世界の天気が異常に陥っているのか。
これは コーヒー屋にとって、大変な事態。コーヒー生産に大きく影響するし、また 投機対象になって さらに 値上がりするだろう。
やはり 天気に のん気な気分を、覚まさせられた。

春の嵐

今朝は 激しい雨の音で 目が覚めた。(また寝てしまったけど)それにもまして 風が強い。今日は雨 という予報は 昨日聞いたけど、強風のことは 関東地方のことだとばかり思っていた。こんな強風が吹き荒れるとは思わなかった。信号待ちしている時には 車もゆれた。土曜日から 風は強い。好天で 気温も高いのだけど、風が強いという天候。ただ 今日の風は かなりの強さ。薩摩半島の東シナ海側には、暴風警報が出ているらしい。こんな強風のとき ちょっと忙しくなって 配達に走り、回っている。実は 土曜日から、配達の注文がなかった。発送はしているが、電話で配達の注文はなかった。牧園あたりは 自分で配達にいける距離なのだが、時間を費やしたくなくて宅急便にしたのだが、時間はたっぷり余ってしまった。
今日の風は だらだらしている私に忠告して、働けと命じているのか。3日ぶりの配達依頼が 次々入ってきている。幸い 雨は止んだようだ。かぜは相変わらず うなっている。海沿いを走る JR日豊線は減速運転を 余儀なくされたり、甑島他 離島行きフェリーの欠航があったり、不便な状況になっていし 満開を迎えた桜を楽しみに花見などの予定が 花が散って 興ざめにならないかと 心配している人など この春の嵐を恨めしく思っているひとは多いだろう。私だけ 何か勢いを付けてくれている風音に思えていて、体はすぼめて 心はほむほく 皆さん すみません。


日本人のソウルミュージック「ふるさと」の原風景は、JR飯山線が走って のどかな風景。「春の小川」のモデルとなった 東京渋谷の河骨川は東急電車が走り 普通の都市風景。歌詞に出ている風情は全くなく その川さえ 暗渠になって 目にする事はない。「それでも 渋谷の人たちは歌ってくれる」と、作詞の高野辰行のひ孫に当たる人は感謝していた。どちらも高野の作詞 他に 「朧月夜」「もみじ」「春が来た」などもあり、作曲は岡野貞一。
昨日見た「歌の旅人」で、感じた事を ちょこっと話したくなった。どの歌も その風景が鮮やかに浮かび上がってくる。今その風景を見ているような気になれる。その歌詞は 難しい。1910年代の子供のための歌だが、当時の子供達は理解できていたのだろうか、その言葉 言い回しはふだん大人たちも使っていて 聞きなれていたのだろうか。「春の小川」などは その後 2度 その時代の子供にわかる歌詞に かえられている。「すがた優しく 」の元は「にほいめでたく」「ささやきながら」は「ささやく如く」三番まであったのだが 今は歌われない。一方「ふるさと」は 変わらずそのまま歌われている。「うさぎ追いしかの山」を子供の頃 「うさぎ美味しい かの山」と 替え歌にして歌った事は多くの人が経験しているだろう 「かの山」なんて 山の名前だろうと思ってた。「忘れがたき」って言葉も 普通の会話では出ない。でも ふるさとを思う気持ちを表すに ぴったしのことばなのだ。「つつがなきやともがき」も 「ふるさと」の歌詞でなく 別の機に聞いたら、何のことやらと子供は理解できないだろう。でも 「ふつさと」の歌の中では、この言葉でないといけない。ほかに 言い換えられないのだ。「朧月夜」は 高野が 7キロ離れた 高等小学校からの徒歩での帰り道、既に薄暗くなった山々の風景を読んだのだが、「入日薄れ」「霞深し」「夕月かかりて においあわし」という歌詞で その風景は はっきりと想像することが出来る。当然 大人になってからの作詞だから こういう言葉が出てきたのだろうが、子供の頃にみた豊かな自然の情景と 感性をも表すのに 最適な言葉だった。もしかしたら 子供に 難しいと思えるこういう言葉も、すこし 言葉の意味を教えたら、やはりその風景を想像して、言葉を理解できているのかもしれない。子供のほうが 想像力は豊かなのだから。
「春の小川」の原風景も のどかな田園地帯だ。昔 渋谷付近はそういうのどかな場所だった という事がわかる。昔を記録した歌だ。

70年代生まれの若手論客の 討論番組 「日本のジレンマ」の第2回が昨夜遅い時間に 放送されていた。1回目の論題は「世代間格差」だったが 今回は「日本の民主主義の限界」。
後半しか見れなかったけど、前回からの議論が続いているようだ。政治に希望が見えない。興味がもてない そう言う若者に、兄貴分の出演者達が、政治参加の多様な方法を伝授する。選挙だけではない、いろんな政治参加の方法がある。投票しても何も変わらないと嘆くより、政治に自分から近づくように教える。地方議員などは、危機に行けば 答えてくれる。その中で 若者が不合理に感じている事を訴えればよい。
面白い改革案も。「世代間格差をなくすには、それぞれの世代で 国を作るしかない」として 選挙を世代の代表を選ぶように変える 地域割りと別に 世代割りをつくり、議席数を決め、その世代で選挙する。今の政治の影響は 今の子供の将来に影響を及ぼす。だから 子供の代理人としてその親に 子供の数だけ投票権を与える。
大人たちへの逆襲の方法も。「年金を納めても 我々に、十分な見返りは無いと思う」と 年金に不満を持つ若者は、若い世代の 意見を聞かないのなら、年金を納めないと主張する。若者の納入がなければ 年金制度は成り立たないから、大人世代の役人 政治家は 若者の意見を聞かざる得ない。
彼等の世代で語られている言葉なのか、耳慣れない しかし 意味はわかる 言葉がふんだんに出てくる。でも ゼネレーションギャップというものは 感じない。私達も 30年前に感じていた事だから。若者は変わっていない、大人が年をとって 変わっていくんだ。
帰れらが生まれた頃 私は 10代後半から20代前半。討論番組といえば、50代 60代の人たちしか出なかった。竹村謙一と大島渚の喧嘩はよく憶えている。左と右の対立が際立ち、お互い相手を論破することが目的のよだった。若者は 若者の意見に同調できる。従って教育テレビの 「若い広場」「you」を楽しみ、朝日ジャーナルの「新人類の旗手たち」や 「若者達の神々」を読みふけった。
年をとるということの 悲劇は 肉体の衰えではなく、思考が硬直して、若者を理解できなくなる事
 と、今 考えています。