店主の気ままなひとり言
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自由な髪型を。実はものぐさ なだけ。

新聞で改革が進む高校の特集をしている 昨日からは仙台一高。今年、男子校から共学に変わったと言うことで取り上げられているのだが、私が注目したのは、校則の緩やかさ、昨日出てた 応援団長の男子の長髪。制服なし服装自由と言う学校は、われわれの高校時代にもあった。しかし 高校生らしい という大前提の言葉がまずついていて、外見の評価は厳しく言われていた。ただ この応援団長 長髪の外見ながら 内面はより硬派。女子が入学することには反対していたし、男子校としての伝統を引き継ぐこと大事に思っている。もしかしたら はるかに古い時代の旧制高校の雰囲気に浸りたいのか あの頃の学生は羽織袴にぼさぼさの伸び放題の髪というスタイルでいたように伝聞されている。
私の場合、中学で 髪型のカッコいい同級生や先輩を見て、男子校だから女子の目はないのに、かっこよく見られたい色気が出て、刈り上げから上品な7:3分けに。その髪型 40年後の今も同じ。そのときから 教師には 頭髪をしょっちゅう注意されていた。「散髪に行け」と言われても 髪形を変えたくないので 襟剃り という耳上と うなじの伸びた部分を鋏で軽くカットするだけ 150円で出来たと思う。前髪を目の上まで たらす型は譲らず。これ 小学生のときテレビで見た ワイルドワンズの「バラの恋人」を歌ってた キーボードの渡辺というひとを真似ていたのだ。
高校で帰った鹿児島では中学が長髪禁止 丸刈り強制だった。高校もわれわれの入学する 直前に長髪解禁になった。私の入った大島高校が最初に解禁。生徒総会で要求を決議した先輩に感謝したものだ。入学した直後は 他の男子生徒はみな丸刈り、髪が伸びてた私は クラスの調髪委員というのをやらされた。調髪解禁の要望を学校に認めてもらうのに、「高校生らしい髪型を守り、生徒自らルールを決め 乱れないように啓発する」と言うことをも決議していて 生徒会に そのための調髪委員会というのが設置されていたのだ。委員になっても私の髪のこだわりは代わらず、「散髪行って来い」と 教師には年中言われていた。素直に従う訳がなく 髭までも剃らないようにしていると、「髭剃って来い」と言われる。その教師、その後自分も髭を伸ばし始めたのは、意外と私の髭がかっこよかったのでは。高3の後半からは 床屋へも行ってない。中学時代床屋でやってもらってた 襟足だけかみそりでそぎ落とし、それから 大学4年の 9月末、就職活動に入る直前まで、床屋へは行かず 自分ですきバサミなどで髪量の調節だけしていた。自分でやるには 短髪では無理 長髪なら、失敗してもやり直せる。そんなわけで19歳から20代前半、ロングヘヤーに髭まで生やした私の風貌は、仲間内では問題なく受け入れられてたが、世間では異質だったのか。全く女性にはもてなかった。
仙台一高の調髪の彼は、もてようなんて思っていない硬派。自分のスタイルを頑固に守っている。もし私の高校時代が同じように自由だったら、やはり長髪にしたと思うが、理由は 床屋へ行くのが面倒だから。それに 周囲から散髪の圧力が強くなったら、それに抗い続ける自信はない。やはり 言われているのを気にはしていた。だから 卒業後は 伸ばし放題。1年後は下の写真のとおり 19歳にしてはふけてるかな。
  img19619kao.jpg
一昨日 散髪した。10代と同じ髪型に ただ 白いのが目立つのが昔とは明らかに違うところ。
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昭和青春グラフティーで 昭和に話題になった、標語やコピーを特集していた。池田隼人の「貧乏人は麦を食え」大屋壮一のテレビを批判した「1億総白知化」私も知っているものばかりだった。「フジヤマノトビウオ」「東洋の魔女」は 海外のメディアが言ったことがきっかけになって出来たと言うのは 初めて知った。ディスカバージャパンの広告を作った人の話は面白かった。時代の流れの方向に竿さす表現をあえて用いて、「モーレツからビューティフル」を考えて人だ。国鉄の幹部に 農業を体験する女性のピンボケ写真のポスターを見せ「あなた達には理解できないようですね それならこの広告は成功です」と言い放ち、実際この広告は大成功。小柳ルミ子の「私の城下町」も このディスカバージャパンの路線のつながりで出来た曲 いわゆるアンノン族の若い女性達が全国の古い町並みの散策に出かけた。「狭いニッポン そんなに急いで どこへ行く」は、よくパロディーに変えていっていた。「ちょっと待て 車は急に 止まらない」に対して 「ちょっと待て その一口が 豚になる」と司会の関口弘が言った。この言い方 あったんだと 驚いた。喫茶をしていたとき ケーキを一口分残して帰ろうとする 女性の常連客に「後一口 食べなさい」というと「おっと危ない その一口が 豚になる」と返答したのを 面白いことを言う と 感心していたのだ。
私が好きなのは、「泣いてくれるな おっかさん 背中のイチョウがないている」昭和43年東大駒場祭のポスターに 書かれた文だ 書いたのは 今 作家となった橋本治。当時人気だった東映映画 高倉健主演の「唐獅子牡丹」のコピーのパロディーだ。翌年安田講堂の攻防があり、東大 京大の入試が中止。学生運動が吹き荒れてた時代だ。これに関して 日大全共闘運動に積極的に加わっていた ゲストのテリー伊藤が、自分が学生運動に熱心にならざる得なかったあるエピソードを披露。大学の使途不明金の追及で、彼が入学したとき既に 運動は激しくなりつつあった。ある日 講義の休講を告げられ 全員学舎から 出され、校門に向かっていたとき、屋上から 体育系学生の 投石を受けた。駆けつけた警察機動隊が 投石したものを取り押さえるもpのと思っていたら、自分達が捕まった。大学の企みだった。ますます 大学が信用できなくなり、学生運動により熱心になった。
大人たち 権力に対する不信はますます強くなる。汚い大人達というイメージができ上がってしまったのでは
私たちは あの頃の 大人たちより 上の年齢に達している。青年達から 汚い大人 と批判される大人にだけはなってはいけない。

北九州市での 交通事故で ひき逃げした巡査の 逃げた理由が 「上司に叱られるのが怖かった」
50代のこの男のあまりに幼稚ないい訳に あきれてしまうが、この男が警察という公務員で勤務年数もかなり長かったことが、この本音を吐き出させたのだろう。多分警察というのは 特殊な組織だろう。その何より大事な組織に損害を与えてしまうことが、もっとも組織内で避難されることかもしれない。逆に 組織のために真実を隠し続けたものを賞賛しているような事件もあった。不祥事には その上司 またその上の上司の責任も世間から追及される。それゆえ 問題を起こしてはならないと考えるのなら、公務の本来の意義を忘れていないか。組織内の縦関係の4強さに縛られて、同様に考える公務員は多いのではないか。
組織は縦社会 一般企業でもそれは明らかだが 公務員の世界ではそれがより強い。地方の役所など 労働条件はその地ではダントツにいいのだが 「ただ 人間関係のわずらわしさだけが」と その奥様達から聞かされる。本人は他人にそれを言うことは厳禁なんだろうが 家庭では 洩らしているようだ。
縦関係の強さ故か 序列を意味する肩書きが 大事なようで 長ったらしい肩書きがつく。普通の会社なら 課長がいて その下が係長なのだが 公務員では その間に二文字 三文字の似たようで 微妙に違う役名が付く。外部にものからは 何が違うのか全くわからない。
組織として こういう細かい役職にしておいたほうが スムーズな命令伝達には こうりつがいいということで やっているんだろうが、賃金のよさを妬んで 約名を沢山つけて、それに見合う手当てもつけてるんじゃないかと勘ぐってしまう。それと 上からの命令は躊躇せず従うが 横からの要求を受け入れる余地はない。陸上競技協会主催の催事に 小中学校の協力を得ようと、直接出向いてお願いしよう という 意見に対し、元教員の理事長が 「学校は完全 縦関係だから 教育委員会からの支持にしか従わない 部外者がいきなりいったって 聞くはずない」といったことを思い出す。要領のいい人たちは、要望は まず 議員に話して 議員から役所に要望している。そういえば 協会員で 市の教育委員会に勤めていた男が 「うちの会長は県会議員なんだから 市会議員より ちからはある それを利用すればいいのに」と アドバイスだろうか 愚痴だろうか そんなことを言っていた。いっぺんに多方面から 意見や要望を申し出られても、聞くだけに終わり、対処できず 混乱する。支持系統は一本にしたほうが 行政は効率よく動くんだろう。議員が 市の上位にいるなら 議員に投票する 市民は その上ともいえないか、議員を利用するのは主権者たる市民の権利? こじつければそういう理屈にもなる。こうしてもたれあって 世の中 ことがうまく進んでいるのか。それが 嫌いで 私は組織からはみ出したのだけど。


HAPPY MARRIAGEを贈りたい二人

昨日の早朝 まだ7時にもならない時間 メールを見ると 「おめでとう」の件名がある。与論の風来坊君からだ。相変わらず早いやつだ。夜が明けたらおきると言ってた。前日のブログを見て 誕生日を知って このメールを送ってきたのだろう。お礼の返信を送って ブログに書いた与論からのメールが 実は彼のいとこのT嬢であることを教えた。T嬢に誕生日を教えた記憶はないのだが、去年知ったらしい「自分の親友と同じ日だ」ということで憶えてくれていたようだ。与論で今もっとも私と親密な関係の二人。舞のことでは 何度もメールで 励ましてもらった。
二人とも 独身。T嬢は、私が与論に在島してた頃 かわいくて 明るくて 人気者だったんだけど、未だに決定的な男性にめぐり合得ずにいるのか、今は 甥っ子達の良きお姉さま的な状況を楽しんでいるかのごとく、仕事にも充実感を持っているようで、そう簡単には行くこともなさそう。風来坊は なんと言ってもあの肉体美。今も トレーニングは欠かさず、ミスター東京 第2位の体型は健在。その筋肉が 女性に理解されず、敬遠されているのでは という危惧もある。柔和な顔から滲み出るやさしさは、皆が認める。彼の「さすらいの風来坊」ブログ に共感できた女性達よ、風来坊案内の与論ツアーへ参加されよ。

天の娘から贈られた一日

昨日の誕生日 最近知り合いになった 若い人 男なのだが 「誕生祝のプレゼントです」と 菓子折りを差し出された。「いらんよ」「今日 誕生日でしょう」「いや 違うよ」「5月22日ですよね」「そうだけど」「今日じゃないですか」「今日5月22日なの、知らなかった」しらばっくれたりして 素直じゃない。彼のほうは困惑している様子。「何で 受け取ってくれないんだ」と思っているだろう。もちろん誕生日プレゼントを用意したのは彼だけ 他は お祝いのメールが与論から1件のみ。この年で年齢が重なったことなんて祝う気になれないこともあるが、毎年 家族でただ一人 私の誕生日と父の日に お祝いを用意してくれていた 舞から 今年は何も来ない。その寂しさを思い起こさぬように 誕生日には触れたくなかった。
彼のプレゼントの本意は 何度か 車に乗せてあげたことへの謝意なのだが 私が拒否していたので、誕生日プレゼントの口実で 渡そうと考えたのだろう。受け取らないで帰ろうと 車を走らせたが、かれの 親しい女性が出てきて何か 相談している。「もしかしたら 彼女に用意させたんじゃないか、彼女まで不愉快にさせてはいかん」と勝手に理屈をつけて、受け取りにまた 引き返した。お菓子は 舞の墓で 食べた。
去年はメールが来てない「マスクが少なくなったから 買って来て」というメールが残っている。病室でお祝いの言葉はもらった。「今年は何も出来ないね」と言ってたと、記憶にある。そんなことより もうすぐ始まる 移植をがんばれるよう 体力をつけておかなければ、と言う」会話が交わされていた。それから しばらく 病気がいっきに進行して よく月の父の日の時には、歩けない状況になっていた。毎日のように病室に泊まったが、会話はそれほど出来ていない。「もう少しでよくなる」と 私は信じていて そのつもりで舞にも接していた。「お父さん 大丈夫だから 帰っていいよ」、舞は いつもそう言ってたが、私が 舞と 一緒にいたかった。小さかったときには 帰宅すると 舞が玄関に走りよって、いろんなことを語りかけ、学校へ送る車の中では、父の話を熱心に聞いてくれた。いじめられたときも 車で事故を起こしたときも、まず 父にはなしてくれた 時には母に内緒にしようと 二人で話し合うことも。さすがに 大人になってから、父が余りに心配を口にすると うるさがられたが、普通 親には内緒にするだろうという内容も 父に話してくれた。何故なら、父も 若い頃は 舞の青春と同じように、夜遊びの毎日だったから。それが 出水に職を見つけ 移り住んでから メールは時々来るものの、顔を見れるのが 月に1度か 長いときは2月会わなかったり。電話も はじめは 毎日 1時間あまり 話してたのが 後は いくらかけても出てくれない。
それが 入院して 毎日会えるようになった。話もたくさん出来たはずだが 入院中の身に 話題はそれほど多くない。用事の伝達だけでも 会いに行くことは うれしいことだった。そして 舞の重い症状の時でも側にいて 舞を見ていられることがうれしかった。
プレゼントはおいしいお菓子だった。彼は 舞より少し年長。最近 若い人たちとよく会話する。短い時間で 一言二言のばあいが多いが、楽しい。彼ら、彼女もだが、こんな 中年との会話、面倒なのかもしれない。付き合ってくれることには感謝。舞の友人が訪ねてきて 長時間話すことが 度々あったが、私としては 同じ感覚。ちょっと冗談を言ったら 笑ってくれて、楽しい雰囲気になれたら満足。何かしてあげたくて、余計な世話を焼く羽目にもなるし、 たまには不機嫌そうな反応のときもあり そんなときは舞と一緒だと これも嬉しく。
こうして やっぱり 舞が そこにいるとんだ と 認識できる。舞が 楽しい日々を与えてくれてると。触れたくなかった 誕生日は 舞のおかげで プレゼントのお祝いが届き、良き一日になっていた。

陽の当たらない私

本日 快晴。昨日の午後からいい天気。こんちくしょうだ。どうして昨日の朝だけあんなに雲がたちこめていたんだろう。日曜日の新聞で「明日は晴れ」になっている と言うことで 娘が 「金環日食見る 観察めがね 買いに行こう」と言い出し、チラシにそれが掲載されていた、お店に出かけた 時間は午後1時半 チラシにあった300円程度のものを求めて 3箇所の店を回ったが どこも売り切れ、2000円の双眼鏡だけ 残っていたが、300円で購入のつもりなので 躊躇われる。最後に行った4件目 「おととい 200で売ってたけど チラシには載ってなかった」とい 娘の最後の望みをかけて向かったが、やっぱり既に完売。799円のアニメキャラクターの絵のついた商品を購入。何とか手に入ったと、喜ぶ娘は「明日は早起きするからね」と 張り切る。
ところが 夜になって 天気予報が「明日は 雲が出て 観測はむずかしい」と報じられ、悔しそうな様子。はたして と 翌朝 早起きしすぎた娘 また 寝てしまい 肝心の7時には熟睡。起きない。しょうがなく 私だけ昨日買っためがねを持って 外へ。やっぱり 空一面雲 側の堤防には既に 10人ほどの人が来ていて 東のほうに注目している。予定時刻の7時20分になると やはり 薄暗くなってきた 雲の向こうでは 日食が始まっているのだ。金環日食を期待してきた人たちも、しばらくすると「残念」と口にして 立ち去った。
ところが ラジオを聴いていたら 出水や 鹿児島市内でも 「見れた 感動した」と言う 投稿が繰り返し流れてくる。鹿児島市内わずかな時間ではあったけど、雲の切れ間から見れたと言う たまたま通勤のため歩いていたら 見れた と言う人も。悔しい。
3年前の皆既日食のときも そうだった。鹿児島市内 隣の溝辺でも見れたのに、姶良は午前中ずっと雨。全く見れなかった。2回も太陽に見放された か 雲に見放されたか。どっちでも見たかったけど 見れなかった。
そして 昨日の午後からは 晴天。快晴 熱いだけの太陽にしか見えない 今は。

舞台はそれぞれの心の中に

小柳ルミ子の「私の城下町」 城下町とはどこだろう。今日読んだ 朝日新聞「歌の旅人」によると、作曲の平尾昌晃は 病気療養していた長野県の上諏訪の高島城を思い浮かべて作っていて、レコードディレクターは、作詞を安井かずみに依頼に行ったとき、少年時代をすごした 飛騨高山の話で、楽曲のイメージを説明。その安井かずみは京都の先斗町の町並みから 「格子戸」をイメージ 歌った小柳ルミ子は、福岡の実家は格子戸の門で そこをあけると夕焼けは見えるし 大濠公園側で、福岡城跡も近く 勝手にふくおかをイメージしていたそうだ。日本全国 城下町はたくさんある。聞いてる人も 自分に なじみの城下町を想像していたのではないか。もし 城下町に行ったことなくても、この歌で、城下町のたたずまい 雰囲気が 連想でき、自分の中の城下町のイメージが作られていたのかもしれない。
他にも はっきり固有の地名が出ず、聞き手それぞれ 歌に出てくる土地をイメージできる曲がある。西島三重子の「池上線」もそうだ、「池上線のどの駅だろうか」「あの駅のイメージしか沸いてこない」という話題が広がっていた。これは後に 作詞の佐藤順英がテレビで 池上駅であることをばらしてしまった。西島三重子にしてみれば 聞く人それぞれが自分の駅をイメージできてたのに と ばらしてしまったことを残念がっていた。テレビの前に読んだ歌の旅人では記者が、池上駅を探索。2番の歌詞にあるとおり、商店街を抜けたら 踏切があり その先は住宅街で、そこに 実在したこの歌の主人公の実家がまだあることを確認している。このように 歌の中の実在の確認も興味深い。私も 航空写真で 池上駅付近を検索してみた
「歌は 世に出ると 作者の手を離れ 歌う人 聞く人の物になる」と言った人がいた。その歌を聴いて それぞれの思いで聞いているとすると、聞く人それぞれの歌になっている。拓郎の「旅の宿」は最近になって 作詞の岡本おさみが 新婚旅行で行った青森の蔦温泉と言うこを知ったが、そこがどこであるかよりも 歌に出てくる情景のなまめかしさが聞く人をとりこにした。山深い雛の温泉ならどこでもいい。岬めぐりの「岬ってどこですか」と 作曲して歌った 山本コーターローは、ずっと封印していた質問を、思い切って作詞の山上路夫に尋ねたら あっさりと「あれは三浦半島」との答えに、拍子抜けしたそうだ。みんな 九州の端の静かな半島 とか 北海道の雄大な岬とかを想像していたはず。それが東京から遠くない 神奈川の三浦では それまでのイメージが狂う。情緒的に景色を回想させながら聞いている人には、都会からずっと離れた静寂と 雄大さを伴った、美しい岬であって欲しかった。三浦半島もたぶん 美しいのだろうが、山本コータローは拍子抜けしたらしい。
日本人ならだれもが知ってる 「ふるさと」は作詞の高野辰行が 故郷 長野の豊田村の大平山 や斑川を思い出して書き上げたが、歌う人 聞く人は それぞれの故郷や、思いでに残っている土地の風景に思いをはせて 歌い あるいは聞いている。それぞれの人が それぞれに その歌の 場所を持っている。

   昔はよかったなぁ この人も

外が、白っぽい。夜の間 桜島の灰が降ったようだ。外に駐車していた車の窓ガラスは 灰に覆われて、中が見えない。当然中から外も見えない。ホースを引っ張ってきて水をかけ 車を覆った灰を洗い流す。白い灰が 水を含むと黒くなる。さらさらの灰が水を吸って重くへばりついたようにフロントガラスに付着し それを 水圧を上げてホースから水をかけ 洗い落とす。水をかけないで そのまま 払い落とせばいいのでは と思うかもしれないが、粉ではない礫であるからボディーに傷をつけてしまう。
姶良は 桜島の灰が降ることが 少ない土地だが、最近は頻繁に振ってくる と 去年書いた。ここ数年 桜島の爆発回数は、極端に増え、年中 毎日 複数回爆発している。それに伴い灰を吹き上げるから、鹿児島のどこかに灰が降る回数も激増 姶良に振る確立は変わらずとも 回数が増えるのは仕方ないか。
町を走ると どこも 白っぽい。車の天井はみな灰が残ったまま。家々の庭の木々にも灰が降りかかって、白っぽくなっている。ガソリンスタンドの洗車コーナーには 車の列が長く続いている。
昼間に振ると 晴れた空に、真っ黒い雲のように浮かんだ、桜島のほうに尻尾をなびかせ飛んでく隗を見つければ、備える 対応が出来る。夜は 歩いていると突然 顔に 何かが降りかかり 目が痛くなる。運転中ならフロントガラスが白く曇ってしまう。もし 雨の日なら 泥を投げつけられているような状態。冬の間は風が西から東へ吹く。桜島の灰も東側の大隈半島の方へ。鹿児島市内に白い雪が降ってるとき 垂水では黒い雪が降ることがよくある。
舞の墓も 火曜日に降った大量の灰を やっと昨日洗い流して綺麗にしたのに、また 洗わねば成らないな。早めに行って 綺麗に さっぱりとしてあげよう。
厄介な桜島の灰だが 桜島は鹿児島の観光のシンボル。こんなに頻繁に爆発して、何度も灰を撒き散らしているが、エネルギーを少しづつ放出しているのだろう。たまった莫大なエネルギーが一気に爆発したときには 甚大な被害が出るのは確実。今の エネルギーを溜め込まない状況は、安全面ではいいのかも。農家などはかなり 影響を被るし、生活で不便を強いられることにうんざりもするだろうが、これが日常と、慣れてしまえば、不満も軽くなりはしないか。


テレビで与論島が出ていた。以前 ヨロンの風来坊君のブログで、にしきのあきらと定岡正二がやってきたこと にしきのあきらがコンサートをしたことが紹介されていたが、その放送が今日だった ただ 後編とある 先週もあったんだ 見逃した。
にしきのが 城を歩いていた。私が与論勤務時、毎日 行ってた場所なのだが、どこかはわからない。でも 知っている名前が出た。その家があったのは 城の入り口だ。その人物もよく見るとその人だ。私が与論から転出して26年前 最後に与論に行ってからも、20年経っている。その人も26年年をとっているから名前が出なければわからなかっただろう。定岡正二は朝戸の 与論中で野球部の練習に付き合っている。ただ 生徒達は定岡のことをまったく知らないようだ。集まってきた島の人たちから プロ野球の人気選手だったことを 教えられたようだ。この中学校も 担当していて よく言った。ギリシャの神殿をイメージした 体育館の玄関が懐かしい。丁度 建築されたとき、ギリシャのミコノス島 と 姉妹盟約を結んだときだった思う。
夕刻 茶花海岸で コンサートが行われたようだ。この 砂浜に作られたステージ 3月には 与論マラソンのセレモニーで 参加者達が飛び跳ねて踊っていたが、私が在島していたときも、たくさんのコンサートが行われた。なんといっても一番印象に残っているのは 伊勢正三のコンサート。海開きにあわせての企画だったと思う。当時のTDAのキャンペーンガールもよく来てうたった。酒井法子が歌ってたとき ステージに勝手に上がって踊ったやつがいる TIという普段は静かなやつなんだが。まだ 酒井法子デビューしたてで知られてなかった。もし 有名人なら 出来なかっただろう。観客席 と言っても砂浜だが カメラがずっと回って 観衆を 映し出したが 知ってる顔は 3人しか気づかなかった。3人も 20年前と その姿が ほとんど変わってない。
与論島自体も 変わってない。空からの映像で 映し出された 与論島と その海の美しさは ずっと変わらない。山口誓子が詠んだように 原始からのものなんだろう。つまり これからも変わらない と信じることが出来る。やっぱり またまた 行きたい。強くそう思った。

ユンヌ楽園
ユンヌ楽園 ここにも毎日通って 毎日、ジュースをいただいた。九官鳥元気だろうか ここの案内所にいる賑やかなお姉さんのことだ 20年前はお姉さんでよかった。口の元気は相変わらずだと思うが。


ネタが見つからない。今夜は ヒッピー風の私の写真を晒してみよう。23歳のときである。
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髭がないと女性に間違えられていた。髭があっても 後ろからだと女性だと思われた。呼ばれて振り向くと 相手は 困った顔になる。この写真をとった後 すぐに 髭は剃ってしまった。
この髭茶髪だった。髪じゃないから茶髭か。頭髪は黒々しているのに、生えてくる髭はなぜか茶色、金色にもに光って見えた。
この時期 アイスクーリーム工場でアルバイトをしていた。学生ばかり20人位。髭を生やしたアルバイターが3人いた。3人ともカキ氷にクリームを乗せたカップの製造ラインで作業していた。ひとりは、カキ氷を絞り出すホースにスムーズに入るように カキ氷をかき混ぜる。もう一人はカップをセットする、私は最後蓋をする係り。ある日職員が慌てて 険しい表情でやってきた。「見てみい アカンやないか」カップの底にヒゲがあった。頭髪よりはずっと短いから明らかに髭だ。カップのそこだから 前にいるカップを置く作業をしている奴のもの 私ではない。翌日 また 職員がやってきた「気ぃ つけや」 今度は商品の上を見せた 蓋の内側にまた髭がある しかも茶色。私は職員の方を向けずにいた。先頭のやつのヒゲも落ちたかもしれないが、これは 氷に混ざってしまって見つけられない。私たちは工場から支給された 作業着を着け 長靴を履き 帽子を被っていた。まさか髭が混入することなど予想してなかったのでマスクはしてなかった。
この髭面は3年間していた。講義中 教授が「そこの髭 わかるか」と私を指名することもあった。目立つようであくびをしたりすると睨まれた。ほとんど手入れはしないので 均一ではない。両端は濃くて長く、真ん中は薄く短い。ラーメンを食べると スープがヒゲに付き 汚いと言われた。
それでも ジョージ・ハリソンに似てると言われ、気分よかった。メガネをかけると上田正樹。私だけが気に入っていたのかもしれない。この姿で 夏 冬 の休みは帰省していたので 故郷で就職したとき、皆が「ちゃんと ましな 見られる格好になってる」と その職場の人達も言っていたらしい。
女性と間違えられてた 髭を生やす前の写真も 出して 見ようかと思ったが、この写真から髭をとった顔を想像したらそのとおりです。

永井龍雲 ルリカケス

ブログ 今宵の一枚 15日の第1050夜は 永井龍雲「ルリカケス」。初めてこの歌を聞いたとき胸を熱くしてしまって それ以来 この歌がラジオから流れると、じっと動きを止めて聞き入っている。時には涙も出てくる。永井龍雲が奄美に縁のある人と言うのはずっと以前から知っていた。鹿児島には彼のファンが多い。代表作の『道標ない旅」と同じくらいこの「ルリカケス」もよくメディアから流れる。今宵の一枚管理人W氏が 詳しく彼のこと この歌のことを紹介してくれている。「叙情的で美しく、かつ繊細なヴォーカルは大衆の注目と評価を集めるところである」そのとおり。「この楽曲は彼が高校2年の頃亡くなった母上の故郷 奄美大島に行き、その美しい浜辺に感動し、島に生息するルリカケスに思いを重ねて作った」。わたしがコメントせず、W氏の説明で済ませようとしているようで 申し訳ないが、的確なコメントを読んでしまって これ以上のものは出来そうにない。
歌詞に出てくる 瀬戸内町久慈には行ったことがない。島の南端の瀬戸内町の中でもさらに奥まったところにある、(ちなみに名瀬からタクシーで行くと2万円あまりかかるそうだ。)この歌でその風景の美しさを想像できる。永井龍雲はその風景を見て、母の美しさをあらためて実感したんだろう。そして今の彼に繋がっている 母とこの土地に感謝している。
私は久慈出身の知り合いが割と多い。永井さんと 村田さんが多い。元田さんもいるけど。思い返せばたくさんいる。あの小さな集落でこんなに知り合いがいると言うことは 私も 久慈に縁があると、思うことにして、これからも永井龍雲に注目しよう。

今宵の一枚の動画は ライブ映像で とても素敵なんだが、そこまで頼ってしまうのはさすがに。
と言うことで 島の風景写真を使った動画を。
とにかく 聞いてください


姉の勤める病院を訪ねた。去年は舞が入院していた病院だ。姉のいる検査室前の廊下に出ると、ばったり 舞のリハビリを担当してくれていた、理学療法士の女性と会うことができた。舞より少し年長で、この人が来るのを舞は毎日楽しみにしていた。リハビリも頑張った。この人との時間が楽しくて少しでも長くいてもらおうと思ったのでは。高校時代は陸上ハイジャンプの選手だったということ。陸上好きな私も、会話に割り込むと、「お父さんは話さなくて言いの」と舞に釘をさされた。亡くなる前日も来てくれたたが、熱があると言うことで、「また 明日」と言うことで立ち去っていた。その日が最後の対面だった。この人には 一週間後、リハビリ室をたずねてお礼を言った。一年たった今でも感謝の気持ちは続いている。挨拶して 分かれた後、患者の車椅子を押しながらやってきたのが、舞がいた無菌病棟の看護婦だった。この人にも「その節は」とお礼を言った。他にももう一度会って お礼をいいたい看護士が二人いる それと 婦長さんにも。舞と波長が合うというか、舞が気兼ねなく話しかけることができ、難儀なことでも頼みやすく、何より 舞の立場になって考えてくれた。病気が進行してしまった後、面会に来てくれる家族以外の人でも 規則では入室できないのだが、舞の状況を考慮して、許可を取り 面会させてくれた。あきらめて帰路についた人を玄関まで追いかけて、呼び戻してくれた人もいた。
しかし 絶対だめ と言い張る人も 複数いたのだ。婦長が許可してくれてるのに、規則だからと。はるばる指宿からきた友に会いたくて なきながら「お願い。一分でいいから」と懇願する舞に 「できません」としか答えない看護婦には 恐ろしさすら覚えた。もう 病気の治療が不可能とわかってからのことだ。もっとも親しい友人二人に もう会えないかも と思い 私が頼んで 病院に来てもらったのだが、許可を取らずに一人づつ 面会してもらったのを 目撃した一人の看護婦から「あとで 婦長からも言ってもらいますから」と叱責されたが、婦長はそんなこと絶対言わない。家族同様に仲良しだった友に 舞も会いたかった。励ましの言葉も欲しかった。指宿からの友は ほんとに 1分だけと言うことで面会できたが、あってすぐ 「ごめんだけど 帰って」と言わざる得なかった舞。私が 「いいから大丈夫だからいていいよ」といっても 「1分だけの約束だから お願い」という。病気の治療を託す相手に 逆らえなかったのだろうか。あとから 再び 電話で なきながら謝っていた。「せっかくきてくれたのに 帰って って言うなんて ばかだよね」 悲しかった。
仕事とはいえ 舞の世話を づっと担ってくれてる人たち故 感謝すべきことは 承知している。ほんとに 何度でもお礼を言いたい看護士がいる中 二度と会いたくない人もできてしまった。あくまで 私が である。舞は 全ての人に 感謝しているはずだ。


朝日新聞 昨日の「歌の旅人」は「22才の別れ」だった。「一夜で生まれた名曲」と見出しにあるから、簡単にできたのかと思ったら、そうでなく、どうしてもできずに苦しんだ後、期限が来ても納得できる曲ができず、1日待ってもらって、徹夜して完成させた歌だそうだ。1974年のかぐや姫のアルバム「三階建ての詩」の中で 2曲を伊勢正三が作ることになり、1曲はすぐできたが、2曲目に苦労。やっとできたのが「22才の別れ」ということ その1曲目が「なごり雪」。この名曲2つが同時期にできたが できた過程のいきさつは 全く違ったようだ。22才は大学を卒業して、就職する年 青春の終わりをイメージした歌 というのは みんなが思ってた通りだろう。かぐや姫解散後、結成した「風」のファーストシングルとしてこの曲は ミリオンセラーになったが、伊勢正三自身は 「あれはかぐや姫の曲」だと 反発していたそうだ、結局ファーストアルバムに入れることは拒否。しばらくは歌うのもイヤになったと言う。風ファーストのLPは私も持っている。「海岸通」「星空」と言ったなじみの曲があるのに 「22才の別れ」はない。しかし ジャケットの写真 このとき伊勢正三は23か24歳位のはずだが、なんとも貫禄を感じる。10代の私達にとっては少し年長だけど、立派な尊敬できる大人だった。
伊勢正三60歳になったそうだ。自分のオリジナルをずっと守り続けている。彼が還暦祝いのコンサートで最後に観客に向けた言葉が紹介されている。
「生きているって大変。いろんなことがふりかかるし悩みも抱える。でも僕達は何かの目的のために生まれてきたんだろう。光あるところに進んでいると信じたい」



「ささやかなこの人生」も好きな歌で、よく歌うのもこの歌 特に同窓会で 初恋の人に「昔のことは忘れてください」と言われてから。


ブランドものの婦人服のネット販売が好調らしい。実際に手に取り着心地などを確認してからでないと購入しなかったものが、写真を工夫し、縫い目や、ボタンなどの細かいところまで写し、写真の数も20枚ほどと多めにし、また 返品自由とすることで、安心感をもたせ、ネットに親しんでいる30代を中心に売り上げが急増中という。既存の店舗には脅威だが、なんとショップで実物を確認して 購入は価格の安いネットで というひともいるからたまったものではないかも。ショッピングは楽しむもの 買うのはネットで。
家具をネットで紹介して、注文があると、メーカーに連絡し、工場から直接 購入者に送る。販売業者は店舗も倉庫も 在庫させ持たなくてすむ という 家具店の記事を読んで 驚いたのは、7年位前だっただろうか。今ではドロップシッピングが、広く知られ、 商品説明画面はメーカーが作るから素人でも、難なくできてしまっている。ネット販売はより多くの商品情報を提供することが成功に欠かせない。
さて 珈琲の場合写真を出しても ほとんど同じ。味をどう伝えるかが大事だが、的確にそれを伝える言葉を見つけるのが難しい。味よりもコーヒー豆についての説明が細かく、多くなってしまう。産地情報 農園の紹介 管理状態。これは珈琲業者にとっては重要な情報だが、消費者にとってはどうだろうか。高級と言われる豆は 確かに丁寧な取り扱いで、おいしさを保っているが、飲む人の好みに合っているかどうかで、おいしいかそうでないか、違う意見になってしまう。その味と風味を予想でき、おいしそう と思わせる言葉でないといけない。マイルドという言葉は呑みやすさを連想させるが、酸味 苦味どちらにもマイルドさは含まれ、コクがある と言うと 味がしっかり出ていることだが 一般に味の濃さと思われている。ソフトとマイルドのちがいも曖昧。香りについてもいい香り と 強い香りは 同義ではない。これで 購入しようとする人に おいしさを訴えようとすると、「ソフトでマイルドで コクがあり 香りもよい」となるが これはどの珈琲にも当てはまってしまう。違いを言葉で表せないとなると、おいしそうだと連想させる抽象的な表現を用いる業者もいる。夏の香り 森の香り。実際にヘイゼルンナッツのエキスをくわえたフレーバーコーヒーと言うのもあるが、さわやかな風味を連想させるのに自然の要素は適当のようだ。また 形容した言葉によって、実際に飲んだとき、いしきがその言葉に反応して、味覚を変える場合もある。にがみが特徴の珈琲に、マイルドをつけると、甘みのほうに味覚が引っ張られ、にがみが薄れる場合。酸味の珈琲の代表モカを深入りにした場合 「モカの風味を残し」と入れないと、ふつうの苦味の珈琲としか感じなかったり。こうしてみると、実際に店で飲んでもらう時でも 端から、決め付けられたコーヒーの特徴を行ってしまうと飲んだ人はそう感じてしまうのかもしれない。自信のあるコーヒー屋は何も言わずただ 飲んでもらうべきなのだ。試飲ができないネット販売では 工夫した言葉を駆使するしかない。どのコーヒー通販業者も似通ったキャッチコピーになっている。激安 格安 という言葉で誘うことも多いようだが、ブランド婦人服の例の様に、いいもの ほんとにおいしいものを求めている人たちのほうが増えている。信頼できる業者かどうかを判断してもらうことが 商品にたくさんの説明をつけるより大切かもしれない。

中山ラビの「時よおやすみ」を聞いていて、もう一人 大學での友人を思い出した。Iと言う友人は和歌山の出身。大学の近くの下宿に住んでいたので、帰宅途中や講義の合間によく訪ねて、テレビを見せてもらいながら 時間を過ごしていた。このI,のんびり おっとりした性格で、雰囲気がおじさんっぽいのだ。風貌は私のようなヒッピー風ではないが、極めてオーソドックス。一昔前のカレッジスタイルとでも言うか。ただ ふだんやってるしぐさが、板につかない。実家は割りと裕福なのか いいものを使って生活していた、先のテレビも みな 小さな白黒テレビを使ってたのに、普通の家庭用カラーテレビ。出身高校は大成高校。当時 男子のバレーボールが強かった。なぜ中山ラビで彼を思い出したかというと 初めて見た中山ラビのコンサートは彼と行った。田舎で育ったらしく、若者情報が不足していたのか、フォーク ロックの知識がほとんどなかった。同じ高校から来ていた彼の同窓生が 吉田拓郎と井上揚水の名前をしらなかったのには驚いた。以前紹介したロック評論家然としたO君もしばらく同じ下宿にいて、Oに刺激され、ステレオセットはダイヤトーンのスピーカーなどいいものを置いていたが、レコードは何があったのか記憶にない、そもそもレコード持ってただろうか。そんな彼がフォークに興味を持ち始め、私のアパートに来たときには 女性フォークシンガーのレコードをいくつも聞いていた。そういえば、泊まったときには一緒に銭湯に行き、かれの体毛のこさに驚いたなぁ これは関係ない話だけど。そして 実際ライブを見たいと言うことで、中ノ島公会堂での 中山ラビ 佐井好子 ジョイントコンサートだった。いろいろ彼にフォークに関する薀蓄をひけらかしていた私だが この二人をじっさいみるのは 初めてだった。ラビはこの後、「よーどん」というロックの名盤を出しているが、このときのコンサートは生ギターでの弾き語りだった。I君も皆に合わせて手拍子などして、満足そうだった、「よかった ふたりともかわいかった」って どうもアイドル視している様だったが。
彼とはゼミも一緒だった。彼の同窓生も他に二人、箕島のエースだった、T君など 和歌山の連中が多かったゼミだった。今は何をしているのか全くわからない。多分 和歌山で就職したと思う。最後のゼミのコンパで 他の人たちの進路を知ることができたが、唯一 卒論が優でなく可だった彼は参加していない。





韓国の新聞 中央日報のブログが炎上という記事を見つけた。2007年のもだったが ソウルで開かれた世界フィギアで 3位なった金ヨナの方が芸術的に優れていて、より観客を魅了した とか 日本人からもキムヨナのほうが 日本人選手よりも好きという書き込みを紹介したところ 「民族主義的だ」と非難が殺到したと言う。日本からではなく 韓国国内からだ。数年前の中国 韓国であった半日デモなどがまだ記憶に新しく思ってたので、みだしを見たときは、反対のことを予想していた。
光州事件と言われる、大規模なデモを強行に政権が弾圧したのは、1980年だった。あのころから比べると、韓国社会はすばらしく発展している。民主化が進み、人々はより高度な水準で暮らせるようになり、その余裕からグローバルな考えと もともとあった儒教の精神に習って寛容さを持ちえているのでは。保守回帰が見られる 日米や欧州並か それよりも国際化が進んでるのでは。
しかし なんで こんなに韓国を賞賛しているのか。日韓の友好とか文化交流とか親密になっていいことだが、いわゆる韓流ブームには興味ないし、スポーツ日韓戦では当然打韓国。親韓国と言う考えはまったくないのに。
多分 多くの韓国人が日本で暮らし、多くの日本人も韓国で活動している。区別する意識が薄れているのでは。「南 果歩って韓国人なんだって」東京蒲田に住む山元から 蒲田を舞台にした朝ドラで、母親役をしている女優のことを 言ってきたので、そのことをネットで見てみようとして この中央日報の記事が目に入ったのだった。
南果歩は在日韓国人だと、自分で話したそうだ 他にも あの大物 和田アキ子や 井川遥とか 日本人となんら変わらずその活躍を見ている芸能人が在日であることを 隠さず話し出した。出身がどこでも変わらずそこで暮らせるようになったからだ。

こどもの日 子供とは言えない、18の娘を連れ、鹿児島市内へ。昨日から どこか連れてってとうるさい。母親がいないので、父親の私にせがむ。どこに行きたいと言う希望はない様で、どこでも行ければいいようだ。鹿児島市内なら、私も楽しめることがありそう。そこで 繁華街天文館へ。90分100円のいつもの駐車場に入庫して。中心地へ。まずはデパート山形屋を目指す。普段よりははるかに人が多い。絶好の天気。なのに皆 遠出はせず。ここへ遊びに来ているのか。15分ほど歩いて 山形屋へ、私の目的は 3回の画廊。娘もわかっているから文句も言わず付いてくる。「長谷川 彰一展」。抽象化された パリの町並みの風景画 リトグラフが多い。娘には面白くもなんともないだろうと思い。下世話なお金の話をすることに。展示作品のタイトルの下に記してある売却価格について、「10号の絵で 105万だから 1号あたり10万だよ。」比較を 絵描きである彼女の祖父の場合を話す。「じいじは 号あたOO円だからたくさんあるこの大きさの絵はOO円」ところが 娘は私の話に興味は示さず。「すごいね 色がすごい」ちゃんと絵を見ていた。いつものように 展望レストランも 地階でソフトクリームを食べることも望まず、外へ、アーケード内を二人でぶらぶら歩くが だんだん気分が悪そうになる。どうも人の多さに酔ったようだ。山形屋内も アーケードの通りも人が多い。人の少ない脇道に入り、遠回りしながら駐車場へ。次 ショッピングモールのフレスポへ、猫の首輪を買うために 100円ショップに入ったのだが それくらい姶良でも売ってるのにと思いつつも、私も何か掘り出し物でも見つからないかと同行する。その後 自転車売り場 とペットショップを見物して もう満足したように 「帰ろう」と言う。
私にはまだ 果たせてない目的があった。ダイエー鹿児島店まで回り、タリーズへ。ミルクティーとカフェラテを受け取り 一番奥の席へ。辛い話をしなければならなかった。母親と 父親である私の関係について。
二人の犠牲になってしまった娘に、さらに悲しませる事を、あえて その日に言うことを、数日前から決めていた。母親のほうからづっと聞かされているから、そう驚くことはないと思うが、覚悟は必要だっただろう。今の時点で 私が思っていることは全部は話した。娘は 冷静だった。彼女なりにいろんなことを考えていて、それを私に話してもくれた。まだ 未確定の部分はあるが、おおよその先のことは決まってしまっている。しばらく板ばさみになるだろう。両方に気を使うようなことはしないで済ませて欲しい。とにかく 両親が悪いのだ。
帰り道も 帰ってからも 娘は明るく振舞った。戸惑いもあるようだが、きちんと私の話をわかってくれるほどに成長していたことには 感激。端からは親ばかにしか見えないだろうが。散々なこどもの日にしてしまった。

サイモン&ガーファンクルの「ボクサー」をyoutubeでみた。なぜか聞きたくなった。夕方作業をしながら、ふと気づいたら この歌を口ずさんでいた。どうしてこの歌だったのか。作業に この歌のリズムが、効率的にマッチしていたんだろう。再生回数は470万回1975年のライブの音源だが、映像は動画でなく晩年に結成されたときの二人の写真。伴奏はポールサイモンのギター一本。このギター演奏だけでもすごい。レコードのような最後をドラマチックにアレンジするストリングスやパーカッションはない。でも かれらの声と 一本のギターで、観衆をひきつけ、観衆を黙らせて と言いたくなるくらい、静かな中で歌っているかのように、音楽だけが響き渡り 終わったときに黙ってた観衆が きけた喜びを爆発させたくらいに歓声が沸きあがる。なるほど 470万回見られてるだけの演奏だ。一人で10回20回 アクセスした人もいるだろう。

次に見たのは ニールヤング「heart of gold」こちらもまず 再生回数に目がいった。16683935と数字が並んでいる。なに 1668万回。ライブの映像だが、テレビ番組の収録の様でもある。解説に1971年とあるけど、この曲が入った アルバム「ハーベヅト」は 1972年の発表のはずだから、どうなのだろう。1969年にCSNYクロスビー・ストリッシュ・ナッシュ&ヤングで ウッドストックに出演して、その映画で彼を知った。その後すぐ ソロになり、この曲でグラミー賞。日本では「孤独の旅路」と邦題がつけられたが 日本では爆発的人気とはならなかった。わたしが最初に聞いたのは1977年 いとこのR兄さんが持ってたレコードを借りて聞いた。そのレコード借りっぱなし。35年たった今でも私の手元にある。社会人になってすぐ 5歳年下の先輩の車に乗ったとき、イージーリスニングでこのメロディーが流れ「この曲好きなの」と聞くと、「何という曲かわからないけど、借りた テープに入ってたから聞いてる」と答えた。曲名とシンガーの名前は知らなくても、メロディーを耳にしたことがある人は少なくないだろう。
映像では ステージに登場したヤングが ハーモニカを取り替えたり 調節しながら ぼそぼそと喋っている。時おり客席から笑い声が聞こえる。きょくが始まると 観衆は黙って 歌に聞き入っている。こちらもヤングのギター弾き語り。一本のギターと 前奏 間奏のハーモニカと ニールヤングの歌声だけ。そして終わると盛大な拍手。しかし ニールヤングは淡々とした様子。これは彼のスタイルのよう。内心 感激しても表面は冷静に、ニヒルとは違う いつもの淡々として 派手にやることを好まない。
日本での知名度は 断然サイモン&ガーファンクルが上。世界的にもそうかも。しかし アメリカでのニールヤングの人気の高さは きっと相当なものだろう。この1668万回のyoutube 再生回数から そう解釈できる。



憲法記念日。 護憲派 改憲派の集会は今年もそれぞれあったようだ。近年憲法論議は低調かな と 思っている。好戦的首相がいたときには 国際貢献の名目で、自衛隊戦力が 紛争地に派遣され、法の拡大解釈で、憲法9条の意図するところが曲げられてしまうと危惧する、9条を守ろうとする人たち。一方国際情勢は転々とし、現実に即した行動で、世界規模の和平実現に貢献するには、9条を変えるべきだと言う人たち。あの首相のころ、対米協力に熱心故か、いい機会だというわけで 軍事力行使の道筋へ、実績つくりを計ったか、首相人気に国民も引っ張られて、改憲賛成派が増えていた。平和憲法のなし崩しを危惧するひとたちは、日本の役割は他の部門ですべきで、それの基本に 9条があるべきと、強い意思表示を行っていた。
今日の新聞で、護憲の意志を持つ国民が 55%だとあった。少し回復したのだろうか。かつての政権もいまの政権も、護憲の意思は見えない、政権だから改憲を言う立場ではないだけ。集団的自衛権は当たり前 と、野党のころ言った現閣僚もいる。大阪市のアジテーター市長のタカ派的発言も、いま 人気絶頂の折ゆえ、気にかかる。
私は また言うけど、窮屈な暮らしはイヤだ。国の都合で、窮屈にされるなんて真っ平だ。軍事的行動で、国民に協力を求めたって、政権のメンツのため 我慢しなさい と言っているようなものだ。もし 足を突っ込みすぎて、引くに引かれず、徴兵なんてことになれば、今 軍隊をカッコいいと思っている若者たちには 窮屈どころか、悲惨な事態になりかねないことを、常に考えて欲しい。それは 今 想像しているよりはるかに辛い 苦しい 悲しいことだと。とりあえず 今 低調な 憲法論争の中 改憲の声も少し小さくしか聞こえず、単なる休日であることを国民が楽しんでることは幸いなこと。この風が一気に変わる可能性は 常にある ことをも 念頭に置かねばなあらない。


地球の人口は60億人と記憶していたが、去年で70億になっていた。2050年には93億という予想だ。どんどん増えている と思えたが、日本は去年 人口は減ったはず。2030年ころからはアジアは人口減少地域になるという予想もある。ただ 国連は2100年に100億から150億になるという予測も出していて、人口増の問題が収束されるかどうかは不明。自然環境や経済とも絡んで難問として続きそうだ。
70億人がぎゅうぎゅうに立つと、香港と同じ位の面積になるということを 日本未来科学館の岡山悠子さんが言っている。意外と狭い。地球にまだまだ余裕があるんだ。昔 子供ラジオ相談で「人が死ななくなると どうなりますか「という質問があり、回答した無着成恭は「地球にある土地にひとがどんどん増えて言ったら、とちが足りなくなって あふれた人は海に落ちちゃう、結局死んでしまう」答えていたが、そこまでにはまだまだ余裕がありそう。ただ 立っているだけならという話である。世界の50%のひとは 都市に住んでる。食料事情の悪い アフリカでは 平均寿命が40代。高齢化率も9%。富裕層と貧困層、富の配分もうまくいってない。食糧問題 エネルギー問題 社会不安は増大している。もし アフリカの人たちも 日本と同じレベルの生活をはじめたら 地球があと一個必要になるそうだ。先進国でも貧富の差は広がっていて、また 都市部と地方の格差の広がりが問題になっている国も多い、これらの問題の解消がなければ社会の安定はないわけで、貧困国の人たちのじょうきょうが変わらなければ、世界的な規模で 社会不安と なりかねない。「出生地によって大きな格差が生ずる事実は重い」と 先の岡山さん。科学の成果で いくらかの解決は見れるかもしれないが、裕福な先進国が、少し我慢をして 貧困国を助ける という考えも必要ではないか。