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熊本の隈元から 電話が来た。「お前の夢を見た、そっちで順調に行ってるゆめだった。」「順調?そのとおり!」私の即答。
昨年と比べ かなり余裕が出てきた。先ず 鹿児島 姶良のお客様が 変わらず注文を下さることが 大きい。宅急便や メール便で送っているので、送料負担は増えたが、それ以上に利益の確保が大きい。ほんとにありがたいことだ。鹿児島を離れたあと取引が始まった霧島のホテルもある。ほかのお客さんが宣伝してくれたおかげだ。こちらに来て、新たなお客さんも増えている。生活彩館マツオには今まで通りのお客が来てくれている、久しぶりに会った人たちが挨拶と同時に 「マツオでコーヒー買ってますよ」と言ってくれる。ぶどう館でも販売してもらって さらに顧客が増えた。以前 わたしの喫茶の店を利用してくださってた人が、訪ねて来てくれて、「買いに行くね」と言ってくれる。スーパーで買うコーヒーと比べたら ずっと高価なのだが、私のコーヒーを選んでもらって 嬉しい限り。
今後への希望も出てきた。ただ 隈元の夢では「結構大きな店を構えていて 繁盛していた」という。残念ながら そこまでには至っていない。だが 新たな私の夢を 持てるようになった。
あと 数年で生まれ変わる年。その時期を 夢を叶える年に、と 目標を持って、もうひと頑張り。
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雨の日曜日 何故か安心して、2度寝 ぐっすり寝いってしまっていると 携帯が鳴った。鹿児島の大郷からだった。「今 珈琲工房かわもと の前にいるんだけど。」 あわてて店口に行くと、雨をよけ、軒先にへばりつくように彼が立っていた。彼は加治木に住んでいる。私のいた姶良の隣なのだが、会う機会はそれほどなかった。電話では話していたが、実際会うのは、おととしの年末、「先生を囲む会」の時以来かもしれない。お土産に お菓子と、彼が勤務する 伊佐農林高校が生産する よく知られた 豚味噌の缶詰、「更生の素」も入っている。
「叔父さんを連れて 墓参り」ということだが、介護が必要なおじさんを、加治木の施設に呼んで、5年前から彼が後見人となり、面倒を見ているとのこと。
今日で 鹿児島に帰るため、時間に余裕がなかったが、しばしだけ、店口で対話。介護の大変さを語る。体の不調、椎間板ヘルニアで、手術を要すと、言われている。娘さんの成長、初月給から 父親の彼にいくらかが手渡されたそうで嬉しそう。2人の娘さんの父親として、娘を失った私の事を、気遣ってくれていた。通夜に駆けつけてくれた彼に、私が「助からないと分かったとき、いっぱい泣いて、今は涙も枯れてしまった」と言ったらしい。私はそれを重い雰囲気では言ってないと思うのだが、彼は 「その言葉が響いて 忘れられない」と。以前電話した時も そのことを言っていた。もうやがてで、2年になる。ずっと憶えてくれているんだ。
もう一人 失った友 川口の家も尋ね、仏壇にてを合わせてきた。川口のお母さんと、語らいながら やはり思い出して、ふたり涙をぬぐっていたそうだ。
夕方 川口のお母さんを店に尋ねた。大郷君が来てくれたことを、「ありがたい」と喜んでいた。今回も鳥がやってきて嬉しそうに舞ってたかは、尋ねなかった。川口が喜んでいるのは確かだろう。大郷と彼の家で語らったとき、「同窓生って ほんと ありがたいよね」と彼に言われ、もちろん賛意を、口にした。今 その思いがさらに強くなっている。


葬儀で流れる音楽の事で、書く意欲が出て、始めたのだが、故人の事を思い出してしまって、次への展開がし辛くなってしまった。葬送曲でなく 歌謡曲なのだが、故人の思いを乗せて、旅立つセレモニーにマッチしていた。より厳かな気分が高揚してきた。それなのに 「私だったら、どんな曲」「どれがいいだろう」なんて考えてもいた。
鳥越俊太郎が、「自分が最後に聞く曲を探す旅」という テレビ番組で、アメリカを旅しながら、ジャズの演奏を聴いて回るのを見て、「私なら」というのを、以前書いたことがあったけど、何を選択したか、出来なかったのか、憶えていない。鳥越がオスカーピーターソンが好きだと言っていたので、私も同様にピーターソンを中心に考えたのではないか。むかし「田園」で目をさまし、「家路」で、眠りにつく行事をしばらくやったことがあるが、今 クラッシック音楽は身近ではない。もっと賑やかにフォークロックで、ハッピーな旅立ち風に 考えてもみたが、さて、私の人生に影響を与えたというくらいに 大事な曲は覚えがない。好きな曲 思うでの曲なら どんどん浮かんでくるのだが。ジャズに引き込まれた因は、はっきりしている。1979年に、田村翌のライブを聞いた時からだ。彼の演奏は軽快、乗りが良い。ゴスペルで送り出す葬儀をイメージできるが日本では皆が唖然としそうだ。「スイート奄美」なら思いで深い、リストに入れてはおこう。しかし 荘厳な音楽を求めるなら オスカーピーターソンに戻るかな、)一番好きなのはwe get requestのイパネマなのだが、ここは 「自由への賛歌」を選んでおこう。 すべての悩み しがらみから解放され、自由なあの世へ旅立つ曲として 最適。最後のトレモロのメロディの中、警笛を鳴らして 車が動き出す。最高の演出!
しかし わたしの身内に ジャズを好んで聞いている人がいない。葬儀を取り仕切る者に理解されるだろうか。
この曲がわかるだろうか。85歳の叔父はジャズに傾注し、新聞にコラムを投稿したこともある。しかし 彼が私より後まで生きていられるか? これを読んでくれると思う いとこのI哉 Shun兄さん 僕より長生きして 宜しく。
鳥越俊太郎の番組でも 結局 結論は 「これから出会う曲かもしれないし、今は決められない」。もうちょっと頑張って生きて、いい曲にたくさん出会ってみたい。


先月の三浦君のお母様の葬儀は、たくさんの人が列席した。三浦君は友人。同窓生なのだが、少しほかの同窓生とは違う印象を持ってしまう。それは彼がこの町ではあまりに有名人だから。忙しい男だ。なかなか会う機会はい。でも友人だ。彼の活動に賛同 応援している多くの人たちが、お母様の葬儀に来てくれていた。
私にはそのお母様に、感謝の念を抱かせる、思い出がある。小学4年の時、学校の鉄棒から落下して後頭部を打ち、精密検査のため 鹿児島の大学病院まで 行かなければならなくなり、かなりの日数学校を休んだ。その時に三浦君のお母さんが見舞いに来てくれた。わたしの母が喜んだ。私より母を労う意図があったようだ。気の強い母だったが、やはり内心心配だったようで、ありがたい心強い来訪者に励まされたようだ。母は気位が高くて、ほかの父兄からは疎まれていた。私と夕方遅くまで遊んだ友達たちは、「川元君のお母さんに怒られるよ」と帰宅後、言われていた。担任も来なかった。もっともこの担任変わり者。好きではなかったので、来ないほうがよい。それでも 三浦のお母さんは 「きっと不安だろうから」と尋ねて来てくれた。三浦に「君が他人のことをかまわずにおられず 世話焼きなのは お母さんの優しさを継いでいるからだろう」と言った。去年の暮の事だ。謙遜するかと思ったら、「そうだよ。」と答えた。知らなかったがそのころはもう 病気に臥せっていたんだ。
葬儀の挨拶。喪主の三浦は そのお母さんを自慢した。自分の親こそ世界一 とほとんどの子供たちは信じる。
堂々とそれを宣言する三浦は誇らしげでさえあり、この母のもとに生まれた幸せを語った。
葬儀場に五木ひろしが歌う「契り」が流れる。お母様がすきで、よく口ずさんでいた歌だそうだ。その歌に送られ霊柩車が、走り出した。厳かな気分で 私は見送った はずなのだが、最後に送られる時の音楽について、考えていた。手を合わせ、礼拝しながら。        つづく



山口百恵について ちょっと考察。好きな歌手ではなかった。テレビで見ることもなかった。たしかテレビに映っていたら、チャンネルを変えていたはず。でも ラジオでその歌は毎日かかるし、街を歩いてもその歌声は必ず耳に入ってきていた。テレビドラマや映画での活躍で一層の人気を博し周囲が盛り上がっても 私の興味が向くことはなかった。しかし 今は違う。いい歌を歌っている。うまいと思う。綺麗だとも思う。「いい日旅立ち」とか「秋桜」とか、名曲といっていいのではと思う。デビュー当時から引退までを映像で紹介している番組を見て、最初の2,3年と後半では 全く曲相も歌ってる山口百恵の雰囲気も違う と思った。「横須賀ストーリー」から、ぐっと大人になっている。もともと大人っぽい雰囲気なのに、最初は無理にかわいらしさばかり追求して、鈍い感じになっている。曲もセンセーショナルだった歌詞に比し、だらだらした風で、いいとは思はない。それが 阿木陽子 宇崎竜道が手掛ける曲になってから、雰囲気にマッチした 堂々としたい大人の歌になっている。
「前半の頃の楽曲の作曲者は あいつじゃないのか」と思ったら やっぱり 都倉だった。当時 若者に絶大な支持を受けていた フォークに 嫉妬したか?フォークシーンを 批判した都倉が嫌いだった。テレビにやたらと出ていて、すぐ カメラ目線になるナルシストだと 思っていた。それ以前に、私の好きな「あなたの心に」「五番街のマリー」「ジョニーへの伝言」なんて、素敵な曲を作っていたのに、あの フォーク ニューミュージックに対する敵対発言を、雑誌で読んでから、私の中では嫌いな作曲家になっている。確かにブームに便乗して恰好だけフォークシンガーというのもいたが、拓郎や陽水も認めないような発言には憤慨した。それで 山口百恵を敬遠したわけではないが、都倉が自慢していたピンクレディーも当時は好きでなかったが ほとんどが彼の曲だった。
ちょっと話の方向がずれてきたので もうやめよう。二十歳をちょっと過ぎた時に きっぱり芸能シーンから退いた 行動が より 彼女の存在を大きく印賞づけてしまっている。大人っぽく色気を感じさせる、瑞々しい姿を皆の記憶の中に留まらせて。
わたしが見ていたのは「昭和歌姫伝説」という番組 山口百恵同様 ある時から、姿を見せず 伝説の歌手 となった ちあきなおみ も紹介され、「雨に濡れた慕情」から 「四つのお願い」代表曲「喝采」「黄昏のビギン」まで聞くことができた。紹介されなかったが、この曲も大好き。 

山口百恵の歌を期待した人たち ごめん!

久しぶりに 劇場映画を見て来た。といっても 奄美に映画館はない。数年前まで古い劇場を借りて 映画興行をしていた ブックス十番館の川上さんが、劇場取り壊しの後、自分の本屋店舗の2回を 小さなシアターに改造して、常時ではないが、上映会を催している。今日見たのは 山田洋二監督の「東京家族」。題名からして小津安二郎の作品に倣ったものだろうとは思ったが、ほとんど「東京物語」のリメイク版だとは思わなかった。原節子が演じた、一番両親を大切にした、亡き息子の嫁は、父親から「できの悪い」とされた息子の婚約者という設定で、蒼井優が演じている。小津安二郎の映画は大好きだ。安心してみていられる。見終わってほのぼのとした気分を味わえる。穏やかで、「よっかったぁ」と頬を緩ませてくれる。山田洋二ももちろん好きだ。彼が小津安二郎を尊敬して、意識して作る作品なら、是非見てみたい。そのうちDVDで見れるようになるかも。普通の映画ならそう思うけど、この作人は、お金を出しても劇場で 早く見たかった。
やはり映像は 低い位置からとったものだった。庶民の暮らし、その家族の関係が主題。
侯孝賢の「珈琲時光」も小津安二郎にささげた作品。これも好きで、3回見た。普段の人々の暮らしが穏やかに過ぎていく事の幸せを、感じさせたこの映画も、小津の目指したものと一緒だろうけど、技法はおなじではなかったように思う。近くにだれか分かり合える人がいるということの幸せを、教えられ見るたびに幸せな気分になる。
今日見た映画、内容は「東京物語」と一緒だったのだが、設定にいくらか違う点有、キャストも一癖ありそうなベテラン役者故「何かどんでん返しでもあるのでは」と、見ていたが、そんな極端なものはなかった。しかし 2つの場面では個人的に 思い出した、思い出されたことが重なり、涙した。もともとこの年故、涙もろい。息子の婚約者を母親が認めるシーンでも涙がこぼれたが、これは感激したもの。病院で母親が駄目かもしれないと知らされた場面。2年前の、わが身を思い出した。もう助からないと分かったときが一番辛かった。そして看取ったとき。 
もう一つ 父親が息子の婚約者に礼を伝える場面。「あいつは母親のような優しさを持っている。その優しさがあいつのいいところかもしれん。」というセリフ。私の父も同じようなことを亡くなる数か月前に言っていたのを、思い出した。父は私の性格に苛立つこともあった。仕事に対しても「のんびりしすぎ」と叱られていた。妻や子供に甘いことも気にかかるようだった。病に倒れて、毎月 看病のため、帰郷するようになって、私への感謝の言葉が聞かれるようになっていた。病院で看護士に「すごい優しい子だから」ありがたい とそのあと行ったかどうかは聞こえなかったが、「父に認めてもらえた」。そんな気がした。
母親に似たとは思はない。しかし厳しかった母親も 自分の子供に対して優しさは常に抱いていたんだろう。兄とも姉とも違う私の頼りない性格は、いったいどこから、両親に受け継がれたかもしれない一端が見えなくても、持っていた子供に対する優しさだけが大きな割合で受け継がれたのかもしれない。映画の頑固おやじが、やはり息子を愛しているシーンを見て そんなことを思い起こした。
本を買ったとき 割引券をもらった。2人分だった。誰か誘っていきたかった。でも こんなに泣いてしまったのでは。一人でよかった。


近頃は、まじめに、歩いている。やっとウォーキングの習慣が付いたようだ。体重に効果はまだ、出ていない。顔は、頬が少し扱けてシャープになった気がする。
歩きながら音楽を聴いている。娘から貰った(本当は 娘が使ってないので勝手に持ってきた)再生機を、携帯して。ジャズやフォークが記録されている。今日も両耳に差し込んだイヤホンからの音楽を楽しみながら、1時間歩いた。1時間音楽を楽しんだというほうが妥当かもしれない。フォークの特集を記憶させていたはずだが、GSの曲ばかり流れる。ランチゃーズ「真冬の帰り道」ワイルドワンズ「思い出の渚」ゴールデンカップス「長い髪の少女」ハプニングス フォ-「あなたがほしい」リガニーズ「海は恋してる」ハプニングス フォーやリガニーズはフォークグループと認識していたが、先日テレビで見た「懐かしのGSソング」というコンサートに出演していた。しかし これらの曲、自作自演という点で 音楽自体はかなり近いのかもしれない。GSがテレビのアイドルだったという点は決定的に違うけど。先のコンサートには、他界したジャガーズの岡本信がでているから、数年前のものだろう。観客席は5,60代であろう男女が、ぎっしり。中には昔と同じように、曲の合間に歌い手の名前を叫ぶ者もいる。すっかり40年前に戻った気分のようだ。フォークのコンサートでも今は同じような年代の人達で、席は埋められる。GS世代とフォーク世代。該当する人たちの中では、たぶんその境は曖昧なんだろう。どちらにも親しんだ人がほとんどだろう。少年から大人になろうとする年代、たとえば18歳が、60年代だった人はGS。18歳を70年代に過ごした人はフォーク。それぞれより親しんだ量の違いで、意識が違うのかもしれない。演奏しているほうでも 曖昧なというか 線を引かない人たちもいて、さっきのリガニーズ ズーニーブー 鈴木ヒロミツのモップスもGS
だったのが 「たどり着いたらいつも雨降り」をうたった時から フォークになって、スパーダースのかまやつひろしなどはカントリーも GSも フォークもやっている。使う楽器がエレキかアコースティックかの違いもありそうだが、GS全盛のころ、カレッジフォークというスタイルから 日本のフォークが始まったとすれば、割とおしゃれなスタイルという点で世間では同列に見られたかも。60年代のフォークは、楽しいものだった。コミカルなものもあった。割と上品だったのかもしれない。
フォークルや高石友哉が、社会性を含んだ歌を歌い始めてから、変わった。メッセージ性がフォークの真髄と言われたりしていた。しかし 70年代も半ばころになると、やはり優しいフォークが、好まれるようになる。
今日聞いたのも、「長い髪の少女」の次は フォークルの曲が数曲あり、シューベルツ、クライマックスの次は、チューリップ かぐや姫 イルカだ。どの曲も親しんだし 好きな歌。我々同年代のグループで、カラオケをやると、GS フォークどちらも入り混じって みんなで歌う。みんな多感で 楽しかった時に 楽しくうたった歌だから。

今日聞いた一番好きな歌はこれ 


憲法改正についてのアンケート結果を載せた新聞を見て、「困ったことになったぞ」と、思った。9条にかかわる意見で、「武力をもたないと領土問題は解決できない」「憲法9条があると戦争もできない」という2つの意見。
前者は21歳の男子大学生。後者は18歳の女子大生、とある。政治としての側面からみての発言だろう。世界の各国と比べて、戦争をしない日本は異質だ と、いう意見かもしれない。でも政治的な便宜で始まった戦争の結果は人類に大きな損失をもたらす。その悲惨さを理解していないとしか思えない。彼ら、日本の若い世代にとって、戦争は歴史上のものでしかなくなっている。学校で習ったことだけが戦争の知識なのかもしれない。悲惨さを教えられたとしても、過去のことという認識か。試験に出る、ポツダム宣言や講和条約は知っていても、戦争の惨たらしい実情はしらない。「70年近く戦争はないんだから 知らないのもしょうがない」という意見が彼らから返されるかもしれない。これは大人たちの責任だ。以前も書いたが、防衛に関する立派な論文を発表した女子学生に、「先の大戦のことをどう思いますか」と質問すると、「いつの戦争の事ですか?」と返ってきた。彼女は家族や周囲のだれからも、あの日本が起こした戦争の話を聞いたことがなかったという。今 大学生の親は50代前後だろう、我々の世代だ。我々の親は戦争を体験している世代だ。戦争のことに関して内容に差はあったとしても、聞かされ、その悲惨さは教えられたはずだ。それを次の世代へ伝えることを怠った。保守思考の私の父も戦争体験を話した。武勇伝の時もあったが、必ず「戦争なんてバカな事は絶対やっちゃいかん」という言葉で締めくくった。中学の教師だった叔父も、普段は軟弱が嫌い、硬派な保守的人間だったが、戦争で犠牲になった教え子たちを生涯悼み、資格のあった軍人恩給は受け取らなかった。体験者はみなその悲惨さを知っている。子供たちにもそれを伝えたはずだ。我々も受験のための知識を詰め込まれたが、伝えられたことを忘れるはずはない。しかし自分の子供にも受験第一の教育方針で接してしまい、大事なことを伝えなかった。政治の事情で始まった戦争の痛みは、一見経済成長という明るい状況で和らいだふうに思えるが、人々の内心の痛みは永遠に続く。戦争になれば人がかならず死ぬ。第一次湾岸戦争の時、アメリカの高官が「できればアメリカの犠牲者を100人くらいにとどめたい」と発言した。少なくとも100人死ぬのは仕方ないと言っているのだ。何十万人の中の100人、大したことないのだろうか。そんな危険な戦争に喜んで行きますか?戦争を否定しない人達も自分の身に置き換えて考えているのか。
人ごととして自分を対象にしていないのでは。今の自衛隊員は自分の意志でその職に付いて、相当の覚悟を持っているのだろう。アメリカ軍も志願兵だ。しかし ベトナム戦争の頃は徴兵があった。徴兵しなければならないほど、軍の人員が必要だった。戦争が始まって、もっと兵力が必用になった時、死にたくない若者が軍隊へ入るのを拒否したら。「人手が足りないので戦争止めます」となるだろうか。国は 兵士確保のため徴兵に踏み切るだろう。いやでも危険な戦場に行かなければならない。大切な家族を行かせなければならない。
もし改憲して9条に手をつけるのなら、政治的な事情から離れて、最も大切なことを若者に伝え、その上で判断させるべき。どういう事情か知らないが、誤魔化すような言動で、世論をリードしようとする政治家の存在は許せない。こういうものを排除するのは国民の責任だ。正しい国家にしていくためにも、戦争の実態を知らされている大人たちが、世に事実を伝えていくことの大切さ。それを責任と認識していかなければならない。

どこにも行かなかったこどもの日。娘から何もリクエストがなかったから。実は今夜までこどもの日であることに無頓着だった。この3週間むすめから音信はない。 この連休のあいだ何をしているのか、気がかりでメールを送っているが返信はない 会話があればこどもの日のことにも言及されてたんだろうけど。ここ数年、5月5日は母親が宗教活動で留守にしていたので、娘と二人だけで 彼女の希望する近隣のどこかへ出かけていた。小学生の頃は、平川動物園、国分の城山公園 吉野公園、最近は横川の丸岡公園、縄文の森。舞が入院してからは、鹿児島の繁華街をぶらぶらするだけだったが、こどもの日を一緒に過ごせることだけで嬉しい様子だった。舞も一緒に家族みんなで出かけたのは舞が中学3年の時までだったろうか。舞 その年齢なら 友達と出かけたいのが本心だったかもしれないが 姉が大好きな、妹の求めに応じて付き合ってくれた。舞とのこどもの日の想い出は彼女が小学4年生の時から。それまで 年中無休の喫茶店をやっていた私は、こどもの日だからといって休むことはなかった。運動会の時でさえ、終了後すぐから営業していた。その年の5月4日の新聞で、やはり年中無休の飲食店を経営している夫婦の話が紹介されていて、「毎年 こどもの日だけは子供のために店を休んでいる」この記事を読んで、舞に申し訳ないことをしていると反省した。同級生たちは子供の日どこへ行った、お父さんと何をしたと、学校で話し合っていたんだろうに、寂しい思いをさせてしまっていたことに気づいた。お父さんは仕事だからと子供ながら分別を持っていたんだろう。夏休みも楽しませてあげられなかったのに、神社の六月堂に連れただけで「お父さんありがとう」としみじみ言ってくれた言葉に、「ごめんね」と内心で思ったときのことを思い出す。その後妹の子供の日を羨んだことはなかっただろうか。舞も「妹のために」 多くの労をとってくれた。私が舞に頼ってしまったこともしばしば。そんな去年まで幸せだった下の娘も、今年はせがむ事のできる父親がいなくて どんな思いなんだろう。寂しさがつのって、音信を断っているのでは、と 考えたりすると、私だけここでのんびり過ごした子どもの日の状況を悔やんでしまう。明日一日でも行ってこようか。
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昨日の午後、新川沿いを、バイクで走りながら、右手に見える、県立病院に同窓生Nが入院していると聞いたのを思い出し、寄ってみた。ベッドに腰掛け知人と語ってたNは元気だった。わたしが3年前にかかったのと同じ病気。入院して2週間たったということは、退屈でしょうがない時期だろうと、予想はできた。話を聞いて、私よりは軽かったようだ。電気ショックは受けなかったし、ずっと意識はあった。ただ いしきがあったために治療のときの苦しみを味わってしまったようだ。同じようにカテーテルを入れ 風船を膨らまし、血管を拡張して、ステントをセットする。そのカテーテルの器具「一本120万円だって」と教えると苦笑いしてた。その120万円という情報。以前テレビで同窓生の医学者森正樹君が話してたのを覚えていたわけだ。Nも森正樹とは同窓生奄美で彼の講演があったとき、そのあとの宴にも参加して、医学の話を聞いたそうだ。
「森正樹は今夜テレビに出るよ」とNに教えられ、「ぜひ 見なければ」と思った次第。その夜、東京の山元から電話「この後 八時から 森正樹が出るよ。10時までの番組 どこで出るかはわからないけど」
8時になって番組のオープニング。既に森正樹君が席についてスタンバイしている。司会者のすぐ隣。彼ともう一人九州大の研究者にがん幹細胞について、解説してもらう番組だった。説明はよくわかった。すごいことだと思った。「普通のがん細胞は 活発に増殖するとき 抗がん剤に叩かれて駆逐されるが ガン細胞を作り出す基の幹細胞は活動しないため 抗がん剤が効かない。幹細胞はしばらく睡眠した状態でいるが やがてまたがん細胞を作り出し 再発ということになる。このがん幹細胞を破壊する物質が発見されているという。九州大では白血病患者の治療でその効果が見られた。森君の大阪大でも大腸がんの患者に効果を認めたが、ほかのがん治療でどうなのか、これから研究していくらしい。年齢によってその効果はどうか。一生睡眠したままの幹細胞もあるなど いろんなケースを想定して 膨大な治験をこなして、その安全で確実な治療法を探し続ける。副作用と経済的負担に苦しむ、無駄な抗がん剤の投与をなくすためにも、彼らの研究は世界で求められてる、人類の希望につながるものだ。 

4月中にあと1件書こうと思ってたのに、月が変わってしまった。テレビを観てたが11時を回ってそろそろかからなければと思いながらも、チャンネルを探ったら 映画「同棲時代」をやっていた。見入ってしまった。先ほど終わって、余韻がさめぬ故、思い出を語りたくなった。80年代のことを書こうと思っていたのだが、「同棲時代」を見ながら思い出したのは70年代初め頃のこと。この映画が封切られ劇場で見たころのことだ。由美かおるのヌードの立て看板に誘われて見に行った。 高校生の時のこと、確かに一度見ているのだが 記憶にない場面が多かった。ラブシーンは当時衝撃的だったはずなのだが、今では普通の感覚なのだろう。当時テレビで大活躍だった女優のヌードがセンセーショナルだったのか。そういえば同じ頃 酒井和歌子の「誰がために愛す」や 小川知子の「さようならの歌」とか 人気女優の艶やかなシーンを見た記憶は鮮明に憶えている。大信田礼子扮する友人が訪ねて来て、彼女は奇病を患っていたという 設定は覚えているが、その病気が「花粉病」だったとは。今なら「花粉症」は一般的な病名だが あの頃は誰も知らない。でも 僅かでもかかっていた人はいたんだろう。隣の奥さんのヌードのシーンも覚えていたが、その後SMプレイが繰り広げられてたのは全く知らない。美しいヌードに目を釘付けにされが、後のシーンには嫌悪したようだ。結末がどうだったかもわからない。こういう若者の性を表現した映画のほとんどは「せつなさ」を覚えて 終わっているものだが、この映画もその感情は抱きつつもまだ関係は続くようで、結末は先送りのよう。同じような映画はよく見ていた。当時 奄美は民放テレビが放送されず、映画は 娯楽の中心だった。毎週末 見ていたのでは。3件ああった映画館の土曜日は高校生でいっぱいだった。200円の料金は、ラーメン一杯我慢すれば足りた。年2回の「男はつらいよ」「仁義なき戦い」は必ず見た。性に関して興味深々の時期ゆえ それをテーマにした映画、関根恵子の「女子高生シリーズ」や東映でも南美川洋子さんのシリーズ。洋画でもエロティックな連想をさせられたタイトルの映画だと ワクワクしながら薄暗い世界に足を運んでいた。ただ 洋画の場合、ぼかされた箇所がどうなっているんだろう と気になって仕方なく、満足できた試しがなかったのでは。田舎の映画館の洋画はほとんど封切らて一年後にしか上映されない。3,4年前の作品などもあり、画面には雨が降っているように、フィルムが傷ついていたり、途中で切れて中断することも頻繁だった。思い返して洋画で一番印象に残っているのは「ウッドストック」かな、見ていて圧倒された。たくさん見た洋画の隠避な想像を掻き立てる場面は思い出せるが、なんという映画だったか、どんな映画だったか殆ど憶えていない。やぱり 「大脱走」「シェーン」「卒業」「明日に向って撃て」など名画と評されている作品の方がよく覚えている。邦画でも萩原健一 岸恵子の「約束」とか「男はつらいよ」の泣けるシーンなど思い出して今も胸を熱くすることがある。でも主演女優への憧れが大きかったようだ。「赤い鳥逃げた」の桃井かおり。「赤ちょうちん」の秋吉久美子。それに「虹をわったって」の天地真理なのだが、もちろんあの映画の中の天地真理だ。恋人役の沢田研二が「君をのせて」を歌うシーンが気に入っている。のちに 沢田が奥さんになる田中裕子んためにこの歌を歌う動画をこのブログで紹介したことがあるが、この歌もその映画を見た時から大好きな歌だ。あの頃の思い出の人のために私も歌ってあげたい なんて思ったりするが、あの頃の少女たちは今 たくましくなって、「そんなのいらない」ってなるだろうな。