店主の気ままなひとり言
珈琲工房かわもと店主の、ほとんど独り言

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Author:川元 正樹
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訃報

彼とは中学で出会った。あだ名は「バンビちゃん」小柄でかわいい風貌だった。色黒、奄美南部の古仁屋の訛りが強かった。明らかに田舎者、立派な田舎者でいてくれた。試験の成績が学年で2番になったことがある。続けて2回。それは その後の彼を苦しめてしまったのではと思う。有名進学校ではないけど その私立中学でもその成績なら 後々 東大入学も夢ではない。しかし 目立った成績はそのときだけだった。3年生の時かれは 奄美に帰って行った。翌年 私も奄美に帰って、奄美の高校で再会した。様子は少し違っていた。中学ではすこし控えめだった。屁理屈をいうのは同じだけど、高校ではかなりはしゃぐ。人を笑わせるのを楽しんでいた。笑われることを面白がった。そういう自分を作っていたのでは と 今 考えられもする。一流を目指していた。そう推察できる言葉をきくことは多かった。教員をしているお父さんの影響を強く受けていた。革新思想に傾注し、社会学者の著書を読んでいたようだ。その点 大人びた思考をしていたか、父親に近づこうと背伸びしたか。今思い出そうとする高校生の彼は 道化に徹している彼。勤勉は似合わない。すでに大学生になったかなような自由さに、破天荒まで加わり、その点で 同級生の目を引き付けていた。
社会人になって久しぶりに会った彼も、また 印象が違っていた。よく喋る 屁理屈を言う それは同じなのだが、現実の自分で、精一杯努めているようだ。駅に現れた彼はジャージ姿で 少年ジャンプを抱えている。襤褸は着てても一流を目指していた時とは違う。企業に所属し利益のために奮闘している現実のために、理想は理想としての位置に一応格納しておこうと決めたのだろうか。そして その現実を自分でどう消化できていたか、それとも、あいまいにしてその不快さに苦痛を感じてはいなかったか。
彼の奥さまから、東京の山元に昨日届いたメールの事を 山元に説明されても 何のことかわからなかった。まったく 想像すらできないことだ。転送されたそのメールは確かに
彼が先月で逝ってしまったことを伝えている。四十九日を済ませたばかりとある。そっとしといてください ともある。でも はっきり事情を知りたい山元の架電に対して、涙ながらに答えてもらったのは、メールの内容と同じもの 何があったか は判らず。
昨年の同窓会に来た彼は 顰蹙を買うほどに酔って言葉を掃出しあきれられたようだ。だが それも彼らしい。とも評価できる。今となってはあれが何か、かれの中での状態を伺わせるものだったのでは、と 原因を最悪のものと想定して考えると、そう考えてしまう。わからない原因をどうしても推測してしまう。賑やかなだけの彼なら 大丈夫だが たぶん内心に ずっと屈折したものを抱えていたのでは。
四十九日過ぎて あの世へいってしまったようだ 先に行った 川口を見つけたかな?会ったら 「俺も来ちゃったよ」と 二人で 大笑いしたことだろう。

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じぇじぇ!朝ドラ「あまちゃん」の人気は80年代の記憶を懐かしくよみがえらせてくれるところにもある と 新聞のコラムにある。80年代のアイドル達の歌が レコードジャケットとともに登場するシーンが何度もあった。歌を聴いてその時代を思い起こすことは必然ともいえる。テレビの時代といわれたあの頃の番組鑑賞が楽しかった記憶としてよみがえるのだろう。もともと 朝ドラファンは、年齢層が高かった。それに 楽しい80年代を経験した40歳代が加わり、AKBのパロディのような今風のアイドル模様に若い人たちも楽しめるのでは。
ちょっと どたばた風の劇も当時のドラマの特徴に近いのかもしれない。かもしれない と 断定できないのは、私があの頃 テレビで歌番組やドラマを見ることはあまりなかった。周囲ではよく 前日見たテレビの件で 話が盛り上がっている場に出会ったが 私はその話に加わることはなかった
。80年代は「知的余力のあった時代」と、雑誌アエラに書かれていたことがある。80年代を再現した映画「横道世之介」の一シーンを説明するための言葉だ。一方で「相反する二つの流れがぶつかる渦の時代」とも.
サブカルチャー 新人類 ニューアカデミズムなどという単語が出始め、新しい文化の潮流の出現の一方 バブル経済下の賑々しい社会で、テレビのアイドルに熱狂するなど 他方から軽薄のごとく揶揄される文化も。これが 人々を全く2分するわけではなく どちらも受け入れてしまう状況にある。世間にどちらも氾濫していた。立花隆的生き方が羨望されても ビートたけしがヒーローだった。話題になっていた 浅田彰の「構造と力」記号論なんてわけが分からずも手にしてみないではおられず。でも ホームビデオ機の普及で、盛況になったレンタルビデオ店のアダルトという言葉も 「村西」「小林ひとみ」といった固有名詞とともに 一気に世間に広まり認知された。どちらでも 楽しめる時代だったのだろうか。
80年代は 私が勤めていた期間だ。80年に就職。89年に退職。仕事では常にストレスを感じていた。特に前半は、私生活でも曇天のごとき感覚にばかり襲われ、どちらかと言えば 思い出したくない時期だ。後半 与論での生活が楽しかったり、ジャズやランニングの趣味を覚えたことで病的鬱になるようなことはなかったが 仕事のストレスは続いた。多忙過というにではなく、私にとって苦痛を感じる仕事だったということだ。
楽しすぎた70年代に比べてその違い ということで 私の80年代は深いどんより薄暗い霧の中のようなもの。
ただ 鮮やかに残っているのは 本を読んだこと。ジャズの 野外フェスティバルが盛況で それをテレビで見るコットができたこと。与論の人たちには「暗いなぁ」とか言われてたけど、レーニンも マルクスも フロイトもほとんどその内容は覚えてないが、読んでたことははっきり覚えている。なにが目的の読書?
そんな私のちょっと曇った80年代も、周囲の賑やかさは、わかっていたし それを疎ましく思ったこともない。「ひょうきん族」「毎度お騒がせします」「聖子ちゃんに 明菜ちゃんに おにゃんこクラブ」も人が話すのには耳を傾けていた。いま 毎日楽しみにみている 「あまちゃん」で80年代を意識することはない。回想のように流れる歌は懐かしいのではなく、知ってる歌が挿入されている というふうに感じている。あくまで 80年代に疎い私は だ。80年代楽しかった人には その歌が聞けるからこそ いっそう楽しいドラマなんだろう。

82年城島高原ジャズフェスティバル
ディジーガレスビー楽団 アルトSAXはパキート・デリベラ 彼と共演した田村翌トリオは、数日前に名瀬でコンサートをやった。ジャズの会の名前で 電報を送った。そんな思い出がある この演奏 ビデオに撮って 何回も見た。



国分のKUMIさんから注文あり。国分 剣の宇都の「カフェ ルビー」の店主。
だった人 残念ながら 一昨年の12月に閉店してしまった。ボリュームたっぷりのパンメニューと
次々と 新作が出る 種類豊富な美味しいケーキが評判だった。私も 配達で行く度に 試食してと 沢山のケーキをご馳走になった。サンドイッチをパックにして 持ち帰らせてくれること、しばしば じゃなく 頻繁。閉店したとき、また 場所を変えて、始めたいとという希望を話していた。あれだけ 美味しいのを 作れるんだから、是非。と思っていた。剣の宇都は町中心からはかなり離れている。霧島神宮方面へ行く近道なのだが、国分以外の人には知られていない。もっと海に近い方 国道沿いにでも移ったら きっと鹿児島市内からも集客できると思う。
姶良を去るとき 挨拶の電話をしたところ、とても残念がられた。そして 個人的に深刻な問題に直面して 苦悩していることを 訴えた。新しい店の経営に及ぶには程遠い状況のようだ。引っ越す直前 姶良に会いに来てくれて、しばし 歓談できた。電話で、厳しい状況は知っていたから、話しは重苦しくはならず。明るく、ほんとに雑談に終始。このとき これまでの得意客だった彼女が、ほんとに親しい友人になった。長年の付き合いは 信頼できる親友関係を構築していたようだ。
分かれるとき 感謝を伝えると、彼女の方からもっと強い表現の謝意が送られ、別れを残念がる様子も伝わり、「この人とは まだまだ 付き合っていたい」と思った。
しばらく メールのやりとり など あったが、仕事に就いた彼女が 多忙を極め メールも稀になっていた。今回の注文のメールに、今の仕事に見切りをつけ 「また かわもとさんのコーヒーを 広める仕事をしたいです」とある。ずっと私のコーヒーを支持してくれている。いま 得意先となっている 妙見温泉の「雅叙園」「天空の森」「田島館」は彼女のおかげで 取引が始まった。また ルビーとのい取引が始まる。いや 取引はずっと継続していて、注文間隔が長くなってただけだ。これからもお世話になります。やる気が漲ってきた。

今日は 快晴。朝からまぶしい日差しが照りつけている。昨日の夕刻の土砂降りから うって変わっての好天。昨日その土砂降りの中 バイオリンコンサートへ出かけた。といっても難儀を乗り越え、わざわざというわけでもない。私の家から コンサート会場の 奄美文化センターまでは 数百メートル。歩いても10分かからない。しかし 一緒に鑑賞する約束をしていたKさんは いったん 車外に出れば びしょ濡れになること間違いなしの状況で、会場まで車で行くことを提案。行っては見たが、駐車場満杯。臨時に設けられた、隣の水道局の駐車場への誘導を受ける。そこもかなりの車両で既に埋め尽くされ、端っこに止めたその場所 水がたまっている 明らかに靴は水に没してしまう。我が家の駐車場に引き返すことにし。迫った開演時間を気にしながら、数百メーターを急ぎ足で、向かい ぎりぎり 間に合った。こんな悪天候の中 この 車の数。コンサートに来た人の多さは、予想外。ここではそう何度も見れるわけではない 真の音楽家の クラシックコンサート。聞きたく 欲していた人はこんなに多かったんだ。
糸井マキ ヴァイオリンコンサート Inあまみ 奄美市主催で 1500円でチケット購入できたことも
この 人気の要因かも知れぬ。
ハイドン バッハのバロックから始まり、タイースの瞑想、リストの愛の悲しみ 愛の喜びなど バイオリンの定番曲 最後に 待ってましたチゴイネルワイゼン。心地よい音楽に 眠ってしまいそうな私 に比べ、Kさん より熱心にステージに注目し 聞き入っている。休憩時間 バイオリンを習っていたことを告げられる。クラシックに慣れていないので 私と一緒に と言ったのかと思っていたら バイオリンに関して 私よりはるかに磨かれた感性で聞いていたのだ。私の関心の行った所は 演奏時のバイオリンの持つ手が 高い方に向いていること。普通 肩と顎にはさまれたバイオリンの先は下に向かうはずなのだが、糸井マキは胸を張り、背中を後方に湾曲させているような態勢で演奏。バイオリンの先は上に向かっている。もうひとつ 一曲演奏後 その余韻を大切にと、演奏態勢を最後の一音の後、長い時間崩さない。観客もそれまで待ってから 拍手をはじめる。
観客は 年配者が多い。児童 生徒も目に付くが 圧倒的に 年配の人が多い。こういうコンサートのマナーを熟知して、自らも音楽を楽しむこと、聞ける喜びにあふれているのか。待っていたんだ こういうコンサートを。
ジャズや フォーク ロックの、会場一体となって盛り上がるライブに 興奮を覚えるのも 素晴らしい感動だ。クラシックの美しい音 心を洗われるような音楽に触れるのも、生きてる喜びのひとつ。コンサートのあと 私達の余韻も 鮮やかなまま保たれ、しばらく Kさんと語らう時間をすごし これも喜びを実感。
糸井真紀 カルメン 2011年9月東京文化会館


ベッドに舞の写真がおいてある。誰かが置いたんじゃなくて、上の棚から落ちてきた。舞い降りたのかも。
「舞 どうした」「何か言いたいことでも」「父の日のこと」
これまで 毎から受け取った メッセージや 贈り物の事を 思い出してたところだった。
毎年 父の日にはプレゼントがあった。出水に 行ってからは その日にメールが届き、後日 舞の休みの日に、プレゼントを届けに、姶良までやってきてくれてた。嬉しかった。自分は亡き父に 父の日だからといって何かをしたことはない。自分がされて こんなに嬉しいものだったとは!
3年前のその日も 感謝の意を記したメールが来ている。カラフルに編集されて。その半月後、舞は入院した。
一月半後、退院した時にも メールを貰っている。「毎日 病院に来てくれたこと」偶然鉢合わせした 彼氏に「やさしく接してくれた」ことに感謝している旨 伝えている。元気になって もう大丈夫 とそのときは思った。一年後 舞はベッドから自力では起きれなくなっていた。「今年の父の日は 何にもできないね」というので「毎日 舞と一緒にいれることが 嬉しい。それだけ」と言った覚えがある。舞は 骨髄移植を成功させて、元気になって また 仕事に励んで、父の日にはプレゼントして。そういう意欲を持って リハビリの運動も頑張っていた。
思い出すことばかり だが 父の日に舞から、何も来ない と 寂しがったり 悲しがったりは、決して していない。舞からは 沢山の 一生分の大事なものを 受け取っている。思いでも。メールで伝わった感謝は、今思えば、私が舞に贈るべきもの。舞がいてくれた日々の幸せを、どうやって伝えようか。写真の微笑みは、分かってくれたのだろうか、もしかしたら 妹と母親を幸せにできない 父に あきれているのでは。



父の日。 誘われて コンサートへ行った。誘ってくれたのは、先日 あつかましくやまもと達と押しかけた、Kさん。ご主人が支配人を勤めるレストランでの催し物。行って見ると、父の日のイベントとしての バンド演奏と食事を楽しむ会。会場にいたのは ほとんど夫婦での来店者。気を使って貰って、独身者の私にKさん夫婦隣の席を用意してくれた。夫婦二人だけの夜を楽しみたかっただろうに。
楽しかった。バンド演奏が よかった。島でこんな楽しみ方ができることに感謝もしている。
バンド演奏はベンチャーズナンバーが中心。もう 何十年も演奏してきてるのだろう、安定して、しっかり聞かせてくれる。メンバーも、もちろんベテラン揃い。リードギターの人、昼間は作業服をきて、農業をしているに違いない と 思わせる風貌ながら、演奏はしっかりしている。頭髪の事で司会者からイジラレた ドラムの人は、島唄も披露してくれた。いろんな音楽を幅広く楽しめるのも としを重ねて音楽を続けたからこそだろう。リーダーの人はカラオケを使ってのソロ演奏もした。「ゴッドファーザー愛のテーマ」サンタナ「哀愁のヨーロッパ」みごとな演奏だったが、見ていて羨ましかった。ギターが好きな人なら「ヨーロッパ」は必ず弾いて見たくなる曲だ。私も学生時代から 持っていたフォークギターでこの曲を真似た。サンタナの気分で。「帰ったら弾いてみよう」そんな事を思いながら聞いた。楽しい演奏で楽しい雰囲気の中で、Kさんと、たまたま鉢合わせした従兄弟のK姉がダンスを始めた。ステージ前でも 乗ってきたか 酔って来たか、六調の振りで踊っているお父さんがいる。スローバラードに変わると 男女 組んで踊りだした、男性が奥様に手を差し出して、フロアーにでて 向き合う。ほとんどのひとが、フロアーにでて、席に残っている私が恥ずかしくなった。そんな素敵な雰囲気を作ってくれた素晴らしい演奏だった。従兄弟のH兄「どうだ また 結婚した悪なっただろう」。Kさんから事前に、誰か誘ってくることを促されていたのは こういうことだったのか。
3時間半 食事と 音楽と 語らい を楽しみ、カーステレオのジャズでスイングしながら、帰宅。そして ギターを引っ張りだした。今は エレキも持っている。今日聞いたほどの演奏はできないが、自分で楽しんで、ノーキー・エドワーズやカルロス・サンタナの気分にはなれた。

懐かしいベンチャーズ

カルロス サンタナ


NHKテレビのドクターG 、ある患者の症状を、再現ドラマで示して、その病名を3人の研修医が判定する。決定に至るまでの議論を、ベテラン医師が助言をしながらリードする。専門の医療用語が次々出てきて、一般視聴者にはなかなか難しい題材をテーマにした番組。今日のベテラン意志は救急医療の専門医。患者の症状は、一番に喉の痛み。次に肩、むね、そして発汗が激しい。喉の痛み だから 喉の炎症をまず疑う。研修医達も、のどの症状に沿って病名を判断していた。
結論を言うと 病名は「心筋梗塞」だった。初めの段階では、全くその結論には考えも及ばないだろう。当初の予見した病名の確証のための検査をしていくと、喉の炎症がなかったり、特徴的な症状が見られなかったりで、次の病名を、探る。喉の痛みや肩の痛みはその神経が心臓と同じ経路になっているため、心臓からの信号が脳では、肩や喉からのものと錯覚するそうだ。
私が心筋梗塞に罹ったときにでた症状は、胸の痛みと、手の痺れ。テレビの解説で示されたのは胸の痛みだけ。痺れは、あとから診察した国立病院の医師が言ったとおり、脱水症状だったのかもしれない。私の場合、駆け込んだ病院の受付の人が 私の顔を見るなり 表情を一変させたから、明らかに重病だと判断できる顔色でもしてたんだろう。しかし のどの痛み だるさ では 風邪では?といった、軽度の病気を 先ず予想してしまう。例え、それが重い症状だとしても、心筋梗塞と即断には至らないだろう。救急性の高いこの病気を短時間に判断できる 救急医療の専門医。肉体的にハードな印象で見ていたが、神経の疲労度も大変なもののようだ。
番組 最後は 3人の研修医全員が 正解の病名を断定できる。そして ベテラン医師から 医師としての心得を教唆されて、3人感慨深げにそれに頷く。それにしても 豊富な知識とみごとな推察技能 医者はさすがに 医者だ。心筋梗塞の症状も多様なんだ。肩が凝ってたら、心筋梗塞かも? 寝汗をいっぱいかいたら心筋梗塞かも?カラオケ歌いすぎて 喉が痛くなったら心筋梗塞に?そんなわけないか。

吉田拓郎と高橋真梨子

高橋真梨子が 今年 デビュー40年という事で、最近よく メディアに登場している。今日は吉田拓郎がホストを努める番組に登場。以前沢田研二と対談した時と同じ番組なんだろう。最後に拓郎が総評として「いかに旦那さんが素晴らしいか、これが わかった。」沢田研二が妻の田中裕子のために 毎朝 朝食を準備している事に 驚いたが、高橋真梨子のご主人 ヘンリー広瀬は、それ以上に、尽くしている。ミュージシャン高橋真梨子の活動を助けるため、同じミュージシャンの夫が 気を使っているのだろうか、それとも、家事に関して 何にも苦にならぬほどに日々勤めているのか。とにかく 旦那の話で盛り上がったが、高橋はそれに 心から感謝し、夫を尊敬もしている。
番組の冒頭、拓郎が 一番気に入ってる歌のフレーズとして、「五番街のマリー」の、「悪いけれど そんな 思い 察して欲しい」という歌詞を取り上げた。ペドロ&カプリシャスでこの曲を歌っていたのは 高橋 24歳の時、この男が使う「察して欲しい」を 若い女性の高橋が どう解釈したのか、それに興味が大いにわくそうだ。
私も何となしに この部分をよく口ずさむ。歌の主人公の気持ち全てがこの言葉に凝縮されているのではないか。
作詞の阿久悠がこの言葉を用いた事への感服も語っている。作曲者のことには 全く触れず。レコード大賞で作詞賞を獲得した「ジョニーへの伝言」同様 それまでとは全く違う言葉の用い方だった。
沢田の時は 拓郎がよく喋り 沢田は言葉を選びながら、返事をする、というパターンだったが 今日は 高橋真梨子がよく喋った。きっと 拓郎に話したい欲求があったのだろう。ソロになるとき 是非フォーライフレコードに と希望するくらい 拓郎に心酔していたそうだ。高橋の強烈な過去の話は、これまでに何度も聞いた。今日初めて知った事実は、14歳の時初めて上京して スクールメイツに入った。その時の同期に なんと 森進一もいたという話は ビックリ仰天の類。



また 友来る。でも今度は 同窓生ではなく 本当に友人 年齢は3つ下。与論島観光協会長。その役職の会議で やってきた。何で そんな人と付き合いがあるのか。いつの間にかの彼がエラクなったのだ。
知り合った27年前 かれはただの 居酒屋の亭主。もっとも居酒屋は奥さんが切り盛りし、本人は昼間運送店で働き 夜は接待ががり。他所の店で。サイタレ(与論で 大酒のみのこと)のアグンチャー(お友達)だった。しかし 私のほうが一方的に世話になっていたから 年下の恩人でもある。今日もわざわざ 歩いて真っ先に 私の元へ来てくれたのも、心配して 様子をみて 事情を聴かずにおれなかったかららしい。
鹿児島を発つとき、電話で 事情は話してあるが、「どうしてなのか」「ほんとに大丈夫か」直に話を聞いてからでないと 安心できないと、奥さんにも請われたのだろう。結婚した時に 真っ先に彼に合わせるため 与論に行って、喜んでもらった。裏切ってしまったのかな。でも 実情を話し、私の今が 平穏で、満足いくものであることを知ってもらえた。鹿児島での諍いについては、信じられないようだったが。
30分ほどいて、次の用件のため 足早に去った。以前、我が家に泊まって、帰る予定の船に 寝坊で乗り遅れ「まっ いいか 明日帰れば」と言ってたような、のんきな彼ではもうない。名瀬滞在中の予定はぎっしり詰まっているようだ。彼が 去ってから 気がついた。何の持て成しもしていない。水一杯もださなかった。「コーヒー淹れよう」「飲み物出すから 座って」と言ったのだが、「いいから話し聞かせて」と繰り返すので、そのあとすっかり忘れてしまった。夜 奥様に電話すると「あれは ビール と焼酎しか 飲まないよ」って。
当然 奥様にも恩がある。ほんとに与論にはいい思いでばかり。居酒屋は 相変わらず盛況のようで 賑わった声の重なりが聞こえていた。今日夕方彼に電話 すると 早々に テレビの旅番組の収録があり、名の知れたタレント達と一緒に、でるそうだ。22日の夕方6時半からの「もしもツアーズ」って 鹿児島でも視れるんだろうか。
いまや 与論島のリーダーとなった彼。昔から、腹に何も隠すことなく、はっきりものをいう。若者達から 敬愛されていた。年長者からも一目置かれていた、なるべくしてなった役職かも。島の事をよく語った。島を強く愛していた。島の文化を誇りにしていた。大酒飲みも島の文化、これは ほとんどの男達が守っている。

昨日の段階で 陸上日本選手権を見て、「今日はこれを 書こう」と、意欲があった。まだ 明日もある。明日最終日まで 確認してからにしようと 今日に持ち越したのだが、少し 意欲減退。理由は 女子5000mの上原美幸の結果が残念だったこと。5位で タイムもまずまずなのだが、もっといい結果になるはずだった。タイムもベストが出るはずだった。いつものように積極的な走りで好位置についていたのだが 中盤 先頭のラップが落ちたとき、ポケットされた状態から抜け出せず、窮屈な走りになってしまい 調子を乱してしまった。その後も 前の大柄な外国人選手にブロックされ 追い抜こうとしてぶつかったりで、自分の大きな走りに戻れず、最後は先頭から離れてしまった。
しかし ずっと先頭集団にはいて 伸びやかな走りを見せていた。優勝者が「高校生には負けられない」と 思ってたことを口にしてたから このレースの主役級であったのは間違いないようだ。
男子の200mには 橋元晃志がエントリーしていたが 欠場したようだ。今年 20秒35を記録。参加選手中2番目の持ちタイムだったので、大いに期待していたのだが。故障でもあったのだろうか。その200mの決勝が白熱したいいレースだったので、そこに橋元がいれば と思うと残念。
他の鹿児島関係では 女子3000m障害の 後潟加奈子が8位 400mの鳥原早貴が5位。学生チャンピオンも力発揮できず。男子3000scの松本葵のほうは2位と健闘。ロングジャンプの下野伸一郎も2位。110H野元秀樹8位。
鳥原が上位入賞確実と思ってた400mは、高校生の快走に驚き。1位2位が高校生。日本記録保持者の千葉等を 後半ぐんぐん引き離し 圧巻の走り。上体は立ってしまって 腕も横に開き気味なのだが、ピッチは衰えず.
200mは女子の方も 福島の圧巻の走りで、会場は沸いていた。福島の力は日本では、群を抜いてるようだ。ほかにも男子の5000mが最後までデッドヒート 100分の6秒差で決着がついた。昨日も 注目の男子100m,100mHなど やはり 息を呑むほどに見入ってしまったレースは 今年もあった。 女子100Hは 二人がほぼ同体で、フィニッシュ。向かい風のなか 二人が大会記録更新。このツイン美女アスリート、陸上競技を華やかに盛り上げてくれる存在になりそうだ。最も注目されてた男子100mは初めからリードを奪って、リラックスした自分の走りに徹した 山縣に対し、高校生の桐生は、終盤、明らかに力んでいた。追いつこうとあせったようだ。男子の10000mは 見飽きたパターンで退屈。3年連続の優勝者だが、ライバルの後ろをついて周回し、最後の数百メートルのダッシュで先頭にでる。だから いつも 記録は平凡。その後の国際大会で惨敗を重ねながら 考え直したか挑戦した様子もない。 5000mのほうは 中盤飛び出した鎧坂の、積極的な走りに レース事態が活発になり、同じ最後のスパート合戦でも、5000の方がより大きな動きに思えるのは、ランナーそれぞれが積極的で持ち味を出したからなんだろう。
さて 2ヵ月後の世界陸上の選考会でもあったこの大会の放送を見て、「やっぱり こっちがいい」と思ったのは、世界陸上の放送には近年 イライラさせられえいるから。素晴らしいパフォーマンスを見たり 感動した時 その余韻に浸っていたい 競技場の興奮を共有したいのに、直ぐ 画面が切り替わり、タレントが馬鹿みたいにはしゃぐ様子が映される。スポーツ放送なら スポーツを伝える事に徹して欲しい。娯楽性はほんの少しでいい。

追記 女子3000msc 動画をみたら 後潟は最初のハードルで転倒している それから挽回しての8位なら立派。

パソコンに 覚えのないプログラムがある。アンインストールのオペレーションをしてみたら、英語ばかり出てくる。途中、不明の文につまずいて進まない。WARNINGとも出てるが そのあとの文章の意味がわからない。辞書を探したが、どこに仕舞ったか?見つからない。パソコンの画面は止まったまま。迂闊にYESを押して 取り返しのつかない事にでも なりはしないか。こんな時 頼りになるのが、大学で英文を教えている、熊本の隈元。時間は22時40分 遅いのかもしれないが、このままパソコンを止めておくわけにもいかないので、構わず電話。出てくれて、解決。つまりは「閉じてください」ということ。WARNINGは 念のためデータを保存するように ということらしい。
おかげで 無事アンインストール完了。電話はそのあと 1時間近く続いた。
彼は龍郷町秋名の出身。日曜日に、やまもと達と行った、秋名の豪農のは話を切り出したところ、懐かしさに感情が溢れ 記憶が次々蘇ってきたようだ。その家は、集落の長のような 家で、彼も小学生の時 遊びに行った事があるらしい。今は持ち主が違っているが、高貴な雰囲気のご婦人のことをよく憶えていた。そして蘇った記憶は、彼の中でどんどん過去を掘り返し始めている。
小学校のこと。隣村の中学へは山を越さねばならず、頂上から見下ろした校庭で、朝礼が始まりそうなのを見て、慌てて坂を駆け下りる。これが日常だった。それから付近の集落の様子。思い出された記憶が溢れるように語られる。さらに 同窓生のことにまで 話題が移っていく。忙しい男だ。週末は学会、シンポジウムで、全国を飛び回っている。彼は、17年前、同窓会に出ているが、その後 熊本には同窓の誰もおらず、鹿児島で私と会う以外、他の誰とも会うことはほとんどなかった。どの話題も懐かしそう。彼の従兄弟や 甥っ子の話にも及んでいき、あっという間に 一時間。楽しい時間だった。
彼から知らされた驚きの事実。西郷ゆかりの地をめぐっての 先日の秋名訪問。西郷家は 熊本菊池の出だと 話すと。自分の 隈元も菊池から来ているとのこと。そういえば秋名は 肥後という姓も多い。熊本と縁の深いところなんだ。世が世なら 高貴な階級の家柄?彼の子供たちは「どおせ 島流しされた 家系」と言ってるそうだが。

奄美は朝から 大雨。豪雨というほどではないが、かなり激しい雨。我が家の水はけの悪い 玄関前は、足首まで浸かるほどの水溜りができてしまった。
昨日までは つゆの中休みらしく、良い天気だったのだが、昨晩から湿っぽい空気が蔓延し 明け方からは けたたましい雨音を響かせていた。
テレビでニュースを見ていたら、本土は雨が降らないらしい。ダムが干上がりそうな映像が流れていた。降雨量、例年の27%とか。農家は田植えができず 困ってるそうだ。ラジオではまだ紫陽花が咲かないと、投稿ハガキで紹介されている。
そういえば昨年まで、目にしていた風景を 今年は見ていない。姶良は街中にも 田んぼがあった。
ちょっと買い物にいく 道すがら、田んぼの様子を見るのは楽しかった。4月になり 耕運機が、田んぼの土を掘り返す。5月 水が貼られ、6月 田植えが行われ、小さくても 縦横に並んだ苗は鮮やかな緑で よく映えていた。それから 日に日に稲は伸びていく。緑も深い色に変わっていく。夏に入ると 雑草が目立ち始め、赤い昆虫の卵らしきものが稲の茎に目立ち始める。それから穂が出て、籾が大きくなり、黄色く変わる頃には 田んぼに満ちていた水は、抜かれたか?蒸発したか? 更に 地割れまでし始めると そろそろ 稲刈り。秋だ。そして 刈られた稲が、竹などを使って組まれた、馬に、どっさりとかけられ 干される。こんな 田んぼの風景の変化は、いつも 通りかかりのわたしの目を楽しませてくれた。
奄美に田んぼは僅か。私の住む名瀬の街中では 畑さえ見れない。奄美で田んぼがあるのは 龍郷の秋名。ここでは まつり事のために 先祖から受け継いだ稲作を続けている。ほかでは加計呂間の諸鈍に 割と広々と田んぼあg広がってる風景がある。島の農業はサトウキビの生産が主だ。
北部の笠利やほかの島々 徳之島 永良部 与論は 耕地ののほとんどがサトウキビ畑だ。
紫陽花も姶良では梅雨時に、いたるところで 鮮やかに咲いていた。梅雨真っ只中の奄美で、まだ 目にしていない。花屋にはあるだろうか。なぜ島では植生しないのか。鹿児島が雨不足で、紫陽花も開いてないのなら、ここの花屋に届くことはないのか。
テレビでは まだ 水も張れない田んぼが映っていた。今年のコメは大丈夫か。ここで テレビの向こうの事情が こちらにも大いに影響することを悟る。
下の娘が生まれた19年前、前年のコメの凶作で、日本中 パニック状態になりかけていた。外国から緊急に輸入したコメには、悪評が付きまとい、国産米を求めて、米屋を回る日常を過ごしていた。同窓生の米屋Nが、「外国米は農薬基準が緩く、母乳への影響が 心配でしょう」と、少ない国産米を、私のうちに 特別に回してくれていた。助かった。 過去の思い出になってるはずなのだが、また 現実の混乱が起こりはしないか。
災害になるほどの豪雨はいらない。ほどほどに 世界中の町や村に 万遍なく降ってほしいものだ。

「オズ」で、フォークソングを 大合唱したのは、8人。歌ったのは「かぐや姫メドレー」「アリスメドレー」「井上陽水メドレー」残念ながら吉田拓郎のメドレーはなかった。かぐや姫の「妹」から始まり次々マイクを回していく。大きな画面が一つ。テーブルを挟んで向かい合って座ったのに全員画面の方向に向く。一番前の私は対面しているジャンボT(一応女性なのでTIKAちゃんなんだけど)の表情しか見えないけど、後ろから聞こえて来る声は弾んでる。「赤ちょうちん」「賀茂の流れに」は、マイクを持ったひとりがメインで ほかの人は口ずさんでたが「あの人の手紙」になると全員で叫ぶ。ただひとり 島唄が大好きで 演歌の似合いそうな公務員Mくんだけは 歌をあまり知らないようす。でも 顔を上下に揺すって調子をとっていた。アリスの「今はもう誰も」「チャンピオン」「遠くで汽笛を聞きながら」。昔を思い出してるかのように陶酔してる。陽水になると「夢の中へ」「東へ西へ」「傘がない」を熱唱。私の知らない歌もあった。でも 誰かが知ってて歌ってた。長渕剛もあったのだが、ほとんど歌えない。私は好きでない。S君も「長渕剛好かん」我々の世代は多分 あまり聞かないのでは。何曲歌っただろう いや 叫んだだろう。満足して帰ろうとすると、「大高の校歌を聞きながらどうぞ」と言う。なんと  大島高校の校歌のカラオケがあるんだ。今度は皆 立って、円になり 肩を組んで 母校の校歌を歌って締めた。これが3次会 時間は12時を回ったところ。「また 明日ね」と言って別れた Tikaちゃん翌日の懇親会欠席。二日酔いだって。
2次会で 歌おうと思って登録した歌があった。アルコールが入ってない私でも 会の盛り上がりについつられてしまった。ところが 2次会終了までに架からず、みな 席を立ち始めてから かかった、
せっかくなので 一口うたった。「白いページの中に」。残念ながら、キーが合わず。サビの部分はオクターブ下げざる得なく、「長い長い坂道を 登ってゆく」のに、音程は下がってしまった。
陽水メドレーに出てきたこの歌を、次の機会に 挽回を期して 歌ってみようと思う。


陽水と忌野清志郎が作った、ロマンティックな歌。今も持ってるLP「氷の世界」にはいってるこの曲、アレンジがすごい。間奏のピアノに感動。深町純のアレンジだと思ってたら、星勝だった。そのピアノが深町純だ。ギターは高中正義。ニールヤングの「ハート オブ ゴールド」のアレンジにケチをつけたことのある深町だが、「このアレンジには感動」と思っていたのに 違った。でも ピアノは素晴らしい。この曲 いつから好きになったかといえば、はっきりしている。この曲をメインテーマにした、相米慎二の映画「東京上空いらっしゃいませ」を見た時からだ。その頃新人だった、牧瀬里穂と中井貴一のラブロマンスにぴったりの曲だった。


鹿児島から 大郷君がやってきてから一週間。他にも同窓生が続いて帰省している。島にいるもうひとりの大郷君の お父様の通夜の席に突然現れたのは 東京のやまもと。5月末に 帰ることは 知らされていたが、その日とは知らなかった。今回はあの 美人の奥様も同行。一度だけスカイプで 会っていて 噂通りの綺麗な人であることは確認していたが、楽しいひと。同窓生が集まった歓迎会では 人気者。会の主役は旦那のやまもとでなく 奥さんになっていた。おかげで、みんな盛り上がりすぎ、はしゃぎすぎ。2次会では歌って踊って。踊りも島の歌に合わせて踊る。お店「ジャスト パブ」のママ やまもとのお姉さんも騒々しい後輩たちに付き合ってくれた。ついついて行った3次会では テボ君の奥様の「オズ」で、フォークソングの大合唱。翌日は小学校の同窓生 森正樹君との懇親会の予定。「明日もあるから そろそろ このへんで」と、誰かが言うが、他の誰かが歌い出せば また 大合唱。
そして 翌日 昼 コーヒーを買いに 津田がやってきた。その後 食事を共にしながら、仲間の動静を語る。熊本の隈元から電話があったのは前々日。その後隈元からの電話を受けた津田は、「卒業以来会ってない」と言う。卒後20年目の同窓会には隈元も出てるから会っていて、一緒に3次会、オズに行ったのだが、憶えてないようだ。津田と分かれて2時間後 私の留守中に 訪ねて来たのがNAさん いつもコメントくれるnaさんだ。ビックリ!だが 森正樹君の講演会があるのだ。
彼女、同窓生が集まる時には必ずやってくる。福岡から。それに合わせてやってきたのは 彼女ならびっくりすることでもない。その晩、2次会から参加した懇親会。2次会はもう懇親会ではないか?ちょっと騒々しいお店でも、いつものニコニコ顔を崩さない森先生。我々に対しても 低姿勢。ノーベル賞を期待されてるほどの人なのに。だから こうしてみんな集まるんだ。先ず 舞のことで、九大の教授に声をかけていただいたり 亡き後 メールをいただいたり お世話になったことで 感謝を伝えたが、あとは小3の時のやんちゃ話。ほかの人たちもこの際と、医療について質問をする。それに丁寧に答える。日本のトップの医師にただで 診察してもらってるようなものだ。
翌日 公民館であった 講演会は沢山の人。中でも 同窓生の顔があちこちに見えた。がんの最先端治療についての話。ひと月前テレビで彼の話を聞いた時のように、彼のおかげで ガンも怖くなくなるかも と思う。話の途中、聴者が飽きないようにか?彼の同窓生の俳優ラサール石井の話も出て、楽しくも、ありがたく 感心する公演を聞き、naさんは足早に 福岡へ戻っていった。
翌日 昨日だが、西郷さんに詳しい Tが やまもとに 龍郷 笠利の西郷に縁のある地を案内するということで、私も車に同乗。なるほど 秋名の豪農の屋敷とか、愛加那の墓、息を引き取った畑
。西郷が開いた寺小屋の建物。私が知らなかった、おそらく島に住む多くの人も知らないと思う、場所をおしえてもらった。赤木名小学校にある 西郷像は、赤木名でも気づいてない人がいたり。
その赤き名に住む同窓生、テニス部のマドンナHさんに会いたいとやまもとが電話をする。快く迎えてくれた。家庭に入った女性には いくら同窓生でも会いにいくことはためらわれるものだが、やまもとは、何もためらうことなくやってしまう。そして難なく受け入れてもらえるのが彼の魅力かも。
話が弾み 一時間滞在。彼女が 私の中学の同級生 マツオの長男と同じ会社に属していると知りびっくり。彼女は 松尾くんのお父さんが私とやまもとの同級生としり びっくり。
その夜、つまり 昨日の晩は やまもとに連れられて、あるバンドの演奏を聞きに、文化センターへ。そのバンドの紅一点は、最近CDを出した、やまもとの小学校の同級生、前田静代さん。見に来ていた中に もうひとりNさんがいて、やまもとは東京の同窓会でいっしょになることもあったそうだ。
私は島の中学を卒業しているが、通ったのは 3年の3学期 60日だけ。卒業アルバムに載ってないので、知られていない。前田さんは 旧姓内田さん。彼女は憶えている。Nさんは、顔に見覚えはあるが、その名前は、聞いたことない。ライブの後、メンバーのイギリス人、デビットとその妹さんをお供して ネオンの街へ、ただし お酒はなし。英会話を勉強したやまもとが、デビットさん等と英語での会話を楽しんで、長々と。私はやまもとに付き合ってづっと。
その やまもとも 明日 東京へ帰る。同窓生との交歓ばかりで、家族とはゆっくりできたのだろうか?三味線を習ったり、ダイビングしたり、川口のお母さんも訪ねたようで、おおよその目的はこなせたようだ。また近々来るだろうと思う。あの 奄美を気に入っくれた 奥様にせがまれて。
私も 同窓生とばかり過ごしていたような一週間。毎晩のように出かけてもいる。でも 次 誰か帰ってこないか、もう 期待している。この一週間が楽しくて、また そんな一週間になって欲しい。



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