店主の気ままなひとり言
珈琲工房かわもと店主の、ほとんど独り言

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7月最後の日は、台風の影響で大荒れ。昨夜から強風に雨。今朝は雨も強くなり、いつもなら明るい陽差しでまぶしい朝6時が、夜が空けきれぬような薄暗さだった。奄美では明日から祭り。先ずは花火で幕開けの予定だった。2週間後に延期。他の行事は、多分 台風は早めに通り過ぎるだろうとの予測で、予定通り行われる。ただ 家族みんなで楽しめる花火の延期に落胆した市民も多いようだ。
7月は熱かった。スポーツイベントも多い。高校野球、中学総体。ローカルでは「郡体」と呼ばれる、一般人のスポーツ大会本当は、「鹿児島県体育大会、大島地区大会」なのだが、大島郡の大会で「郡体」。でも奄美市は大島郡ではないから適切ではないのかもしれないが、昔からそう呼ばれてみな 認識している。
過去にはわたしも、陸上10000mや5000mに出て ビリでゴールしたこともあった。その後審判員を長くやっていた。今は見るだけ。物足りなさも感じるが、この炎天下で、ずっと立っているのは今のわたしには無理だ。
今年はテニスを見に行った。与論から親しい二人がやってきたから。わたしが与論の選手として、走っていた頃、R君はバレーのエースアタッカー、I兄は、野球の監督、その当時で、40歳は超えていた。まず Iやかの試合。与論では年上の男性に「やか」ということばをつけて呼ぶ にいさん の事だ。そのIやかが元気に走っている。ボレーを決める。口も絶好調。勝利した。試合後わたしを見つけて、「体型が違ってるね」やっぱりわたしの出っ張った腹に目が行くんだろう。「今 何歳?」「うーんっと、59歳から年は数えない事にしてるんだ」 鹿児島にいるとき電話で話したことがある。「もう 還暦だよ」と言っていたのは、何年前だったっけ。結局68歳だと白状した。すごい 68歳で あんなに走れるなんて、ダッシュできるなんて。彼がエントリーしてるのは45歳以上のクラス。多くの選手は50代だろう。一回り以上若い人相手に、あの プレーは驚きだ。次の試合も勝利。見ていただけの私は、炎天にさされて頭が痛い。そういえば5月にまた 孫が一人増えたなんて話もしたっけ。恐るべしスーパーおじいさん。その夜。慰労会でも絶好調。おおいにはしゃいでいた。というのは、メデオのコズエ日記のやかの娘さんからの情報。一方Rは、年齢54歳、見るからに若若そう。しかし かれは一般の部に出場。やはり20代のせんしゅには勝てなかった。このふたり20年前、奄美で県大会会った時にも大島地区代表で出場している。ずっとテニスを続けているんだ。もう一人女子で、Fさん 彼女も与論であってたときはバドミントンチームのアイドルだった。今は、ン才?こちらも立派。まさか 与論に他選手がいないと言うわけじゃないだろうな
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「二つ目の窓」鑑賞感

笠利 用安で思いっきり歌った翌日は、その用安を中心に撮影が行われた映画「二つ目の窓」の鑑賞会。朝 10時の上映を観に、龍郷へ走った。
とても綺麗な映像だった。ただ 冒頭に出たのは ヤギの屠殺の場面、きられた喉から、真っ赤な血が滴り落ちる。奄美の自然もだけど、文化もきちんと表現しようと言う、監督の意図だろう、それは、ヤギの命から人々の命が保たれる、後で出てくる命から命へ繫がるという、主題をもあらわしている。その前の映像は、海だが、穏やかな綺麗な光る海ではなく、暴風に荒れる激しい波だ。これも 島の現実。最後の場面の、海の中を裸で泳ぐ、二人の男女の美しさと澄んだ青いうみの美しさが、見た人には深い印象を残し、「綺麗」という感想に至ると思う。二人が葛藤を乗り越え結ばれるシーンがマングローブの林の中であったり、自然におおわれ、関わってて成長していく姿にも美しさを感じた。
母の死に直面した少女と、離婚家庭で、母の愛は覚えながらも、女性としての振る舞いを許せない少年。この映画の重要な設定だが、一般にも特別な事ではない。わたしも娘に家族の死と 両親の離婚を経験させてしまった。それを受け入れるための葛藤の表情を主演の二人が迫真の演技で表現している。エキストラで出た、大島北高校の生徒や村の人たちの演技も自然で素晴らしかった。河瀬直美監督の作品の特徴でもあるのだが、母の死に立ち会った、笠利のたぶん佐仁の人達だとい思うが、演技でなく、実際の状況に接したときと同じように喋って、本当に自然のまま。時々島口も出てくるけど、わたし達には耳慣れたもの、違和感など全くない。
上映終了後、関係者の挨拶があった。河瀬直美監督、主演の 村上虹郎、吉永淳それに音楽のハシケン。みんな 長期間 島に滞在したという。特に、村上は、母親役の渡辺真紀子と、用安の民家に 二人で3週間住み込んで、母と息子の疑似体験で、役つくりをしたと言う。とにかく どの場面でも苦労して、全力で演じた。やはり すごいことをやって、すごい映画ができたんだ。
その後、サイン会。皆 サインを貰いながら、映画を讃える言葉を送っているのに、わたしは 監督が最後にくれた メッセージ「自分とは違うものを、受け入れることが大事」という言葉に共感していて。「監督の最後の言葉 ずっと 胸にとどめ置き、監督の言葉として伝えていきます」と、話した。河瀬直美監督はきょとんとした 顔を見せながら「あっ ありがとうございます」と応えてくれた。余計なこと言っちゃった。悔やんでしまって、吉永淳さんと握手するのを忘れた。

サマー フォークソング イン ばしゃやま

東京から帰省した、山元が、浜辺でライブをやったのは、20日の日曜日。場所は笠利町用安、リゾートばしゃ山の砂浜。
このライブの事を知らされたのは、一月前、今回の帰省は、奥様のご兄弟達を奄美に案内するため。で、宿泊をばしゃ山村にしたところ、ライブができる場所があるとわかり、準備を始めたようだ。それから、「同窓生で、フォークを好きな人教えて」と連絡があり、奄美在住の同窓生のほとんどが、山元からのメールを受け取ったらしい。選曲も来てくれる人にふさわしいとか、関連のある歌をピックアップ。わたしには、「あなたは、花嫁でいい?」と言ってきた。「何でもいいよ」と返事したが、てっきり 独身のわたしのために 彼が歌ってくれるものだと思っていた。まさか 自分で歌うことになるとは。
当日夕方、ホテルの前を探したがいない。電話をすると、「浜にいる」。砂浜にステージが設置されている、そのうえで、山元がギターを弾いている。音響設備も立派に備わって、ばしゃ山の職員が、ミキシングを、してくれている。聞きに来る人達のために、飲み物 おつまみを提供できるように、ビールサーバーなどの準備もされている。「えぇ~ 本格的」歌集も50冊山元が自分で作ってきた。「こんなに来るの?」 「100人集めるのが目標だった」と。残念ながら、同窓生十数名に、笠利の人、宿泊中の観光客など、30名から40名くらいが、ステージ前のシートに座ってくれた。宿泊棟やレストランから見てくれている人も合わせると。50人超してたかも。
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6時半開始、最初に 何故か「恋するフォーチュンクッキー」浜辺に 同じユニホームを着けた、若い女性達がいる。山元が大島高校甲子園出場の記念Tシャツを購入した事で親しくなった、しまかわスポーツのお嬢さんとそのソフトボールチームの人たち。わたしも知ってる、みなと通商の看板娘もいる。彼女達に踊って盛り上げてくれるように依頼してたんだ。その通り 彼女らは、浜にいた、観光客、子供達も、大勢を誘ってきて、壮観なダンスシーンを見せてくれた。
さて フォーク好きの同窓生。則と盛も自分のギターを持参。山元と一緒に演奏してくれた。彼らの演奏にあわせて、一人ひとりマイクを手に歌う。山元が一緒に歌う。そうでないと、酔っ払ったうたいては、調子が外れる。結局一人で数曲歌うことに。私は 「ある雨の日の情景」「さようなら」「生活の柄」のコーラスと。「花嫁」をフルで。途中、笠利の住人の「落葉」観光客の「遠い世界に」「なごりゆき」の飛び入りもはいり、ばしゃ山からのデュオの演奏で「プカプカ」など。
さて 後は 盛の歌う「サイモンとガーファンクル」の3曲となったところで、雨が。「ボクサー」を歌ったところで、機器を雨から守るため、シートをかぶせ、「最後にフォーチュンクッキーを踊って終わろう」と また しまかわガールズを呼んでダンスして終了。
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砂が付着し、雨に濡れた山元のマーチンのギターが心配だったが、彼の濡れた顔は満足そう。
我々も 思った以上に楽しかった。来年もやろうと話した。司会をした山田に後日聞いたが、「酔ってて良く覚えてない」だって、はじめから酔っていた長には当面会う予定はない。
帰宅して ギターを引っ張り出した。高石友也の「街」を挽いた。それから ちょくちょく 弾いている。来年のために。

3年目

舞の命日、写真の前に、ポッキーとミルキーを供えた。いつもの「なっちゃん」のオレンジジュースと。ポッキーとミルキーが舞の好きなお菓子だと知ったのは、舞の入院中。病室にやってくる友達が 決まったようにこれらを持ってくる。友人らの間では、この大好きなお菓子は有名だったようだ。白状すると、あまりに多すぎて、わたしが持ち帰ったことも。わたしもミルキーが好きになった。
命日ということで、昨晩から、メールが入ってくる、舞の同窓生達だ。命日を憶えてくれていて、ありがたい。「毎日 舞の事を思い出します」と、言ってくる人も。
3年の間に、多くの同窓生は結婚し、母親になった人も。先日久しぶりに会った小学校の時の仲良し,Sちゃんのお父さんに、尋ねたら、「Sは丁度、出産で、入院中」と言う。「おめでたい事」で、そう挨拶を返したが、実はその後、悔しさがこみ上げてきた。幸せになって欲しかった。しかし 舞は、そんなこと思ってもいないだろう。立派に母となり、素敵な奥さんになり、あるいはキャリアを積んで、活躍している人たちを、わが事のように、喜んでいるだろう。激励もし、おおいに讃えてもいるだろう。友達みんなの幸せが、舞の喜びだと思う。
多分 情けない父親を叱りつけたいのかも知れない。舞の様に、広い心と思いやりを持って、これから生きていこうと、あの日、決心したはず。今反省することしきり。
それを思い出させたのが、ありがたい、舞の同窓生達のメールだった。

娘、舞の事を、自慢します。新聞で、「いじめられていた友達を助けてあげたことで、自分がいじめにあった小学3年生の女の子」が、話題になっているのを知って、同じ体験をしても、相手を許してあげれた舞は偉かったなぁ と思った。
小学校の時のことは 本人から直接聞いてはいない。後に母親から聞かされた事だ。わたしも不自然に感じていて、気にかかっていたことがあり その事情が数年後にわかったと言う事だが、転校してきて、一人ぼっちでいる同級生を、舞が仲良くしているグループに入れてあげよう と 提案した事から、舞への攻撃が始まる。グループのボス と言っても小学4年生の女の子だが、頭の良い 要領のよい子。逆にその転校生に意地悪な行動を促したため、舞は拒否して グループからも抜けた。
学年が変わり、転校してきた子とは別のクラスになったが、ボスとは同じクラスに。そこに また別の転校生が。その転校生とすぐ 友達になった舞は、毎日一緒に登校、休日も一緒に遊んでいた。その年の秋にわたし達は鹿児島へ引っ越したのが、その頃、一番の仲良しだった子が現われなくなっていた。実は、ボスが仲間に引き入れ、舞をいじめるよう命じ、それに、逆らえなくなっていたのだ。その子の事情を良く知っているので、舞は決して その子を責めなかった。ボスの子についても、私が「その子のお父さんは中学校の先生だが、弱いので、生徒に吼えてばかりいる。家でも吼えていたら、その子はたまらなくて、他の子をいじめてしまうんじゃないか」と話した時、驚いたようだが、納得もしていた。救いだったのは、担任教師が、全てをわかっていて、舞をほめてくれたことだ。
中学でもいじめにはあったが、そのときは父親のわたしに全て話してくれた。冷静に聞く事に徹しようと、努めたが、内心は
感情を抑えきれないでいた。舞が 「明日休みたい」と言えば、「休め」と。登校するときでも、「大丈夫?休んでいいんだぞ」、「もし 嫌なことされたら、すぐ 帰って来い」と言う始末。そんな時舞は、怒って「行く!」。話さなければ良かったと思ったのかも。そのときのいじめっ子も、クラスマッチで優勝した時、カキ氷をおごってくれたし、家庭的に不幸である事を知っていて、それよりも、対応してくれない担任に、怒っていた。そこでも、同じようにいじめられてた子を、励ましたりしたのにいじめグループに入ってしまったことがあった。10年後、舞の通夜に来た子が、それを悔やんでいる事をわたしに語ってくれた。しかし中学の時の舞は、その経験で強くなった。強くなりすぎたが。男子にも反論した。暴力的で、皆に疎まれている同級生男子に、「何、その格好、かっこいいと思ってんの」と、罵倒するのを、周囲は恐ろしい思い出見ていたそうだ。
舞だけが、その男子に 普通に接していたらしい。「ありがとう」と言われた事のある唯一の同級生だった。たぶん そんな舞の態度が嬉しかったのだろう。
高校にはいってから、専門学校時代、アルバイト先でも、皆に頼りにされる存在になっていた。電話を聞いていると、相談を受けている。それが 毎日 何件も。就職して家を出た後もそれは一緒だったのだろう。入院中でもそんな相談の電話はかかってきていた。沢山の人と知り合い、関わって、舞も助けられ、出会った全ての人を大事に思っていただろう。舞の葬儀に運んでくれた沢山の友人達の存在でも、舞は評価できる。私は誇りに思っている。

「ドキュメント72時間 南国の巨大スーパー」とあったので、「多分あそこだろう」と、そのテレビ番組を期待して見る。やっぱりスーパーは「AZ」。しかし わたしがよく行っていた隼人店ではなさそう、映っている入り口は一緒なんだが、入って直ぐ 花屋が右手にある。隼人は左だった。阿久根店だ。娘の舞がよく利用していた。これほど大きくて24時間営業。やはり珍しくて、以前にもこの店を紹介するドキュメント映像はあった。
その店の入り口に夜遅い時間になって集まってくる若者達がいる。ベンチに座って、暇つぶしに会話を交わしている。高校時の同窓生たちで、夫々、しごとに就いていて、週末になると こうして集まって、そこで一晩を楽しむらしい。彼らへのインタビューで、「将来の事とか 如何ですか」との問いに、「真っ暗ですよ」と答えていた。その彼らが、車椅子の老人の買い物を手伝っている場面が、映っている。知り合いではなく、偶々その時間居合わせたようだ。一人が車椅子を押し、広い店内を移動。もう一人が、言われた商品を探す。彼らは店員ではない。老人は混んでいる昼間に車椅子は邪魔になりそうで、空いている夜更けにきたという。お礼に「ジュースでも買って」とお金を差し出すのを、笑顔で、押し留めている彼らを見て、「この国の将来は明るいぞ」と思った。 困っていそうな、難儀していそうな、そういう人に気付いたら、躊躇せず手を貸す。一人ではなかなか思い切れないが、集団だった事で、声をかけれたのかもしれない。
姶良から鹿児島の店に電車で通っていたとき、老人にはなるべく席を譲るようにしていた。それはあることを期待して。
中学 大学、それに東京でコーヒー学校に通った30代前半。電車内ではほとんど立っていた。中学の時、他の人の為に席を空けておくよう指導されていた。教師ではなく、先輩からだったと思う。結局学校への、評価のためだったのであろう。
若いときは立っていて何も問題はなかった。1時間立ってもきついとは思はなかった。鹿児島に来た40代。電車で立っているのがキツイ。20分くらい過ぎると、どっとだるさを感じる。満員電車立っているのはわたしだけではないし わたしよりも明らかに年配のひとも立っている。座っている人が席を譲るような様子はない。私はまだ譲ってもらうような年齢ではないからいいけど、60になった頃、たったままでいるのは相当な苦痛かもしれない。多分皆、教えられた筈の、「弱者に席を譲る」と言うマナーを 実践する慣習を作っておかなければ、私は電車に乗れなくなる。「情けは他人のためならず」と言うとおり、今、我慢できるうちに実践して、良き慣習を伝えておかねば。という意図。
あの頃のどっと乗り込んで、席を占領していた高校生達、社会人になって、貢献ということの必要を知って、良き大人へ成長したかな。どうしようもないと思った奴でも、社会に出れば、結構ちゃんとできるようになるものだ。あの時なんとも思はなくても、今なら気付くだろう。電車通勤しなくなってから、10年以上たった。今の様子はどうかな。AZにいた阿久根の青年達のような気配りのできる若者が、もっともっと沢山いるはずだと、期待する。