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昨年、東京のやまもとから、「同窓生皆で富士山登山を」という 提案を知らされたときは、「また 面白い事を考えてる、あんなきついこと、この齢で、やろうなんて」と、多くの人は一笑していた。この夏の用安海岸のライブもそうだが、その提案を実現してしまうのが やまもとだ。
昨日から 今朝にかけて、同窓生達16人が、富士登山に臨んだ。
昨日 午後5時半に 「今 7合目」というメールが来た。8合目の山小屋で一泊して、明日早朝、日の出の時刻の山頂到着を目指すということだった。富士山登山中、メールを返すのは容易ではない。今朝 5時半,テレビで、富士山のご来光が、映し出されていた。メールを送ったが、やはり返事はなかった。天気は良さそう。無事に着いただろう。
登頂無事成功を知ったのは、お昼のFM放送。奄美エフエムのインタビューに、奄美から参加したNが答えていた。夜中 山小屋で4時間ほど仮眠をとって、一時に出発。日の出前に頂上に着き、ご来光は僅かに見れた。次に電話にでたのはHさん。女性は5人参加したとのこと、不安だったが登れて感激。インタビューは5合目からの帰りのバス内に架電したため、電波が途切れて中断。夕方の番組で 再び放送。こんどはやまもとが、出て、その興奮している様子が伝わる語りを結構長い時間伝えていた。予報を覆して、天気が良かった。遥かに、東京の夜景が見えた。事など、嬉々と語る。登山者が多くて渋滞。立ち止まっている時間が長くて、山小屋への到着が遅れた。登りは呼吸が苦しく、みな 会話をする余裕もなく、黙々と歩を運んだ。帰りは、疲労した筋肉に摩擦、特に膝の痛みをみな 訴えていた。やはり 霊峰富士山、神々しさを感じ、先祖のことや、先日事故死した同窓生NNの息子のこと、ほか いろんな人のことを思いながら登ったと言っていた。
「今 温泉に浸かって、疲れを癒している。これから 新宿へもどって、反省会」ほんとに嬉しそう。
明日は 月曜日、出勤するそうだ。Nはあす帰島。いろんな話が聞けるだろう。
そんなにきつくても、疲れても、やっぱりやってよかった、富士登山同窓会。成功おめでとう。
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運動公園にウォーキングに行くと、小太りの男性が、丁度運動を終えたところらしく、汗をぬぐっている。その方向へ歩いていくと、こちらを見て笑っている。昨年、わたしと同じ病気で入院していた同窓生のNだった。立ち止まって、しばし、病気の談義。「痩せない限り、薬は一生飲まないといけないと、言われている。お前も 同じ体型だから一緒だろう」
えっ こんな体型、わたしも一緒?体重はわたしの方が重い。でも 痩せたら、薬がいらなくなる?これは いい情報。来月早々 病院で検査を受けることを 話すと。「あれは 痛いよぉ~」 それはわたしも知っている。
前回、検査を受けたくない、治療を逃げたい と 書いたら、命を粗末にしている と お叱りを受けた。名古屋のもこさん 心配をかけまして!
病院に行かなくなったのは、娘を失った時から。行く気になれなかった。父親の入院中の間、母親を助け、わたしの仕事も、かわりにこなしてくれて、姶良と出水の遠い道の行き来を、疲れに耐えながら頑張ってくれた。その 数ヵ月後の発症と言う事は、わたしの入院に因む要因を、疑わざる得ない。一年間 わたし達もできる限りの事を娘のためにやったはずなのに、何故 助けてあげられなかったのか、50年以上好きな事をやってきたわたしが、まだ 生き続け、まだ25年しか生きてない娘が終焉とならなければならないのか 理不尽に思えてならなかった。でも それは、しばらく。今でも 思い出して悔しさが込上げることもしばしばだが、もう一人いる娘のために、わたしを助けてくれている周囲の沢山の人のため、元気でいようと、今は、思っている
病院での治療からにげている。確かにそうだ。でも、以前より健康には気を使っている。運動も欠かさない。大好きだった、ラーメンとサラミソーセージはそれ以来一度も口にしていない。お酒も飲まない。グァバ茶と黒酢を飲み、食品購入時は必ずナトリウムの少ないほうを選ぶ。
普通の人からは あきれられるだろうが、自然治癒できないか?と、望んでいる。それで 治ったら奇跡だと 笑われるだろう。奇跡的に助かったとしたら 奇跡も可能かなと。
でも 今 患部がどういう状態かは、医学的な検査でしかわからない。自分ではなんお異状も感じなくても、内部はどうなっているか。検査は 素直に受けてきます。何がいいのか。も、ちゃんと医者に聞いてきます。

2月からは 真面目に?毎月病院へ通っている。薬もきちんと飲んでいる。ただ 血圧の値が思ったようには下がらないため、先月、以前掛かっていた南九州病院に問い合わせてみる旨、医師から伝えられていた。今日診察の際、その届いたレポートを見せられ、その、内容を医師が口頭で伝えた。「2月3日、スーパーで買い物中発症、その日は昼食抜きで、夜 ラーメンを食す」本当は、「歩いてスーパーに行く途中 異変を感じたが、そのまま スーパーへ向かい、買い物を済ませ、帰る途中に歩けなくなった」「昼食だけでなく、朝食も抜きで、一日焙煎をしていたが、寒い日で、水分もほとんどいとっていない」。薬の事だけではなく、病状の詳細を、報告してきているのだ。続けて、「心臓も一度止まった」ほんとは2度です。「かろうじて命は助かった」。ばれてしまった。私は見た目 至って健康なので、医師はこのレポートに驚いたようだ。「専門医のところできちんとした検査を受けてください」。市内にある循環器科のある2つの病院を示して 「どちらにしますか」。もうひとつ 同窓生チカコが看護師をしている病院は、今 循環器の医師が不在らしい。なるべく詳しい検査のできない病院、なんて まだ 子供じみたことを考えてたが、もっと詳しい検査を、と 言われるかも。結局 一番大きな病院になったが、あの 入院してのカテーテルの検査だけは何とか避けたい。
確かに あの日、救急車で運ばれた、霧島医療センターで、 治療前に 医師が、「危険な状態ですと言った。退院後、通院して診察を受けることになった、南九州病院の医師の第一声は」「運が良かったねぇ」だ。知り合いの看護師も、「二度も電気ショック受けて、全く後遺症のない人なんて見たことない」。医療関係者にしてみれば、わたしの今は 奇跡のようなものなのか。今日の医師も、「今度の医師が、信じられない と言うかもしれませんよ」
検査は 来月始め。最近 焼酎が飲めるようになっていた。やっぱり 駄目だ!と言うことか。それまで 節制。なるべく良い検査の数値にして、入院は免れるようにしなければ。

ミュージックポートレイトで、宮沢りえが、自分の逆境の時聞いていた曲として、井上陽水の「帰れない二人」を紹介していた。
アイドルとして頂点に立った後、婚約騒動などで、衆目を浴び、マスコミにあることないこと書かれ、止む無く日本を離れ、ロサンジェルスにいたときに、陽水の曲ばかり聞いていたそうで、「彼の曲は、不条理なことを笑って過ごしてくれる」と評価している。「帰れない二人」はロマンチックで、世間に抗うような内容ではないが、陽水自身は、いつでも薄笑いを浮かべ、社会に対し斜に構えている印象がある。皮肉った歌も沢山ある。宮沢りえは、モデルを生業にしていくつもりだったそうで、それに反し、アイドル、女優として演じることが苦痛だった。自由に好きなように歌える、フォークシンガーに憧れを持ったのでは。今では 映画 舞台で、高い評価を受けている、日本屈指の女優となっている。苦労は肥やしとして、生かされているようだ。
対談していたのが、野田秀樹。彼には興味がない。しかし クリフォード・ブラウンの名前が出てきたときには、しっかり、彼の発言を聞いた。学生劇団「夢の遊民社」を結成した、快進撃のころ、聞いたようだ。23歳で亡くなったこの天才トランペッターに、自分を重ねてみれるところがあったらしい。21か2の頃だから、その年代で、このハードバップジャズを聞く人は珍しい。わたしがジャズにはまったのは20だい後半。21のときにマイルス・デイビスの演奏に驚愕したことはあった。もちろん60年代の演奏だ。マイルスは70年代になっておかしくなり、わたしも 全く聞く気にならなくなった。音楽評論家を名乗る奴が、「マイルス亡き後、ヒュージョンにかわり、ジャズは衰退した」と言ったが、「ヒュージョンなんて紛いものを作ったのがマイルスだろ」とラジオに向かって反論した。ことがあった なんて、どうでもいいか、話がそれた。
天才と言われていた野田秀樹が、天才の夭折を知って、思うことがあったのだろう。


ミラクル船漕ぎレディーズ

16日は、奄美祭り 船こぎ競争 でした。2日予定が台風のためその日に延期。会場の左大熊港は、海沿いの県道を通行止めにして、参加チームののぼりを立てたテントがずらっと並ぶ。参加チーム191チーム。開催日変更で、20チームが棄権したから、200以上のチームが、結成され、練習を重ねていたんだ。船に乗り込むのは8名だが、各チーム10数名のメンバー。X191だけで相当な人数になる。たぶん関係者がほとんどで、観戦だけのひとは僅かだったのでは。
DSC00856.jpg DSC00861.jpg

わたしも船こぎ競争見るのは、久しぶり。20年以上は見ていない。記憶にあるのは少年の頃。
テレビの特集で、見ているが、実際会場に行ったのは、30年前か40年前かも判らないほど遠い昔。何故今年は行ったのか?先日話題にした、知的とパワーのH嬢に前日会った。以前と変わらず日焼けした温和な顔、パワフルな印象のぴちぴちの体型。中高時のスポーツテスト6年間づっと一級だった、能力は変わらず、40代後半とは信じられないはど。彼女が「船こぎ競走に出る」と言ったのだ。女子の部に仲間でチームを作って出場。毎日練習しているそうだ。決勝に残る自信あり。「じゃぁ 午後の決勝は見れる、応援に行くね」と、約束したから。
わたしが会場に着いたときは一般の 準々決勝中。その後 女子の準決勝があるようで、その出走チームにHのチーム 「結ミラクル」も残っている。
DSC00854.jpgチームの旗 裏にはメンバー全員の名前が記されている

1レース5チームで競う。準々決勝は12レース。延延続く。なかなか女子が始まらない。炎天で、暑い。やっと女子の準決勝に移って、しばらく 自転車に乗ったHがチームメイトとやってきた。みんなHと同じような運動の能力抜群の人たち。2チーム作れるほどの人数。Hに「出番?」と声をかけると、「ありがとうございます」とひとこと。3レース目に出走。場内放送で、「初出場ながら、注目のチーム」であることを伝ええいる。メンバーは中学生から40代まで、たぶん最年長はH。Hは前から3番目に乗り込む。
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スタート 「えぇー!」すごい ダントツ 圧巻。らくらく 決勝進出。
残念ながら 仕事に戻らねばならない時間。「優勝するかも」と期待を、抱いて帰った。
地元FM放送で、実況していた。配達に出ようとしたとき、ラジオから、これから女子の部決勝というアナウンスが聞こえてきた。配達は急がないといけないけど、決勝レースが気にかかる。
お客さん待たせて、ラジオに聞き入る。結果は、「結miracle」優勝。あらためて すごい!Hに電話。と言っても 携帯の番号知らないから、家の電話の留守電に「おめでとう」と、入れておいた。
レースで漕ぐ時間は、2分半から3分。全身を使って、漕ぐのは大変なこと それに 全員が均等の力でないと、バランスが崩れる。練習もかなりやったんだろう。男子の方の優勝チームは、ベテラン揃い。技術を生かすことも必要なんだ。他に知っている顔もみられたが、確かずっと同じチームで、毎年参加している人ばかり。チームワークが大切。
さて H嬢、次ぎ目指すは? 以前なら トライアスロンだったろうが、レースがなくなった。バスケットもまだまだいけそう。毎日 海 山、奄美の自然の中を駆け回っている、その体力なら、何にでもチャレンジできそう。昔 彼女のおじいさんに「あのこと相撲とったら お前なんか直ぐ投げられるよ」よ言われたのを思い出した。レスリングの浜口京子と重なった。気合はほどほどでいいから、ずっと 長く活躍してください。

日本全国 お盆だが、あまみのお盆は終わっている。沖縄もそうだが、奄美は 旧暦で お盆を行う。旧暦の7月13日から15日。今年は8月8日から10日だった。その8月8日は 台風接近。2日前から、船の運行がストップ。島の店は、品物が入荷せず、お盆商戦、不発。生花もない。
送り盆の日、降り続く雨に強風。例年夕刻行っている、墓参りは、午前の内に済ます。雨具をつけて、墓掃除をする人、ポツリポツリ。多くの墓は、既に新しい花が供えられていて、既に墓参りを済ませているらしい。まだ 天気が穏やかだった 前日で済ませた人も多かったようだ。
一転 送りの日は天候回復。雨もなく、涼しい風が吹いた。例年のように、夕刻墓参り。まだ船は入港せず、墓地の生花店にはわずかな島の花や枝物だけ。親切な店主は、水が必要な墓参者に、バケツを貸し出す。
墓地入り口で、交通整理をしていた先輩が、「感心だね!墓参り」と、声をかけてきた。
毎年 墓参りが楽しみなのだ。といっても、島に戻ってまだ 2回目。鹿児島在中は 母 父 の初盆に参っていただけだら近年回数はかなり少ないのだが、子供の頃から、墓参りは楽しみだった。理由は、子供の頃と今は多分違う。年を取ってからは、懐かしい顔にあえる これが楽しみ。我が家の墓は、道路に近い。墓の前では、先祖の事より、道路を行きかう人達の事ばかり気にしている。懐かしい顔を見つけると、作業は兄弟や甥っ子に委ねて、道端で、久しぶりの者どおし、近況報告などをしばし歓談。島外からの帰省者と会えるチャンスも多い。十数年ぶりのNさんの名を呼ぶと、わたしに振り向き、つかつかと無言でやってきて、わたしのお腹、出っ張ったお腹にいきなりさわり「何?これ」と言ってのは、数年前のこの墓参りの時。それからは、遠方にいる彼女と音信再開。時には会えることもできるようになった。島にいても会えない人も多い。墓地前ですれ違い、「居るの?」と声を交わす。久しぶりに会うと、「元気?」しゅっ中会っていたら「お疲れさん」挨拶が飛び交う。
今年は、出かけた時間が早かったせいで、混雑するほどのひとではなかった。懐かし顔にも出会えていない。でも、ご利益かいいことはあった。墓に向かいながらすれ違った見知らぬ一段の中の会話が耳に入った「Mくんは イトーヨーカドー にいるんだって」。わたしの知っているちょっと珍しい名前のM君も イトーヨーカドー勤務。多分 彼のことを話しているんだろう。すると そのMくんの両親が墓の前を通る。さっきの件を話すと、びっくり。誰かは想像できぬようだ。
このご夫妻の、娘、Hさんにまだ会っていない。喫茶を始めた時手伝ってくれたくれた彼女。島の自然保護に関わる活動をしいていることは、野鳥の会の 活動報告などで、知っている。会いたいのだが、帰省後2年経ってもまだ 会っていない。お母さんとは良く会う。「Hはどうしてる」と聞くと、「全然家に寄り付かないから、いったい何してるのか」「もしHに会ったらよろしく言っといて」なんて返事ばかり。
奄美の風習で、お盆の送りをした翌日、旧暦の7月16日は仕事を休む。特に海には絶対行かない。ただ 近年はそうも行かない現状になっているけど。
そんな 翌日 Hの実家を尋ねると、Hの電話番号と住居所在を教えてくれた。知性とパワーを供えた彼女に会えるのも近いかも、。これは 墓参りのご利益だ。
140810_165845.jpgこちらは既に満席 140810_165854.jpg空席あり私は予約済み

我が家の墓は、以前 墓地のずっと奥の方、坂道をかなり登っていく場所にあった。年老いた父が、後年、行き着くのが困難になり、母方の墓がある 今の道路端に頼んで 移させてもらった。従って墓参りはこの二つの墓碑に参礼する。母方の墓には 祖父祖母、叔父が二人 叔母 従兄弟の兄さん6人、わがほうは 両親だけ。備え物や花は叔父達の方を3倍にしないといけないのかも。でも 入れ物が一緒だし。お酒を入れる器だけ、酒好きの叔父と 従兄弟がいるほうに 大きいのをおいてある。

高遠菜穂子はヒーローだ。

朝日新聞 「逆風満帆」に 高遠菜穂子さんが出ている。まだ、イラクで子供達の支援活動を続けているようだ。それと、一年の半分は、日本にいて、イラクの現状を訴える活動をしている。新聞では北海道の母校である小学校で、子供達にイラクで起こっている事を伝えている様子が、記されている。政権に就いたシーア派が、スンニ派を攻撃しているというニュース最近になって頻繁に報道されるようになったが、現状は唖然とするほどの状態のようだ。「テロリストを狙うと言っても、死ぬのは圧倒的に一般人です」という言葉が、強調されている。
あの 人質事件から10年だそうだ。今 彼女の活動は、広く理解され、こうして公的場所にも招かれる。しかし 10年前に起こったバッシングは、いったいなんだったんだ。
どうしても 当時の政権の世論操作を疑ってしまう。犯人の要求は、自衛隊の撤退 だった。自衛隊のせいで事件が起こったという 論が噴出することは絶対避けなければ、そこで、「自業自得」論が、大きくなれば事件は本人達の行動が原因で、収まる。それを追従したか、主導したかわからぬが、喧伝した週刊誌。関係のない家族を中傷したり、過去の恋愛を取り上げたり、人格毀損の目論見。あまりのひどさに、JRが中吊り広告を拒否したほど。開放されて帰国の際の映像は全く腹立たしいものだった。先頭にいた相沢の間抜け面を思い出す。もっとも相沢はいつでもあの顔だから いつでも間抜けじゃないんだけど、その顔を見ると思い出して腹が立つ。だいたい 外務省は何の役にも立たなかったのだ。相沢の会見も常に「新しい情報はありません」。イラクの聖職者団体の尽力で解放されたとき、褒められ、感謝された高遠さんに対し、引き受けに来た外務省幹部は、叱られていた。外国のメディアが「ヒーロー達は囚人のように扱われていた」と、書いたように、あのときの、「自業自得」論は異状だったのだ。
高遠さんの 話に戻ると、イラクで日本は尊敬されていた、それが、武装した自衛隊がやってきたことで、反発に変わった。これはペシャワル会の中村哲も言っていた。日本だから きっと企業がくるに違いないと、就職を期待する声もあったという。外国の軍隊が、押しかけてくることは、何処の国のひとでも、歓迎しないのだ。
N郎さんのブログで、ラジオ出演した高藤さんの話を聞くことができた。集団的自衛権容認に関する番組だ。アメリカはフセイン政権を倒したけど、結局 別の独裁政権ができてしまったのでは?と思ってしまう。シーア派のスンニ派に対する陵辱はナチスの民族浄化を、連想してしまう。政府軍 警察、実行している集団は、アメリカ軍の訓練を受けた人たち。民主国家樹立と言っていた理想は、アメリカもあきらめたのか。そもそも イラク侵攻自体の疑問も大きかった、情報のでっち上げで、大儀名文は否定され、結局は石油が目当て と、揶揄された。そんなアメリカの誘いがあったら今度は日本も乗っかちゃうんだ。もし 紛争地帯に関心を持ったら、そこで活動している、そこの住民の信頼を得ている人たちの意見を聞くべき。大国の都合に合わせてしまっては、そこで国としての信頼は地に落ちかねない。高遠さんのような厳しい環境で地道に貢献して、そこのヒーローとして信頼されている人を守る事。ヒーローとして居続けられるようにすることが、日本人 と日本が尊敬されることに繫がると、私は思う。

このブログには、記事下に出ている、通常のコメントを投稿するページと、拍手のページのコメント欄と、二つのコメントメッセージを受け付ける、ページがある。いつもは拍手欄をチェックする。それは 頻繁に投稿してくれる知人がこの拍手欄に書いてくれるから。通常のコメントは、数字の表示が会った時に見る。しかし 最近の記事なら、気付くが、相当前だとわからない。管理ページで、確認できるのだが、普段なかなかそこを見ない。
久しぶりに「コメントの管理」をチェックすると、3件のコメントがあった1件は、先月14日。娘の命日に届いた、娘の友人たちからのメッセージと、わたしの心境を書いた記事に、ブログ仲間で、シャンソン歌手の別府葉子さんが、哀悼の意を記してくれている。「自慢のお父さんではなかったでしょうか」と書いてくれた、「いや どうでしょうか」と、いいつつも、私とはウマがあうというか、より親密な関係ができてたと 自負している。これは私が母親と違い、若い頃、ハメをはずして遊んでいた経験から、娘と話があったということだ。しかし 日本中にファンのいる別府葉子さんからの貴重なコメントだ。
もうひとつは、あやっきーさん。2012年1月の女優・梓英子さんについて書いた記事。まだ小学生だったわたしが、初めてときめきと言うものを体験した女優 梓英子さんを、あやっきーさんも、評価している。映画「千羽鶴」で、若尾文子の娘役をやったときの、ミニワンピースから伸びた美しい足が印象に残っているという。わたしの記憶には梓英子の足は残っていない。ドラマの「太陽の丘」「どてらい奴」の、知性豊な女性の印象がつよい。あやっきーさん どうやら 若尾文子のファンのよう。映画千羽鶴と、若尾文子主演の映画いくつかを紹介してくれている。
後一件 MAYAさんは、「シンガーソングライター福井静さんが、9月23日のラストコンサートで引退する」という情報を知らせてくれた。コメントした記事は、2007年8月19日。イオン鹿児島であった 福井静さんのライブでの事を記した。父が好きな福井静さんの 歌を聞いた、当時13歳の下の娘が、身じろぎもせず集中して聞いているのをみて 嬉しさ万感。サインを貰い 握手してもらい、帰りの車の中で、CDを聞いて、帰宅した時には一曲憶えていた。父も握手してもらったのが嬉しくて、出水の上の娘に、「若い娘の手を握れた」とメール。返事は「おっさん!やめろ」。まだ 鮮明に憶えている。
ありがたいコメント、別府さん以外は見知らぬ人。以前にも、梓英子のことで、コメントをくれたペガサスさんとか、N郎さん、今宵の一枚のWさん、七福神の井上さん うめまつりの増保さん、ミスターロンサム 柴田容子さん 沢山の人に感謝。
拍手にコメントをくれる、東京のmartin 三重のS兄 福岡のna 奄美のテボ
これからもよろしく。
さっき みたら MAYAさんから 「二つ目の窓」にコメントをいただいてる。鹿児島で映画を見たそうだ。鹿児島の人なんだ。あっ そうか だから 福井静さんの事を知らせてくれたんだ。

台風は、以外にも強かった。気圧が980から990ヘクトパスカルと言う事だったので、問題ないと思っていた。対策は何もしなかった。夜中 4時 激しい風の音にめを覚まされた。「シュー」「バタンバタン」「ざー」そして遠くで「ゴー」我が家店先のガラス窓が「バンバン」。服を着て、表へ。雨戸をひっぱりだす。ガラス窓の隙間から、雨が打ち込んで、床が濡れている。
雨戸がなかなか引けない。途中で何度も引っかかりそのたび一度戻して、また 引っ張る。40年前、父が作った雨戸だ。戸車など換えた事ないのでは。3枚だして 4枚目がどうしても戸袋から 出てこない。私はびしょ濡れ。あきらめて、3枚だけ 等間隔に置き、その隙間に何も飛んでこない事を祈るしかできず。
前回の台風は950Hp位だった。強い台風とわかるから 皆 事前に十分な対策をとり、被害はそれほどなかった。台風の中心が、遠い位置を通ってくれた事も幸い。
今回は前回と同じ程度の風と雨。しかし 街の様子を見ると、前回のような、頑強な補強はやっていない。今朝になっても、風雨は衰えず。やってきた兄が大声で何か叫んでいる。雨戸を全部閉めて来いということだ、自分は2階に上がり、雨戸を閉める。2回の雨戸は雨漏りを防ぐのに欠かせない。外へ出て、明け方引っかかって動かなかった4枚目をハンマーで叩き 何とか動かせた。5枚の雨戸で、ガラス窓を保護。また びっしょり。
しかし 家屋の被害が出てないので、厄介な台風かもしれないが、散々な猛烈な台風ではなかったのだろう。2年前二つの台風で、おおくの屋根が飛ばされた時としたら、今度の台風は、まだ良い と言うのが島の人たちの感想かも知れない。6年くらい まともな台風を経験していない私と比べたらみな余裕がアル。
市役所へ行くと、職員みな 普通に勤務している。暴風で、欠勤者が多いのではと思ったが、みなちゃんと仕事していた。
しかも、3人からコーヒーの注文を頂いたり、強風の中行ったかいがあった。
昼過ぎ、市役所近くを車で通ると、合羽をつけ かさをさした女性が、強雨風に煽られ立ち止まったりしながら歩いている。さっき 市役所で注文してくれたMさん。車を止めて、「乗って」と声をかけたが、「濡れてるからいい」と言う。また 傘が飛ばされそうになり、必死で抑えている「かまわないから 危ないから」それでも「もう近いから」行ってしまった。
なんだか 振られた気分。こっちの心の痛手は大きい。