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奄美龍郷町の新公民館が、建設中。そこには町の文化財を展示する博物館の機能を持ったスペースも出来る。今年 学芸員として採用された、従兄弟の娘、Mちゃんは 公民館が完成する来春にむけ、その準備に奮闘中。そのことを、熊本のくまもとに話すと、「是非自分も手伝いたい」とのこと。自分のふるさとである 龍郷の役に立つことを と、意欲を見せる。彼は英文学の研究者だが、中世の文学。日本だと、古文に当たるらしい。島の方言、島口も、古い言い回しが残っているのが特徴。この方言の研究にも意欲を示す。その変化については共通のものがあるそうだ。より喋易いことばに代わってくる。中世のイギリス文学の魅力を、彼はその文章の素晴らしさ、言い回しの見事さ だと言う。古い言い方と言うことは 日本で 美辞麗句といわれるようなものなのか。彼が翻訳した「カンタベリー物語」は、古い英語を 古い日本語で 表現したようで、日本語で読んでも難しい。これが 奄美の「島唄」でも同じだという。あまり島唄には詳しくないが、各唄の内容については知識を得ている。その歌詞については、普段使う言葉ではないので、正確な意味は知らない。島の中でも東シナ海側の奥深い集落で育ったくまもとは、聴きなれていたその歌詞についても理解していて、中世英文、同様、言葉が巧みで美しいと、評している。
このように島の言語文化と 自分の専門研究の共通点が明確なら、彼の協力は 町にとっても貴重なものになるかもしれない。
Mちゃんに話すと、「是非 お願いします」と。学芸員として、新たな道に入ったばかり。心強い申し出だと思う。観光の専門知識を学んできたが、古里の歴史文化の研究者になる。その ノウハウについても、博物の展示方法にしても、世界のミュージアムを視察してきたくまもとには、より多くのことを 教しえて欲しい。
Mちゃんの言葉を、くまもとに 伝えたとき、「お前も一緒にやるんだよ」って 無茶な。島唄歌えない。島言葉使わない。彼が お姉さまと方言で交わす話は、英語より聞き憶えのない難解なもの。この場に至って 少し興味は出てきたが、他の周囲の島人より その知識は劣っている。でも
思い出したことが。学生のとき、知った 沖縄学の伊波普猶の事をしり、大学の図書館で その 全集を借りて読んだことがある。十巻の内 第一巻だけだけど。そのときは熱心に読んだはず。「アマミキヨ」なんて 神話の中の名前に、おおきく反応した。大学卒業のとき、「ライフワークとして 民俗学を やりたい」なんんて、教授へ文章を提出していた。思い出しただけで、だから 私も!とは考えてません。これは Mちゃん くまもとにぜひ 頑張ってもらおう。
 
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苦手な80年代フォーク

インドネシアでは五輪真弓が人気だそうだ。テレビ番組で紹介していたのだが、五輪真弓の事を「80年代を代表するフォーク歌手」と紹介した。違うだろう 70年代から 活躍していたし、代表曲「少女」も「煙草の煙」も「ミスター クラウディ スカイ」も70年代初めには歌っていた。最もレコードが売れた、「恋人よ」が80年初めに発表されたので、80年代に活躍したと思われているようだ。
私が五輪真弓のコンサートを見たのは76年。そのとき弦楽5重奏をバックに数曲歌っていたので、趣が違うと感じはした。でも、みんなが聞きたがっていて最も盛り上がったのは、先の3曲だった。これらはピアノとギターの弾き語りだった。
「恋人よ」は、五輪真弓が10代のときから、アレンジを担当していた木田たかすけの、事故による突然の死の悲しみを歌った曲だ。方向を模索していた時期に最も信頼していたパートナーを失い、この方向に行き着いたのかもしれない。その曲が決定的な支持を得た。
「落日のテーマ」と言う曲がある。あれが70年代五輪真弓の最後だったのかな?

土曜日。ポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)のメモリアルコンサートの模様が放送された。番組はそのコンサートだけでなく、ポプコンから出たミュージッシャンや曲を昔の映像で紹介したり、当時の音楽シーンを ナレーションで紹介していた。冒頭、「30年前日本の音楽が変わった」というナレーションがはいった。「えっ 40年前でしょう」ポプコンが若者の音楽に対する考えを変えた。と言うことだろうが、 上条恒彦と六文銭の「旅立ちの歌」は1971年 小坂明子の「あなた」は73年 中島みゆき「時代」75年。ポプコンの前 「作詞作曲コンテスト」には 天地真理の「水色の恋」の原曲「小さなわたし」もあった。普通の素人達が曲を作り始めた。ということがおおきな変化だとすれば 変わったのは 40年前だと思う。でも
               この歌も聞きたい
コンサートに登場してたのは、辛島みどり チャゲ&アスカ 雅夢とか 私にはぽポプコンとの繋がりがわからなかった人たち。わかってる70年代組は、NSP 、柴田まゆみ 谷山浩子 小阪明子 映像で、中島みゆき や もとまろ ツイスト。渡辺真知子がポプコンで歌ってた?彼女のデビューは70年後半だったが、ポプコンやコッキーポップで聞いた憶えはない。どうも 70年後半から私のきょうみが薄れているようだ 「大都会」 や 「夢想花」 「待つわ」といった 大ヒットした曲はポプコンの入賞曲だと知っているが、ポプコン入賞曲を紹介するラジオの「コッキーポップ」では聞いたおぼえがない。聞かなくなってた。中島みゆき など その後もづっと好きなシンガーなのだが、ポプコンとの縁を意識することはなくなっていた。80年代も続いてたポプコンを知らなかった。
中島みゆきの曲も レコードを買ったのは4枚目まで。その後の曲で知っているのはヒットした曲に限られ、それも 数年経ってから憶えたものがおおい。10歳下の女性とメールをやり取りして、「中島みゆきが好き」と言うので 話が合う かと思ったが、相手の出す曲名が全くわからない。全部80年代の曲だったのだ、教えられ聞いてみたら やはりいい曲だと 思った。しかし 懐かしく聞くのはアルバム「愛していると言ってくれ」の世情くらいまで。ただ 聞き始めて、40年経つわけだから、後から知った曲は沢山ある。
80年から 私のジャズライフが始まっている。音楽はジャズばかり。テレビの音楽番組など全く見てない。80年代に出てきて今も活躍しているひとは沢山いるだろうが、今しか知らない。もうこの年だ。懐かしい歌ばかり聞いて 新しいものへの興味が薄い。
今 ギター抱えて歌っているのは「夜明けのスキャット」「天使の誘惑」「空に星があるように」 70年どころか60年代の歌だ。



追悼 キース・エマーソン


昨晩 キースエマーソンの事を書いた後、「ナッツロッカー」を聞きたくて検索したところ、「キースエマーソン死去」の記事。今年 3月 ロサンジェルスの自宅で死亡していた。自殺の可能性が高いという。
久しぶりに興味を抱いて、思い出して、ELPと検索ワードを入れてみたら、この事実を知ることになった。10年位前だったろう、テレビのタモリの音楽番組に出演したのを 見たことがある。昔と変わらなかった。あの頃のままだった。もう 71歳になっていたんだ。日本人女性と 同居していたんだ。 イギリスの主要新聞に載っていたその女性のインタビュー記事も紹介されていた。
右手に障害が起こり 満足な演奏が出来ないことを、悩んでいた。ネットでの自分への批評が刺さっていた。ステージでの大胆なパフォーマンスからは想像できないくらい、神経の細やかな人だったそうだ。彼が「自分達の音楽はジャズに近い」といってたのを 雑誌で読んだことがある。彼自身最初はジャズプレーヤーだったんだ。そのジャズにクラッシック、ロックを融合させて出来た、プログレッシブロックは 70年代、世界の音楽シーンを席巻した。ピンクフロイドも ジェネシスも、イエスもキングクリムゾンも、過去のバンドになってしまったが、40年経って プログレッシブになった現在、彼等の演奏を映像とともに見れることはとてもありがたい。彼等の音楽が永遠である証拠でもある。

シンセサイザーという楽器を知ったのは、高校2年のときだった。日曜の昼間テレビでカッコいい西洋人3人組みが、カッコいい演奏をしていた。キーボードとドラムとギター ギターと思ってたのはベースだとわかったのはかなり後だった。派手なキーボードのパフォーマンスにびっくりした。楽器を揺らす、飛び越える さらにはナイフを突き刺す。最後に演奏した、{ナッツロッカー」 くるみ割り人形の行進曲は、すごいと思った。3人組は「ELP」エマーソン・レイク&パーマーだ。直後にレコードを購入。タイトルは「トリロジー」。収められてる曲で、「ホーダウン」の 演奏の早さにびっくり。ライナーノーツで、楽器は ムーグシンセサイザーというものだと知った。ムーグ博士が発明したからムーグシンセサイザー。この楽器、を使った日本人の演奏も、直ぐ聞く機会をえた。もっとも テレビで見たその楽器は大掛かりな機械にしか見えなかったけど。演奏者は富田勲。曲は「ELP」も演奏した「展覧会の絵」だった。「ELP」はロックだったけど、富田のは、不思議な、メルヘンにも思える電子が奏でる新しい音楽だった。
先月 富田勲の死が伝えられた。テレビでは彼の業績を紹介し特番もあり。そのなかで 80年代初めだったのか、ライン川のほとりで、シンセサイザーと、レーザー光線を使った、音と光のコンサートが開かれたときの、様子を描いた番組が再放送された。オンタイムでも 見た。はっきり憶えている。
音楽にあわせて レーザーを踊らせる。音を光で表現する「レーザーリニウム」と言うものを、学生時代 友人に誘われて京都で見ていた。何のことかわからず乗り気でもない私の分まで友人が入場料を払ってくれた。京都に来たからには是非見ておきたかったのだろう。私の感想は 「ありがとう」。びっくりした。こんなものがあるのか!そのときの音楽も 「ELP]や「キングクリムゾン」当時の新しい音楽だ。
テレビ番組は、富田の業績の紹介からはじまり、シンセサイザーの説明、ライン川のコンサートの準備。35年前、シンセサイザーはまだよく知られてなかった。コンサートは ライン河岸に舞台と客席を作ることから始めなければならないわけで それはもう 大掛かり。そしてコンサート。バイオリンのライブ演奏をするのはクラシック界のアイドル未だ10代の 千住真理子。三角錐のスケルトンの容器が天井に浮かんでいる様にライトウアップされ、周囲をレーザー光線が飛び交う中、演奏する姿が、まさに エンジェルカと言うくらい美しく。彼女が14歳デビューの時からファンの私が、35年前にこの番組を見たときは、目的は 彼女だったかも。
それまで 聞いた 富田の シンセサイザーは、クラシック曲を、旋律はそのままに、電子音で色付けするもの 派手さはなかった。ライン川でのスペクタル然のコンサートは稀なものだろうけど、たぶん シンセサイザーを手に入れたときから、思い描いていた光景の実現だったのだろう。

テレビでずっと聞いていた「新日本紀行」拍子木の音が響く壮大な曲も、「今日の料理」のまな板をたたくリズミカルな音楽も、富田の曲には様子や風景が描かれていた。

今や 電子音で奏でる楽器は、当たり前のようにある。キーボードだけでなく、管楽器も、弦楽器も。多彩なおとを 作り出すシンセサイザーが、いかに 音楽を広げ 楽しくさせてくれるかを 最初に示した、イギリスの キース・エマーソンまたは 日本の富田勲。ミスターシンセサイザー。

昼過ぎだった。家の直ぐ近くの信号のある横断歩道の前、杖を持った女性。帽子を被り、マスクをしている。彼女が、信号待ちのため止った自転車にまたがったままのわたしに気づき、手を振った。同時にマスクを口の下にずらしたその顔に私も気づき、「あー」と声をあげた。「すみませんでした」という彼女に「よかったー!」と私。「元気になって」。手を取って喜んだ。
彼女は大事なお客様。といっても 昨年まで。彼女が所属する遊技場などで、コーヒーのワゴンサービスを提供する会社が、得意先であった。会社は鹿児島市にあり、彼女は当地の責任者。彼女が本社を説得して、私のコーヒーを 使ってもらえるようになった。ところが 夏 彼女が病気に倒れた。それ以来会ってなかった。その後 会社も当地から撤退してしまった。
会社から「体調を壊している」と説明を受けていた私が 実は相当に重い病気であることを知ったのは、あの 「オズコレクション」のSに教えられて。彼女に初めてあったのも オズ。15年くらい前だろうか。当時 自分で喫茶の店を持っていた。たまたま帰省中で立ち寄った私がコーヒー屋と知ると、サンプルが欲しい旨乞われて、鹿児島から送った。その店が、都市計画で、取り壊された後、夜営業のオズで、昼 喫茶を営んでいたのだ。Sさんには詳しい情報が入っていた。彼女の妹さんも、私のお得意さんなのだが、お姉さんの事情を聞くことは躊躇われた。9ヶ月ぶり。「やっと喋れるようになって、川元さんとこに 挨拶に行こうと思ってた。会えてよかった」私も会えて 元気な姿を見れてよかった。立ち話で、彼女が鹿児島で入院して、その後半年、霧島の山奥の病院でリハビリを受けていたこと、今は 帰ってきて、この近くの病院で、さらにリハビリに通っていることなど教えてくれた。「私のために 取引が途絶えてしまった」と、詫びる言葉もあった。あなたのおかげで 取引が出来たのだから。しかも 数ヶ月掛けて本社を説得して。
これから 街に出て 友人と食事に行くという。杖をついて歩いてるのに、どうやって。車で送る申し出をした。車内でも会話が続いた。昔からずっと極親しい関係だったかのように。何故だかそんな風に感じられた。まず 彼女はコーヒーが大好き。コーヒーに詳しい。ずっとコーヒーに関わる仕事をこれからもしたいと、いっている。そして これから食事を共にする人の名を聞くと、私が喫茶店をしていたときのお得意さん。さらに 彼女の妹の嫁ぎ先をきいて、その 兄弟親戚、当時の常連さんばかり。そんな 縁がわかって、この感じる親しみが不思議でも何でもなく思えた。「彼女を雇えるくらい、仕事が増えるよう頑張ろうか」と、内心気持ちが高揚した私に、車を降り際の彼女が「コーヒーの仕事 づっと続けてくださいね」。もちろん。元気な彼女に再会できてほんとに良かった。


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鹿児島中央駅一番街。私は平成8年から 4年間この商店街に店を構えた。私がいた頃は旧駅名にちなんで「西駅一番街」80あまりの店が並んでいるが、間に2本の道路が横切り 3区画に別れ 駅の方から 1丁目 2丁目 3丁目と呼ばれ、私の店は 3丁目。駅に近い1丁目は土産店、飲食店が多く、2丁目は2つの大きな衣料品店が中心。3丁目も衣料品店が中心だが、私の向井は時計屋 お好み焼き屋。隣は古着屋と、健康茶の店、写真にある黄色い看板の「沖縄健康茶かわだ」が以前は3丁目にあった。
もともとは 戦後直ぐの頃、朝市が並んでた場所。古くからの店が多い。衣料品も、あでやかなブティックのような店ではなく、ミドル向けがほとんど。唯一 私に特に親切にしてくれた、喜界島出身のSさんが店長をしていた「バギー」という店だけが若年男性向けの商品を扱っていた。顧客も年配者がほとんど。若者や学生が駅への通路として利用するので、通行人はおおいのだが。
で、店主達も、なかなかのつわもの達。素直な性格?の私など、なんだか下手に見られているようで、馴染めないところもあった。年齢が近いSさん 隣のかわださんと店員のMさん 時計屋のお婿さん など 親しくさせていただき、助けてももらったが、大方の商店主からは、「あんな 商売では」と 蔑まされていたのだろう。
私が去った後、ここは環境が大きく変わった。新幹線の開通で駅が新しくなり、駅構内にショッピングモールが完成。ファッショナブルな店が沢山出店。鹿児島の有名菓子店が屋台を並べる区画ではお土産として求める客で終日賑わい。はたして一番街はどうなる?
2丁目はその一角を、一つのビルにした。両サイドに一棟づつ。その2階までが店舗用として作ったが、私が鹿児島にいた10年ほど前はほとんど空いたままだった。「バギー」や古着屋 衣料品安売りのみせも撤退。唯一あったスーパーもなくなった。
いま 鹿児島に行くとき 尋ねてみると、昔のままだ。懐かしい顔が、昔のままの店で見ることが出来る。2丁目のあたらしいビルがあっても、商店街の雰囲気はそのまま。ここは これでいいんだろう。ほとんど2代目になっているが、先代からのノウハウを受けついでいるのだろうか。でも 新しい感覚は取り入れ、商売の基本はそのままに。戦後、必死さを隠さず働いてきた親世代が築いた財産を優しい世代が工夫を凝らしより 親しみやすいものにしている。20年前 私の店を通り過ぎてた、若者達も いまは ミドルになって、やさしい商店街に親しんでいるのかも。